大都市の中・富裕層は、公園があれば太極拳やダンスを楽しんでいる。上海、天津、北京、雲南の大都市でも、朝と夕には必ず見られた。(2006年昆明にて)
【沐英の子ども達】
沐英には5人の男児がいました。一人は沐春、もう一人は沐春には子がなかったので彼の次に雲南を鎮守する西平侯爵になった沐晟、雲南都司事になった沐昂、早世した沐昶、駙馬都尉となった沐です。駙馬都尉とは皇帝の娘婿がなる職で、皇帝を警護、ときには影武者ともなる人物を指しました。
つまり、沐は明の第3代皇帝となった永楽帝の娘と結婚し、めでたく沐氏は皇帝の外戚となったのです。しかもタイミングがおそろしく、永楽帝が武力によるクーデターに成功して皇帝に即位した直後! 前の皇帝の功臣が大勢、処断されていく恐怖政治のただ中の永楽元年6月末でした。
永楽帝は政治感覚の明晰な人でしたから、明朝廷が沐氏一族の雲南統治力を評価し、どれほど必要としていたかがわかります。沐氏は雲南があったゆえに多くの明朝勃興期の功臣が失脚死するなかで、生き延びたのです。ただ、お嫁さんの常寧公主は結婚して6年と経たない22才で身罷りました〔洪武十九年(1386年)~永楽六年(1408年)〕
【武当太極拳にも関係が】
さて、現在、日本でも人気の高い太極拳。その太極拳の聖地の一つに武当山があります(1994年に世界遺産にも登録されている)。
太極拳には明の時代以降に始まった「武当太極拳」(内家拳)と、それ以前から盛んだったとされる少林寺に拠点を持つ「少林拳」(外家拳)に大きく分けられます。健康法で現在、人気の太極拳は、この武当派系なのです。
永楽帝は、鄭和の世界航海など数々の後世の人が度肝を抜く事業を遂行していますが、世界遺産となった武当山の一大道教寺院と家廟の建設もその一つ。その永楽帝の命を受けて、建設の指揮をとり、永楽帝の箔をつけるための瑞祥を採集し、さまざまな詩や書法作品などを残した人物こそが、沐英の第5子・沐なのです。今なお、武当山の山腹には豪快な彼の楷書を彫り込んだ文字が刻まれているそうです(楊立志・湖北省武当文化研究会会長の調査より)。
ちなみに『明実録』をみると、仕事は命令されるときっちりと果たす有能な人物でしたが(チベットの高僧ハリマを迎えに行く、南京後軍都督府事として強賊を捕らえる、国家的儀礼を滞りなく行うなど)、一方で後年には皇帝の娘婿の権力を乱用し、人妻を脅して妾にしたり、歓楽街で好き勝手したり、軍営をぶっこわしたり、国の倉庫から拝借したりとやりたい放題。
正統十年(1445年)7月には
「父の沐英が蓄えたあらゆる財産が雲南にあるので、その遺産を分けろ」
と皇帝(第6代正統帝。のちに土木の変で「中国統一王朝中、唯一野戦で捕虜となった皇帝」として知られることになる)に上奏し、
「ちょっとみっともないぞ」(という意図の長々しい返書)とのお言葉はあるものの、許可されています。
彼は長生きで娘婿になって50数年後に亡くなります。おそらく68才、と言われています(生年不明なので結婚年より割り出した)。沐氏一族も雲南にさえ行かなければ、本来、長寿の家系なのかもしれません。
参考文献:明代駙馬都尉沐與武當山
http://www.ctcwri.idv.tw/INDEXA3/A301/A30113%E6%B5%B7%E5%B3%BD%E5%85%A9%E5%B2%B8%E9%A6%96%E5%B1%86%E7%95%B6%E4%BB%A3%E9%81%93%E5%AE%B6%E7%A0%94%E8%A8%8E%E6%9C%83%E8%AB%96%E6%96%87%E9%9B%86/A3011341%E6%98%8E%E4%BB%A3%E9%A7%99%E9%A6%AC%E9%83%BD%E5%B0%89%E6%B2%90%E6%98%95%E8%88%87%E6%AD%A6%E7%95%B6%E5%B1%B1.htm
*雲南の歴史の話が長引いております。読者からは「早く食べ物の話題にして」という要望もいただいております。
雲南では「沐英に学べ」会議もあることですし、雲南の食文化にかかわる重要な時代なだけに、あと数回、ご辛抱いただければ幸いです。まだ、食べ物の話はまだまだありますので、お待ちください。
【沐英の子ども達】
沐英には5人の男児がいました。一人は沐春、もう一人は沐春には子がなかったので彼の次に雲南を鎮守する西平侯爵になった沐晟、雲南都司事になった沐昂、早世した沐昶、駙馬都尉となった沐です。駙馬都尉とは皇帝の娘婿がなる職で、皇帝を警護、ときには影武者ともなる人物を指しました。
つまり、沐は明の第3代皇帝となった永楽帝の娘と結婚し、めでたく沐氏は皇帝の外戚となったのです。しかもタイミングがおそろしく、永楽帝が武力によるクーデターに成功して皇帝に即位した直後! 前の皇帝の功臣が大勢、処断されていく恐怖政治のただ中の永楽元年6月末でした。
永楽帝は政治感覚の明晰な人でしたから、明朝廷が沐氏一族の雲南統治力を評価し、どれほど必要としていたかがわかります。沐氏は雲南があったゆえに多くの明朝勃興期の功臣が失脚死するなかで、生き延びたのです。ただ、お嫁さんの常寧公主は結婚して6年と経たない22才で身罷りました〔洪武十九年(1386年)~永楽六年(1408年)〕
【武当太極拳にも関係が】
さて、現在、日本でも人気の高い太極拳。その太極拳の聖地の一つに武当山があります(1994年に世界遺産にも登録されている)。
太極拳には明の時代以降に始まった「武当太極拳」(内家拳)と、それ以前から盛んだったとされる少林寺に拠点を持つ「少林拳」(外家拳)に大きく分けられます。健康法で現在、人気の太極拳は、この武当派系なのです。
永楽帝は、鄭和の世界航海など数々の後世の人が度肝を抜く事業を遂行していますが、世界遺産となった武当山の一大道教寺院と家廟の建設もその一つ。その永楽帝の命を受けて、建設の指揮をとり、永楽帝の箔をつけるための瑞祥を採集し、さまざまな詩や書法作品などを残した人物こそが、沐英の第5子・沐なのです。今なお、武当山の山腹には豪快な彼の楷書を彫り込んだ文字が刻まれているそうです(楊立志・湖北省武当文化研究会会長の調査より)。
ちなみに『明実録』をみると、仕事は命令されるときっちりと果たす有能な人物でしたが(チベットの高僧ハリマを迎えに行く、南京後軍都督府事として強賊を捕らえる、国家的儀礼を滞りなく行うなど)、一方で後年には皇帝の娘婿の権力を乱用し、人妻を脅して妾にしたり、歓楽街で好き勝手したり、軍営をぶっこわしたり、国の倉庫から拝借したりとやりたい放題。
正統十年(1445年)7月には
「父の沐英が蓄えたあらゆる財産が雲南にあるので、その遺産を分けろ」
と皇帝(第6代正統帝。のちに土木の変で「中国統一王朝中、唯一野戦で捕虜となった皇帝」として知られることになる)に上奏し、
「ちょっとみっともないぞ」(という意図の長々しい返書)とのお言葉はあるものの、許可されています。
彼は長生きで娘婿になって50数年後に亡くなります。おそらく68才、と言われています(生年不明なので結婚年より割り出した)。沐氏一族も雲南にさえ行かなければ、本来、長寿の家系なのかもしれません。
参考文献:明代駙馬都尉沐與武當山
http://www.ctcwri.idv.tw/INDEXA3/A301/A30113%E6%B5%B7%E5%B3%BD%E5%85%A9%E5%B2%B8%E9%A6%96%E5%B1%86%E7%95%B6%E4%BB%A3%E9%81%93%E5%AE%B6%E7%A0%94%E8%A8%8E%E6%9C%83%E8%AB%96%E6%96%87%E9%9B%86/A3011341%E6%98%8E%E4%BB%A3%E9%A7%99%E9%A6%AC%E9%83%BD%E5%B0%89%E6%B2%90%E6%98%95%E8%88%87%E6%AD%A6%E7%95%B6%E5%B1%B1.htm
*雲南の歴史の話が長引いております。読者からは「早く食べ物の話題にして」という要望もいただいております。
雲南では「沐英に学べ」会議もあることですし、雲南の食文化にかかわる重要な時代なだけに、あと数回、ご辛抱いただければ幸いです。まだ、食べ物の話はまだまだありますので、お待ちください。