イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「老子・荘子 中国の古典」読了

2013年04月08日 | Weblog
野村茂夫 「老子・荘子 中国の古典」読了

「大道廃れて仁義あり」というのが老子の本質を語る言葉だ。
老子の説く“道”というものがなくなると、仁義というようなものがもてはやされる。この“道”というのが何かというと、何もしないことだという。
何もしなければ何も考えなくていい・・。
老子というのはもともと治世の手法を説いたものだから、ちょっと違うが、「小さな政治」を薦めているようなものなのだろうか。

しかし、これが一般企業に当てはめるとちょっとおかしくなってしまうのだが、わが社では老子の思想をもった人が多数おられるようだ。「大道あって会社廃れし」というのだろうか。

荘子はどうだろう。
荘子の教えの柱の一つは、「万物斉同」という、すべてのものは多岐に変化しているがすべての根源は同じである。生も死も、栄光も挫折もすべて同じである。だからそんなことは気にしなくてもいいのだという論理だ。
死ぬことさえも恐れることはない・・・。

禅宗にある、まさに今のその環境に満足して生きなさいというという言葉がそのすべてを総合しているようだ。
しかし、人間というのは飽くなき欲望のおかげで快適で安全な生活を享受しているわけだから、そうも言っていられない。一方で原発の事故がどんな意味を持って起こってしまったのか、神様からのどんな啓示なのかはわからないが、「足るを知りなさい。」ということなのだろうか。

おそらくは人間が未来永劫、それこそ今から14億年先、太陽の核融合が進んで海が干上がったあとでも生き延びられる運命にあるのならやはり飽くなき欲望を発揮してくれればいいだろう。
しかし、原発事故が人間の能力の限界を示しているのなら、やっぱり「足るを知る」生き方に方向転換しなければならないんだろうな。

それがわかるまではやっぱり人間は前を向いて一生懸命走り続けなければならない運命にあるんだろうな。僕の会社はすでに老子の思想が行き届いているのではるか手前で干上がっているのは間違いないが・・・。
コメント
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