2013.5.22
利権契約終了まで残り15年
1985年1月、5年間の現地勤務を終えて東京本社に帰任した。サウジアラビアとの利権契約満了の2000年2月28日まで残すところ15年となった。
5年前に途中入社した時、会社から英文と和文を併記した利権契約書の冊子を支給された。サウジアラビア用及びクウェイト用の2冊である。契約書には会社が両国政府に対して負うべき義務と権利が詳細に記されており、会社の「バイブル」とでも呼ぶべき代物である。契約はアラビア石油の前身の日本輸出入石油がサウジアラビア政府と1958年1月に、またクウェイト政府とは同年7月に締結したものである。創業者山下太郎の契約締結までの2年間の苦闘、そしてその後のアラビア石油設立の成功譚は伝説として広く語り継がれており、これにより山下太郎は若き日の満州での活躍から付けられた渾名「満州太郎」に新たに「アラビア太郎」の名前を冠せられるようになったのである。利権契約締結の年、彼は既に69歳だった。私事で恐縮だが現在の自分と同じ年齢である。年金生活を送る自らと比べ山下太郎がいかに傑物であったか驚嘆を通り越して言葉が出ない。
それはともかくサウジアラビア政府との利権契約書によれば契約期間は「商業量発見宣言の日から40年間」と定められている。商業量発見と言うのは試掘井で油田を掘り当てたのち生産テストを行い、商業的に採算が取れる十分な量の石油が存在するかどうかを確認することを意味する。石油の試掘はリスクが大きく掘っても石油が出ないことも多いが、たとえ石油が出たとしても埋蔵量が少なく採算が合わない場合もある。後に触れるが1989年に筆者がマレーシアのボルネオで試掘に立ち会った時、石油は出たものの商業ベースに乗るだけの生産量が見込めなかったため撤退した苦い経験がある。現在の石油開発はIT技術のおかげで成功の確率が高いが、当時の石油開発事業は井戸を千本掘っても3本しか当たらないという意味で「千三つ屋」などと蔑称され「ばくち」に近いものであった。
ところがアラビア石油は1960年2月28日に最初の試掘井で世界第一級のカフジ油田を掘り当て、商業量発見を高らかに宣言したのである。従ってサウジアラビアとの利権契約の期間はこの日から40年後、即ち2000年2月28日までと決まったのである。因みにクウェイトとの契約では期間は契約締結の1958年7月から44年半であり、2003年1月が契約終了期限とされた。
利権契約が2000年までであることは1976年の途中採用の面接試験で告知されていた。会社の命が有限だと聞かされて驚かなかった訳ではないが、当時会社の定年が他社と同様55歳であり、自分にとって西暦2000年は定年後の話であるためさほど切迫感を感じなかった。むしろ2000年になってもまだ定年に達しない新卒入社の後輩たちの運命がどうなるのか、と老婆心ながら心配であった。
もちろんそれまでも会社は黙って手を拱いていた訳ではない。千葉県袖ケ浦に富士石油を設立し、日本国内に足場を築いたこともその一つである。ただアラビア石油の企業理念はあくまで海外における石油開発を本業とし、カフジに続く第二、第三の油田を獲得することであり、或いは事業の多角化により総合エネルギー企業に脱皮することであった。そのためノルウェー沖の北海、米国メキシコ湾、中国渤海湾などで石油探鉱を行い、アフリカのニジェールでウラン探鉱作業を手掛けた。しかし結果的にはいずれの事業も軌道に乗らず、会社にはカフジ油田が残されただけであった。会社が21世紀以降も生き残る手立ては利権契約の延長しかないことが誰の目にも明らかであった。しかし経営陣にも社員にも(自分自身も含めてであるが)切迫感は乏しく、相変わらずのんびりしたムードが漂っていた。
それは中味が半分ほど残ったワインボトルの話にたとえることができよう。のんびり者の楽観論者なら「未だ半分残っている」と言い、焦燥感に駆られた悲観論者なら「あと半分しかない」と言う。どちらの言い分も正しい。アラビア石油の経営陣も社員もその多くは楽観論者であった。
(続く)
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