石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

ニュースピックアップ:世界のメディアから(5月7日)

2010-05-07 | 今日のニュース
・イラク、新たにAkkasなど3ガス田を入札。6月技術資料開示、9月入札。
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OPEC50年の歴史をふりかえる(6)

2010-05-07 | OPECの動向

(注)本シリーズ1~9回は「MY LIBRARY(前田高行論稿集)」に一括掲載されています。

6.サウジアラビア・ヤマニ石油相の栄光と凋落(下)

 絶頂の後には必ず凋落が待っている。その兆候はすでに1975年にあった。この年の3月、ファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサイド王子に暗殺され、ハーリドが第4代国王に即位したが、この時ヤマニ石油相更迭の噂が流れた。サウド家内部にはファハド第二副首相(後の第5代国王)のように、ファイサル国王を後ろ盾として派手に動き回るヤマニに眉をひそめる王族が少なくなかったのである。

  さらに同年12月にウィーンで開催されたOPEC総会で彼はとんでもない事件に遭遇している。「ジャッカル」の名で知られた国際テロリストのカルロスによってOPEC総会議場が乗っ取られ、彼を含む11人の各国石油相が人質になったのである。カルロスの人質となった彼らはリビアのトリポリ、イラクのバグダッドと引き摺りまわされた。事件そのものはOPECと直接関係ないので詳細は省くが、ヤマニはこの間何度か命の危険に晒されている。

  これらの事件によってヤマニ石油相の地位が揺らぐことはなかった。さらに7年後にハーリド国王が亡くなった時も更迭の噂が流れたが、彼はやはり石油相の地位にとどまった。サウジアラビアの石油政策の責任者及びOPECのリーダーとしてヤマニは傑出した人物であり余人をもって代え難かったからである。

 二度にわたる石油ショックで石油価格が10倍以上に高騰し、1980年代前半の産油国には巨額のオイルマネーが流れ込んだ。サウジアラビアを例に取ると第一次オイルショック前の1972年に134億リアル(約36億ドル)に過ぎなかった同国の石油収入は1974年には7倍の942億リアルに急増、第二次オイルショック後の1980年には何と20倍以上の3,200億リアル(約850億ドル)に膨れ上がっている 。有り余るオイルマネーはサウジアラビア国内のインフラ整備に注ぎ込まれリヤドなどの大都市は面貌を一新した。オイルマネーによって生まれ変わったサウジアラビア。その陰の立役者がヤマニ石油相であることは誰の目にも明らかであった。

  しかし余りにも急激な価格高騰の結果、1980年代半ばには石油の需要が減退した。そしてOPECは需要の減退以上の打撃を受けた。と言うのは原油価格が上昇したことにより世界各地で石油開発ブームが起こり、或いは生産を停止していた米国テキサス州の油田が復活するなど、非OPEC諸国での生産が伸びたため、OPECの市場シェアが落ちたのである。OPECのシェアは1975年には世界全体の50%に達していたが、10年後の1985年には30%近くまで下落している。生産量で言えば1975年のOPEC生産量は2,750万B/Dであったものが、1985年には2,010万B/Dに落ちたのである(図http://menadatabase.hp.infoseek.co.jp/2-D-2-95aOilProduction1965-.gif参照)。

 OPECは生産縮小を迫られ1982年の第63回総会で生産の上限枠を1,800万B/Dとする各国毎の生産割り当て(Quota)制度を導入した。加盟国が等しく痛みを分かち合おうとするものである。しかしここで国家カルテルとしてのOPECの弱点が露呈した。OPECの加盟国の内実は一様ではない。石油収入にゆとりのあるサウジアラビアなどのような湾岸諸国がある一方、イラン、インドネシア、ナイジェリアなど人口が多いためある程度の石油収入が必要な国、或いは石油収入をばらまいて国民の人気取りに腐心する為政者の国もある。これらの国は総会で決議した割り当て量や価格を無視して抜け駆けの生産を行った。民間のカルテルであれば同業他社の抜け駆けに対しては強い制裁措置が課されるが、OPECの場合違反しても野放しである。このため市場は石油がだぶつき、価格の下落に歯止めがかからないと言う悪循環に陥った。

  そこでサウジアラビアは自らを犠牲にして市場の供給量をバランスさせるスィング・プロデューサーの役割を演じることになった(1983年3月OPEC総会)。この結果1981年にOPEC全生産量の約半分の900万B/Dを生産していたサウジアラビアは1985年の生産量がわずか215万B/Dに減少したのである。当然それに見合う石油収入も激減した。サウジ通貨庁(SAMA)によれば1981年に3,300億リアルであった同国の石油収入は、1986年には8分の1の420億リアルになってしまっている。サウジアラビアは石油政策のミスで深刻な財政危機に陥った。その責任者としてヤマニ石油相がやり玉にあがった。

  彼にとって悪いことにはその前年にファハドが国王に即位している。ヤマニと新国王の関係はそれまでの二代にわたる国王ほど良好なものではなかった。1986年10月、ヤマニは石油相を解任された。その後彼はロンドンに居を移し現在に至っている。25年もの長きにわたり石油相を務め輝かしい経歴を誇るヤマニは退任後も国内でしかるべき地位を得ることができたはずである。裏を返せば25年間、サウジアラビアの政治の中枢にいた彼は世界のエネルギー関係者だけでなくサウド家内部についても数知れない秘密を目撃したはずであり、サウジ政府としても口封じのため彼を国内に引き留めておく必要があったと考えられる。

  それでも彼はロンドンを選んだ。これはある意味でサウド家との妥協による政治亡命と言ってもよいかもしれない。ロンドン移住後、彼はエネルギーに関連した研究機関を自ら設立し、情報を発信し続けている。しかし彼の発言は平凡な評論家の域を出ず、彼の発する情報にはサウド王家の内部情報を含めて人々が本当に知りたいと思っている生臭い情報が一切ない。彼は当たり障りのない情報しか発信していないのである。

 「知りすぎた男」ヤマニは25年間にわたる石油相在任中にOPECあるいはサウジ国内で築き上げた人脈により退任後も石油及びサウド家について高度な情報網を持ち続けたはずである。しかし彼は微妙な問題については堅く口を閉ざしたままである。彼は秘密を漏らさないことと引き換えに、ロンドンにおける自由な生活と家族の安全を得たと考えられる。それは彼がサウジアラビアを離れる時、サウド家と交わした暗黙の約束なのではないだろうか。

(続く)

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前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601

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