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沐英10 2代目・沐春のかっこよさ

2013-09-07 15:08:20 | Weblog
 写真は大理市内の徳義院という古いお寺の野外舞台で行われていた街の演芸会(2004年2月撮影)。人々がぺー(白)族風の民族衣装を着て、演技と踊りを披露している。

 昆明市内でも大理特産などという看板とともに食べ物などを売っている屋台のお姉さんは皆、こと白の上下にピンクで花の刺繍の入ったベストとタオル風帽子というかカチューシャを被った出で立ちが多い。これは大理の土産もの屋で売っている、ペー族の衣装。ポリエステル製。
 持っている傘は、おなじくシーサンパンナや各地の少数民族園で売られているタイ族の衣装に合わせた飾り傘だろう。
 娘にせがまれ、この大理の衣装を記念にと20元で購入し、すぐにその服を着て歩いていたら、欧米の観光客や中国の他地域の観光客に写真を撮らせてください、と撮られまくり、あめ玉までいただいていた。じつは日本人です、とはとても言い出せない雰囲気だった・・・。

 民族学の研究者で、雲南の研究をするからには現地の少数民族の女性と結婚しようと、大理の家付きの、この白とピンクのペー族民族衣装の人と結婚した人がいる。人生上々と思っていたら、漢族だったので驚いたそうだ。大理を雰囲気を盛り上げるための客寄せで、一家で経営する民宿へ宿泊客をいざなう戦略だったらしい。とくに家族の誰一人としてペー族の風習を生で知る人はいなかったそうだ。まあ、現在、お幸せなので、なにより。

 逆に私が行ったときには、普通のズボンと茶色のジャンバーのおじさんが、我が家全員が箸をうまく操る様子を見て、「俺はペー族だ。箸の使い方がうまくて、頭がいい点、油モノを好まない点が、日本人と我々の共通点だな」と、物知り顔で語っていた。ご高齢の方の藍染めの衣装以外はまあ、見た目を楽しむため、と思って割り切ろう。



【2代目・沐春】
 沐英亡き後、雲南統治者2代目となった沐英の息子・沐春の評判は上々でした。沐英に従って17才の時から従軍していた苦労人で、ために掃討戦の続く雲南での統治も難なくこなせたのです。

 屯田開墾した土地は計30万畝〔約183平方キロメートル。山手線の内側(63平方㎞)の約3個分〕とか。たとえば沐英存命中から始めた昆明の東隣の宜良県の開墾では、「鉄池河をうがち、良田数万畝、民衆5000余戸がその地で生業を行うようになった」と讃えられています(『明史』より。『宜良県志』にもこの箇所は引用され、宜良県発展の礎となったと記されている)。

 さらに頻繁に雲南各地の叛乱鎮圧のために出動していますが、なかでも洪武30年におこったミャンマー国境付近の麓川での叛乱の際に官軍の兵糧が尽きたときには、沐春が500騎で救出に向かい、最後にはそこの叛乱勢力を「潰」すことに成功したとか。
 なかなか画になりそうなかっこよさです。

 さて、この鎮圧では投降者が7万人ありました。明の官軍側は多くの犠牲を出し、苦渋もなめたことから、投降者を殺すことを願ったのですが、沐春は許可しませんでした。そのためについに首謀者が投降を願う事態になった、など官軍をしっかりと統率し、判断も確かな頼もしい様子が読み取れます。その沐春も治世7年、享年36才で亡くなります。(『明史』より)

 沐英に続き、沐春も比較的若い年令で亡くなるところに、中原とは違う原生林が広がり、山がちで、各酋族が割拠する雲南での統治の困難さがうかがわれます。 (つづく)


コメント
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