藤井 正雄 「高僧伝 (5) 法然 ひとすじの道 」読了
3月の中ごろくらいの新聞に、最近の教科書は法然より親鸞のほうが偉いような書き方をされてきたがそれを今後は改めるというような内容の記事が出ていた。
僕の家も浄土宗なので法然に関する本を選んで読んでみた。
以前にもこのブログに書いたことがあるが、僕もウチの宗派は浄土真宗だと思っていた。名号は同じ南無阿弥陀仏だし、紀州の傭兵集団、雑賀衆は門徒の人々で、僕の育ったところはその真っ只中だったものだから、ずっとそう思っていて、父親が死んだときに葬儀屋さんから宗派とお寺を教えてと言われ、本家のお寺の名前と浄土真宗ですと答えたら、そのお寺は浄土宗やで。と言われて初めて間違いを知ってしまった。そんなようなものだから世間的にも知名度は親鸞のほうが上なのは否めないというところだろう。
法然の出自は天皇家から続く名門で、源氏姓の一流でもあったそうだ。父親は政敵に暗殺されたが、今際の際に、「敵を恨むな。」と諭され、そのままかくまわれるように仏門に入ったそうだ。
平家が堕ちてゆく時代、都は戦や伝染病、飢饉で死人があふれ、その苦しみながら死んでゆく様を見てなんとか緩やかに死を迎える道はないだろうかと比叡山で勉強に明け暮れた。
ありとあらゆる経典を理解できる天才でたくさんの師匠に問答しながらその中で見出したのが専修念仏だった。その中には母のような凡人でもなんとか極楽浄土へ導いてあげる方法はないだろうかという考えもあったというのは母への愛もすごく強かったのだろう。
それまでの仏教は上流階級の人々のものであり、僧侶も厳しい修行の上に悟りを得るもので、民衆のためのものというよりも国家安泰や貴族の加持祈祷のためにあるようなものであったが、南無阿弥陀仏と念じるだけで阿弥陀如来の加護を受けて極楽浄土まで行けるというのは画期的でありそれに続く鎌倉仏教の嚆矢でもあった。
そういう意味では本当はもっと今の世の中でも知れ渡っていてもいいようなものだが、あとから出てきた親鸞のほうがよほど世間受けはよかったのだろう。
その理由のひとつとしては、法然という人はまじめすぎて、自分の宗派を大きくしようと(もともと自分が開祖だとも思っていなかったようなところもあるらしい。)いう野望みたいなものはまったくなかったということらしい。坊さんも偉くなってくると、大概はいい衣を着て、取り巻きがたくさんできてというところだろうが、法然は生涯墨染めの衣を着て質素な生活をしていたそうだ。だから、他の宗派と争うこともなく逆に流罪にされてしまうは、没後も墓から遺骨を盗まれそうになるようなことまで起こってしまった。
知恩院は大きな伽藍だが、これは江戸時代に建設されたものだ。
また、もともと日本に入ってきた宗教は中国で古くから伝わったものを受戒した僧侶が日本で広めていったものだが、そういうこともなかった。自分が学問してきた中でこれが一番と考えたのか導善の「観経疏(かんぎょうしょ)」であったので専修念仏に目覚めたのだが、それは学問として会得したことであって、宗教としての伝授というものがなかった。そういう意味でも正統性に難があったと思われたのかもしれない。まあ、ご本人が宗祖ではないと思っていたのなら、そんなことは何の問題でもなかったのだろうし。
ただ、奇跡はあった。500年前に中国で没した善導大師と夢の中での対話で専修念仏を世に広めよと諭されたといのうだ。
夢の中で出会ったという奇跡は奇跡だが、あまりセンセーショナルな感じもあまりしないし、それも後の人がなんとか正統性を作りたいという願いから作り出したものだったのかもしれない。
法然以前の浄土教の書物としては源信の「往生要集」があるが、これをたよりに善導大師にたどりついたということになっているけれども、伝記によってどちらを先に学んだかということもよくわかっていないそうで、自分をあまりひけらかさず、その生涯もはっきりわからないというのももったいない。
それよりも親鸞みたいに、肉も食うしエッチもしますみたいな感じのほうがインパクトがあったのかもしれない。浄土真宗で有名な教えのひとつは悪人正機説だがそれは法然も同じ考えで信徒になったひとの中にはとんでもない悪人もいたという記録も残っているらしい。
それも、善人でも成仏できるのだからなおさら悪人は当然成仏できるのだと言ったほうが聞く人はギョッとする。ものは言いようで人々に訴えられる度合いが違うということだろう。
しかしながら、やはり、法然の潔癖さや一途さ、そして多分、“いいひと”であったということのようなものを僕は支持したい。
ウチの仏壇にも阿弥陀如来様の両脇には法然上人と善導大師が祀られている。仏壇の前に行くときというのはお供え物のお菓子を物色する時くらいなのだが、極楽浄土へ成仏するためにももうちょっと真剣に阿弥陀様を心に念じて称名を唱えないといけないのだと改めて思うのだ・・・。
3月の中ごろくらいの新聞に、最近の教科書は法然より親鸞のほうが偉いような書き方をされてきたがそれを今後は改めるというような内容の記事が出ていた。
僕の家も浄土宗なので法然に関する本を選んで読んでみた。
以前にもこのブログに書いたことがあるが、僕もウチの宗派は浄土真宗だと思っていた。名号は同じ南無阿弥陀仏だし、紀州の傭兵集団、雑賀衆は門徒の人々で、僕の育ったところはその真っ只中だったものだから、ずっとそう思っていて、父親が死んだときに葬儀屋さんから宗派とお寺を教えてと言われ、本家のお寺の名前と浄土真宗ですと答えたら、そのお寺は浄土宗やで。と言われて初めて間違いを知ってしまった。そんなようなものだから世間的にも知名度は親鸞のほうが上なのは否めないというところだろう。
法然の出自は天皇家から続く名門で、源氏姓の一流でもあったそうだ。父親は政敵に暗殺されたが、今際の際に、「敵を恨むな。」と諭され、そのままかくまわれるように仏門に入ったそうだ。
平家が堕ちてゆく時代、都は戦や伝染病、飢饉で死人があふれ、その苦しみながら死んでゆく様を見てなんとか緩やかに死を迎える道はないだろうかと比叡山で勉強に明け暮れた。
ありとあらゆる経典を理解できる天才でたくさんの師匠に問答しながらその中で見出したのが専修念仏だった。その中には母のような凡人でもなんとか極楽浄土へ導いてあげる方法はないだろうかという考えもあったというのは母への愛もすごく強かったのだろう。
それまでの仏教は上流階級の人々のものであり、僧侶も厳しい修行の上に悟りを得るもので、民衆のためのものというよりも国家安泰や貴族の加持祈祷のためにあるようなものであったが、南無阿弥陀仏と念じるだけで阿弥陀如来の加護を受けて極楽浄土まで行けるというのは画期的でありそれに続く鎌倉仏教の嚆矢でもあった。
そういう意味では本当はもっと今の世の中でも知れ渡っていてもいいようなものだが、あとから出てきた親鸞のほうがよほど世間受けはよかったのだろう。
その理由のひとつとしては、法然という人はまじめすぎて、自分の宗派を大きくしようと(もともと自分が開祖だとも思っていなかったようなところもあるらしい。)いう野望みたいなものはまったくなかったということらしい。坊さんも偉くなってくると、大概はいい衣を着て、取り巻きがたくさんできてというところだろうが、法然は生涯墨染めの衣を着て質素な生活をしていたそうだ。だから、他の宗派と争うこともなく逆に流罪にされてしまうは、没後も墓から遺骨を盗まれそうになるようなことまで起こってしまった。
知恩院は大きな伽藍だが、これは江戸時代に建設されたものだ。
また、もともと日本に入ってきた宗教は中国で古くから伝わったものを受戒した僧侶が日本で広めていったものだが、そういうこともなかった。自分が学問してきた中でこれが一番と考えたのか導善の「観経疏(かんぎょうしょ)」であったので専修念仏に目覚めたのだが、それは学問として会得したことであって、宗教としての伝授というものがなかった。そういう意味でも正統性に難があったと思われたのかもしれない。まあ、ご本人が宗祖ではないと思っていたのなら、そんなことは何の問題でもなかったのだろうし。
ただ、奇跡はあった。500年前に中国で没した善導大師と夢の中での対話で専修念仏を世に広めよと諭されたといのうだ。
夢の中で出会ったという奇跡は奇跡だが、あまりセンセーショナルな感じもあまりしないし、それも後の人がなんとか正統性を作りたいという願いから作り出したものだったのかもしれない。
法然以前の浄土教の書物としては源信の「往生要集」があるが、これをたよりに善導大師にたどりついたということになっているけれども、伝記によってどちらを先に学んだかということもよくわかっていないそうで、自分をあまりひけらかさず、その生涯もはっきりわからないというのももったいない。
それよりも親鸞みたいに、肉も食うしエッチもしますみたいな感じのほうがインパクトがあったのかもしれない。浄土真宗で有名な教えのひとつは悪人正機説だがそれは法然も同じ考えで信徒になったひとの中にはとんでもない悪人もいたという記録も残っているらしい。
それも、善人でも成仏できるのだからなおさら悪人は当然成仏できるのだと言ったほうが聞く人はギョッとする。ものは言いようで人々に訴えられる度合いが違うということだろう。
しかしながら、やはり、法然の潔癖さや一途さ、そして多分、“いいひと”であったということのようなものを僕は支持したい。
ウチの仏壇にも阿弥陀如来様の両脇には法然上人と善導大師が祀られている。仏壇の前に行くときというのはお供え物のお菓子を物色する時くらいなのだが、極楽浄土へ成仏するためにももうちょっと真剣に阿弥陀様を心に念じて称名を唱えないといけないのだと改めて思うのだ・・・。