初出:2007.6.20
再録:2018.11.27
(第1回)サウド家のはじまり
(サウド家の紋章)
サウジアラビアはサウド家が支配する王制国家であり、その正式な国名は’Kingdom of Saudi Arabia’である。そもそも「サウジアラビア」とは「サウド家のアラビア」と言う意味であり、支配一族の名前が国名の一部をなしている国家は世界的にも珍しく、同国以外ではイスラームの開祖ムハンマドにつながる名門ハシミテ家の名を冠したヨルダン(Hashemite Kingdom of Jordan)だけであろう。
サウド家の歴史は18世紀初頭にさかのぼる[1]。始祖サウドは当時アラビア半島中央部、現在の首都リヤドのはずれにあるオアシス、ディルイーヤの支配者であった。同じ頃、アラーの唯一絶対性を説く「サラフィー運動」に傾注していた若いイスラーム法学者ムハンマド・ビン・ワッハーブ(*)がウヤイナ・オアシスで布教活動を行っていた。
(*)「ワッハーブの息子ムハンマド」の意味。「ビン」は息子を表す接頭辞であり「イブン」と発音することもある。娘の場合は「ビント」。アラブ人は通常このように自分の名前(First Name)の後に父親の名前(Second Name)、更には祖父の名前(Third Name)を付け、最後に定冠詞「al」の後に一族名(Family Name)を付する。
ムハンマドはマッカでイスラーム法学を学び、その後イラクのバスラに長期滞在したが、そこでシーア派の僧職者や信者が日常的に聖者崇拝・預言者崇拝を行っているのを目にした。これに反発したムハンマドは以後原始イスラーム復古のサラフィー運動にのめり込み、各地を巡り布教活動を行った。しかし彼はその過激思想ゆえに行く先々で地元の支配者と衝突、結局故郷ウヤイナに戻った。彼の布教活動は「ワッハーブ派」と称され、後にサウジアラビアの建国原理となったのである。
1725年にサウドが亡くなるとその息子ムハンマド・ビン・サウドは、ムハンマド・ビン・ワッハーブと盟約を結びアラビア半島中央部(ネジド地方)の部族制圧に乗り出した。二人のムハンマドは、宗教と政治を一体化して勢力を拡大したのである。これがサウド家の原型となる「第一次サウド王朝」であり、ムハンマド・ビン・サウドの3人の弟、スナイヤーン、マシャーリ、ファルハンの子孫は今でもそれぞれの名前を家名とするサウド家の有力王族である。第一次サウド王朝はムハンマドの長男サウド及び次男アブダッラーの四代で終わった。
19世紀初めにはアブダッラーの息子ファイサルが再び勢力を回復して第二次サウド王朝を樹立した。ファイサルはリヤドから紅海沿岸(ヒジャズ地方)に進出、当時オスマン・トルコの支配下にあったマッカ、マディナを支配するまでになった。ファイサルの二人の弟ジャラウィ及びアブダッラーの家系も有力な王族であり(アブダッラー系はトルキ家を呼称)、上記の3つの家系を含め、これら五つの家系はサウド家外戚の「五摂家」とでも言うべき存在として、その子孫はごく最近まで後継者問題を含めたサウド家一族の諸問題を協議する「王室諮問会議」(後述)のメンバーの一員に指名されていた[2]。
しかし第二次サウド王朝は短命に終わり、ファイサルの息子アブドルラハマンはオスマン・トルコの支援を受けたラシード家との戦いに敗れて1891年クウェイトに逃れた。アブドルラハマンは当時11歳の長男アブドルアジズを含む一族郎党と共にクウェイト首長サバーハ家の庇護のもとで亡命生活を送ったのである。この長男アブドルアジズ・ビン・アブドルラハマンこそ、後の「サウジアラビア王国」(第三次サウド王朝)の初代国王なのである。
因みにサウド家がクウェイトに亡命した100年後の1990年に、クウェイとのサバーハ家はイラクのサダム・フセイン大統領(当時)に追われ、サウジアラビアに亡命している(イラクのクウェイト侵攻)。この時サウド家はかつてのサバーハ家の恩義に報いるため、彼らを温かく迎え入れたのである。サバーハ家はサウジアラビア西部のタイフに亡命政権を樹立し、翌年の湾岸戦争で祖国に戻るまで、サウド家の全面的な支援を受けた。このようにサウド家とサバーハ家は深い因縁に結ばれていると言える。
(続く)
本件に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
荒葉一也
Arehakazuya1@gmail.com
(再録注記)
[2] 2006年に当時の第6代アブダッラー国王が創設した「忠誠委員会」により後継者(皇太子)の指名はアブドルアジズ初代国王(通称イブン・サウド)の子息とその子孫に限定されたため、スナイヤーンなどの五家の外戚は後継者選定メンバーから外れた。なお第6代サルマン(現)国王は忠誠委員会を骨抜きにして息子ムハンマドを強引に皇太子にしたとされる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます