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第2章 戦後世界のうねり:
057第三次中東戦争とナセルの死(1/3)
1964年に結成されたPLO(パレスチナ解放機構)は祖国の地パレスチナをイスラエルから奪回するための活動を開始した。当初活動の拠点はヨルダンのアンマンにおかれた。
この頃中東では、エジプトとシリアのアラブ連合結成(1958年)とその解消(1961年)、イラクとヨルダンのハシミテ王国連邦結成および同じ年のイラク革命による連邦解体(1958年)、イエメン内線(1962年)などアラブ諸国は内輪もめを繰り返していた。これを横目でじっと眺めていたのがイスラエルである。エジプト、シリア、イラクなど各国の独裁的指導者たちは自分たちの失政を糊塗し、あるいは権力を正当化するため自国民に向けて「イスラエルを地中海に突き落とせ」と声を張り上げた。独裁者が国民の目をそむけるためにヘイトスピーチによる外交的扇動を行うのは洋の東西を問わない。
一方のイスラエルも国内向けに亡国の危機キャンペーンを張った。時の首相は退役した隻眼の猛将モシェ・ダヤンを国防相に呼び戻した。ダヤンの戦略は先手必勝である。彼は世界第一級の諜報組織モサドが集めた周辺アラブ諸国の情勢を分析し、奇襲攻撃のタイミングを探った。
1967年6月5日午前8時を期してイスラエルの奇襲攻撃が始まった。目指す相手は国境を接するエジプト、ヨルダンおよびシリアである。まずシナイ半島のエジプト空軍基地を奇襲し、空爆で滑走路を使用不可能にするとともに、駐機していたソ連製戦闘機すべてを破壊した。寝覚めを襲われたエジプト側は全く反撃できなかった。イスラエル軍は怒涛のごとくシナイ半島を横断、スエズ運河の対岸に達したのである。
(続く)
荒葉 一也
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