

上の写真はかつての雲南府城(明代の中心城)の一番重要な玄関口にあたる南門だった近日楼(2006年撮影)。昆明拡幅工事のために城郭は1923年に撤去されたが、近日楼は残り、長らく市場の建ち並ぶ商業地区となった。だが、それも60年代に撤去された。そこは現在、昆明中心部の大型デパートが建ち並ぶショッピングセンターとなっている。
写真の近日楼は、2005年に場所を南に改めて昔の写真をもとに再現したもの。かつて雲南府城内にあった東寺塔と西寺塔の間に収まり、周辺は昔の風情で新しく復元(?)された歩行者天国のショッピング街となっている。普通の店より値段が高いため、あまり人は歩いていない。昆明にはオリジナルを破壊して、清末以来の旧市街風を建設し、ショッピング街にするところがあまりに多い。
当時、「近日公園」とタクシーの運転手にいうと、中心街のデパートの建ち並ぶ元近日楼のあった場所に行く人と、近日楼を復元した場所に行く人の二通りが存在し、行き先の説明に窮した。
通りには清末民国期の写真にあった昆明の人々や遊びがブロンズ像となって復元され、設置されている。
下の写真は近日楼脇で熱心に太極剣を舞う人々。近日楼は人々の憩いの場所のシンボルともなっているのだ。
【明の重圧、民族の叛乱と馴れない風土】
さて、3代目は沐春の弟の沐晟。雲南を統治する西平侯爵として雲南鎮圧に明け暮れるものの、先の2代のように全勝することはなく、はっきり言って力不足でした。
田畑が増えるにつれて蓄財も賄賂も増えたものの、統治者となって一年ちょっとの正統4年(1440年)になくなります。
4代目の沐晟の子・斌の世代からは、明の功臣の子孫として都で生まれ育ったボンボンとなります。4代目も短命に終わり、嫡子のは幼児だったため、間に叔父二人の雲南統治がはさまるも、いずれも叛乱鎮圧に苦労して数年で死去。
4代目になるはずだった沐が幼児から青年に成長して7代目として成化三(1467)年春、都から雲南に赴きます。けれど地元の「蛮夷」がお祝いの品の生けにえを持ってきても、気持ち悪くて受け取ることができません。沐英から数えて4世代が経っていました。
私も4世代前は明治初期の人なので、そう考えると気質や風習が変わるのは仕方がないとしても、これで雲南の統治は大丈夫かと不安になります。
ただ、彼は当時の教養書の四書五経に通じ、詞や文章をよくするインテリでした。ミャンマーの酋長が酋長の兄の子を殺したと訴えがあったときには、沐は酋長を捕らえて誅殺したり、広西の土官(現地少数民族の有力者)が残虐で社会的な混乱を引き起こしているときには、流官という中央から派遣された役人に任せるなど、巧みに明朝の支配を推し進める腕前も示しました。
代が下がるに連れて、雲南には蓄財と名誉のために行ってやる、という雰囲気が漂い、人柄も傲慢に。12代目の昌祚などはほとんど災厄の塊です。雲南で外出した際、検事の楊寅秋が道を避けなかったという理由だけで、その車の運転手をむち打ちに。この事件は楊寅秋が朝廷に訴えたために発覚し、記録に残りました。さらに兄の田宅を奪い、罪人を匿い、子を殺そうとして最後には南京で獄死とあいなったのでした。 (つづく)