本日の静岡新聞28面にて、「東海地震は今 沈黙の30年 第2章 新たな課題」企画の右下欄に「東海地震報道 見出しなどで誤解招く」との見出しで3月27日付朝刊一面に掲載した「東海地震説に『間違い』」の記事の謝罪を載せています。
「社内で記事を検証した結果、①見出しが記事内容を正確にとらえずことさら衝
撃的な表現を使ったために誤解を招いた②この元となった記事についても、東海地震の切迫性を提唱した石橋克彦神戸大学教授の「割れ残りの解釈(東海地震は一九四四年に起きた東南海地震の割れ残り)」についての思いを正しくくみ取れないまま記事にしたーとの判断に至リました。配慮に欠け混乱を招いたことをおわびします。」
この記事については取材を受けた石橋克彦神戸大学教授が地震のホームページにて、抗議していました。
これだけの大企画であったわけで、当然の事ながら「見出しについても」入念なチェックがなされていたものと推察されます。この謝罪文からは、何故にあのような見出しに至るのか、その経過を読みとることはできません。
朝日新聞が昨年の衆議院選挙時の長野県田中知事に関する誤報に関してはかなりのスペースを割いて事故検証記事を掲載しました。おそらく、取材体制から整理部に至る過程でのいくつかの問題が内在しているのではないかと思います。
静岡新聞社が、ある意味トップダウン的誌面作り・取材体制になっていると受けとらざるを得ない読者体験をしている者としては、是非とも、社内検証過程の公開報道を期待したいと思います。
※※石橋教授の06年4月2日の静岡新聞記事に対する指摘の抜粋
「当該記事のリード部分の発言Aは、「割れ残り」を第二の意味に使って、私が取材中に話したことです。しかし、それは、1976年当時に感じた大きな切迫感の説明に過ぎず、現在と将来の東海地震問題にとっては重要なことではありません。記事にするならば、科学欄あたりに書くべきことだと思います。ところが当該記事は、発言Aを針小棒大に膨らませ、以下に述べる誤った記述を付加し、不適切な大見出しを掲げて、「誤報」といわれても仕方のないものになっています。
リード部分は、石橋が「今年に入って、静岡新聞社の数回の取材に応じ、地震発生のメカニズムと切迫性についての当時の解釈が結果的に間違っていた-とする考えを明らかにした。」と、さも重大な特ダネのように書き始めていますが、この書き方がまず読者に誤解を与えるでしょう。また、ここに「地震発生のメカニズムと」と書かれているのは、副見出しに<発生、別メカニズムか>と書かれているのと並んで重大な誤りです。「東海地震説」は、1976年当時の大きな切迫感が間違っていただけで、他の部分は、発生メカニズムも含めて、現時点ではどこにも「間違い」はありません。
リードの最後に「学説の提唱者が自ら『間違い』を口にしたことで、東海地震対策が大きな転機を迎える可能性も出てきた。」とありますが、これも、従来の東海地震対策が間違っていたかのような誤解を与えるとんでもない書き方です。発言Aは現行の東海地震予知・防災事業に何の影響も与えないことですから、関係者は「笑止千万だ」と思うとともに、大きな迷惑を被ることでしょう。私も実に迷惑です。そして、以上を包括して括弧付きの「間違い」という言葉を見出しに使ったわけですが、これは致命的に不適当だと思います。「東海地震説は」でなくて「東海地震説に」というのが微妙ですが、姑息な言い回しです。」
「社内で記事を検証した結果、①見出しが記事内容を正確にとらえずことさら衝
撃的な表現を使ったために誤解を招いた②この元となった記事についても、東海地震の切迫性を提唱した石橋克彦神戸大学教授の「割れ残りの解釈(東海地震は一九四四年に起きた東南海地震の割れ残り)」についての思いを正しくくみ取れないまま記事にしたーとの判断に至リました。配慮に欠け混乱を招いたことをおわびします。」
この記事については取材を受けた石橋克彦神戸大学教授が地震のホームページにて、抗議していました。
これだけの大企画であったわけで、当然の事ながら「見出しについても」入念なチェックがなされていたものと推察されます。この謝罪文からは、何故にあのような見出しに至るのか、その経過を読みとることはできません。
朝日新聞が昨年の衆議院選挙時の長野県田中知事に関する誤報に関してはかなりのスペースを割いて事故検証記事を掲載しました。おそらく、取材体制から整理部に至る過程でのいくつかの問題が内在しているのではないかと思います。
静岡新聞社が、ある意味トップダウン的誌面作り・取材体制になっていると受けとらざるを得ない読者体験をしている者としては、是非とも、社内検証過程の公開報道を期待したいと思います。
※※石橋教授の06年4月2日の静岡新聞記事に対する指摘の抜粋
「当該記事のリード部分の発言Aは、「割れ残り」を第二の意味に使って、私が取材中に話したことです。しかし、それは、1976年当時に感じた大きな切迫感の説明に過ぎず、現在と将来の東海地震問題にとっては重要なことではありません。記事にするならば、科学欄あたりに書くべきことだと思います。ところが当該記事は、発言Aを針小棒大に膨らませ、以下に述べる誤った記述を付加し、不適切な大見出しを掲げて、「誤報」といわれても仕方のないものになっています。
リード部分は、石橋が「今年に入って、静岡新聞社の数回の取材に応じ、地震発生のメカニズムと切迫性についての当時の解釈が結果的に間違っていた-とする考えを明らかにした。」と、さも重大な特ダネのように書き始めていますが、この書き方がまず読者に誤解を与えるでしょう。また、ここに「地震発生のメカニズムと」と書かれているのは、副見出しに<発生、別メカニズムか>と書かれているのと並んで重大な誤りです。「東海地震説」は、1976年当時の大きな切迫感が間違っていただけで、他の部分は、発生メカニズムも含めて、現時点ではどこにも「間違い」はありません。
リードの最後に「学説の提唱者が自ら『間違い』を口にしたことで、東海地震対策が大きな転機を迎える可能性も出てきた。」とありますが、これも、従来の東海地震対策が間違っていたかのような誤解を与えるとんでもない書き方です。発言Aは現行の東海地震予知・防災事業に何の影響も与えないことですから、関係者は「笑止千万だ」と思うとともに、大きな迷惑を被ることでしょう。私も実に迷惑です。そして、以上を包括して括弧付きの「間違い」という言葉を見出しに使ったわけですが、これは致命的に不適当だと思います。「東海地震説は」でなくて「東海地震説に」というのが微妙ですが、姑息な言い回しです。」