大岡 玲 「文豪たちの釣旅」読了
本書はシマノが発行する「フィッシングカフェ」に連載されていたものを1冊の本にまとめたものだ。
「文豪」と言われた作家が体験したであろう釣りを実際に体験してみようという企画になっている。
著者は師をことのほか崇拝している作家ということで師に関する著作を読んでいるとときたま出てくる人だ。
偶然かどうか、今朝の新聞に大岡信という詩人が亡くなったという記事がそれも1面に掲載されていた。文学者の死が新聞の1面に掲載されるというのはなかなかないことだろうと思う。(僕が購読しているのが朝日新聞であるということもあるとは思うが。)
著者はこの人の長男である。
企画が企画だけに文体もそれほど堅苦しくなく、芥川賞作家の文体とも思えない砕けたものだ。それはそれでいいのだが、そのわりに、突如として難しい単語が現れる。(少なくとも僕にとっては字引で調べないとわからないのだ。)その中には師が好んで使っていた言葉も使われているので、釣りをテーマにした文章だけによけいに思い入れが入っているのだろうか、そのアンバランスはどうもなじめない。
それを除けば、大学教授である作家の博識というか、どれだけの本を読んでいるのだろうと思うほど多彩な引用が出てくる。やはり、本を書くという人の頭の構造は一般人とはまったく違う。
引用されている本の中の数冊は僕も読んだことがあるのだが、そんな内容が入っていたという記憶はつゆほども残っていない。
まあ、他人のふんどしで相撲を取っている感があって本文は大して感慨がないのだが、出版にあたって書き下ろされた最後の章に、“釣人”、“釣り人”、“釣師”の違いというものが論じられている。
“師”という言葉は、古代中国の軍隊単位で、約2500名規模のものを指す言葉だった。今でも師団と言われているやつだ。いつしかその隊長が師と呼ばれるようになりそれが転じて人に何かを教える人を指す。だから、釣師は人に釣りを教えることができる人となる。
“釣り人”は現代かな使いで表現された、ただ釣りという行為をおこなっているだけの人。流れている死体なんかを運悪く見つけてしまってニュースに出てくる人。
“釣人”、これが難しい。人はある程度歳をとると人生の様々なことを体験し、何か心の中に穴が空いてきた。もしくは傷が目立ってきた。その穴を埋めるために、または傷を癒すために釣人は水辺に向かう。なんだか林房雄のパクリのような気もするが、著者は3つの釣りをする人をこのように分類する。
とすると、僕はいったい何者なのだろうか。人様に教えることができるほど腕が立つわけではなく、釣り人と言われるとプライドが傷つく。釣人というにはそんなに人生を深く思っているわけではなく、ただ、魚を際限なく釣りたいだけなのだ。
何か新しい言葉を見つけなければならないのだ。
本書はシマノが発行する「フィッシングカフェ」に連載されていたものを1冊の本にまとめたものだ。
「文豪」と言われた作家が体験したであろう釣りを実際に体験してみようという企画になっている。
著者は師をことのほか崇拝している作家ということで師に関する著作を読んでいるとときたま出てくる人だ。
偶然かどうか、今朝の新聞に大岡信という詩人が亡くなったという記事がそれも1面に掲載されていた。文学者の死が新聞の1面に掲載されるというのはなかなかないことだろうと思う。(僕が購読しているのが朝日新聞であるということもあるとは思うが。)
著者はこの人の長男である。
企画が企画だけに文体もそれほど堅苦しくなく、芥川賞作家の文体とも思えない砕けたものだ。それはそれでいいのだが、そのわりに、突如として難しい単語が現れる。(少なくとも僕にとっては字引で調べないとわからないのだ。)その中には師が好んで使っていた言葉も使われているので、釣りをテーマにした文章だけによけいに思い入れが入っているのだろうか、そのアンバランスはどうもなじめない。
それを除けば、大学教授である作家の博識というか、どれだけの本を読んでいるのだろうと思うほど多彩な引用が出てくる。やはり、本を書くという人の頭の構造は一般人とはまったく違う。
引用されている本の中の数冊は僕も読んだことがあるのだが、そんな内容が入っていたという記憶はつゆほども残っていない。
まあ、他人のふんどしで相撲を取っている感があって本文は大して感慨がないのだが、出版にあたって書き下ろされた最後の章に、“釣人”、“釣り人”、“釣師”の違いというものが論じられている。
“師”という言葉は、古代中国の軍隊単位で、約2500名規模のものを指す言葉だった。今でも師団と言われているやつだ。いつしかその隊長が師と呼ばれるようになりそれが転じて人に何かを教える人を指す。だから、釣師は人に釣りを教えることができる人となる。
“釣り人”は現代かな使いで表現された、ただ釣りという行為をおこなっているだけの人。流れている死体なんかを運悪く見つけてしまってニュースに出てくる人。
“釣人”、これが難しい。人はある程度歳をとると人生の様々なことを体験し、何か心の中に穴が空いてきた。もしくは傷が目立ってきた。その穴を埋めるために、または傷を癒すために釣人は水辺に向かう。なんだか林房雄のパクリのような気もするが、著者は3つの釣りをする人をこのように分類する。
とすると、僕はいったい何者なのだろうか。人様に教えることができるほど腕が立つわけではなく、釣り人と言われるとプライドが傷つく。釣人というにはそんなに人生を深く思っているわけではなく、ただ、魚を際限なく釣りたいだけなのだ。
何か新しい言葉を見つけなければならないのだ。