宮坂宥勝 「空海密教の宇宙―その哲学を読み解く」読了
本書は、真言密教思想や哲学を、両界曼荼羅を通して解説したものだ。
曼荼羅とは、物質的、思想的両面から宇宙、世界の広さを表したものである。なぜ、そう言うものを明示しなければならなかったか、それは自分の今いる場所、座標といってもいいかもしれないが、それがわかると自分が進むべき方向がわかるからではないだろうかと僕は考えた。自分の居場所と世界の広さを比較することで自分がどこまで大きくなれるかということが判断できる。言い換えると、世界を狭く認識してしまうとそこまでしか大きくなれない。半径10キロの世界しか知らないとそれなりの人間にしかなれないということだ。
だから曼荼羅を理解するということは宇宙と同じ大きさにまでなれるということだ。修行をするというのはきっとそういうことなのだろう。
真言密教の本尊、大日如来は宇宙そのものである。そして人の心には必ず仏心(大日如来)が隠れているけれども、人々がそれに気付かないのは様々な曇りのようなものに隠されているからである。そんな秘密にされた心の奥底をあらわにするために修行に励むということが、密教が密教という名前であるという理由のひとつでもある。
しかし、ヨーロッパの宗教には創造主が必ずいて世界を創造するわけで、それは唯物的な思想であるのに対して、仏教は観念的な思想であるので創造主がいない。すなわち形のあるものは創られなかったと考える。せっかく世界の広さがわかれば自分の立ち位置がわかるというのにその世界に形がないとその世界がわからないというので曼荼羅が作られたのだ。
そして、そこには様々なものが包含されている。清濁すべてだ。愛欲もあればそれを焼き尽くす劫火もある。
これはたしかに宇宙だ。そして生きることのすべても表されていると思う。浄土思想は死んでから極楽にいくためのことだけを考えるし、禅宗は欲望を捨てることで人生を楽に生きる方法を考える。しかし、密教は今をどうやって、何もかもに折り合いをつけてどうやって充実して生きるかという、他の仏教にはない現実的な思想であるように思う。
しかし、煩悩が渦巻く世界で自分の中の秘密の仏性を見つけ出すということは至難の技に違いない。
師がよく使った言葉に、「釣り師は心に傷があるから釣りにでかける。しかし彼は、その傷が何であるかわからない。」というものがあるが、これの意味がやっとわかった気がする。
これは釣り人自身が自分の仏性に気付かない様を言い表しているのだ。心の傷を修復できる唯一のものが仏心なのだろう。そして釣りに行くこと自体が修行であると言っているのに違いない。
それが的を射ていると考えた理由のひとつは、金剛界曼荼羅の真ん中の枠、ここは「成身会」というそうだが、千人の菩薩様が並んでいる四角の東西南北には釣り鉤、釣り糸、鎖、鈴を象徴した菩薩様がお座りなのだ。もちろん、魚を釣っているわけではなくて、迷える衆上を鉤で引っ掛け、紐でたぐり寄せ、鎖で縛り、鈴でその喜びを表しているというのだけれども、それの手段が魚釣りの道具というのはなんとも運命的ではないか。
ぼくの今年の釣行回数は60回に近づこうとしているけれども、仏性の陽炎も自分の中に見つけることができない。いったいどれだけの釣行を繰り返せばいいのだろうか・・・。
本書は、真言密教思想や哲学を、両界曼荼羅を通して解説したものだ。
曼荼羅とは、物質的、思想的両面から宇宙、世界の広さを表したものである。なぜ、そう言うものを明示しなければならなかったか、それは自分の今いる場所、座標といってもいいかもしれないが、それがわかると自分が進むべき方向がわかるからではないだろうかと僕は考えた。自分の居場所と世界の広さを比較することで自分がどこまで大きくなれるかということが判断できる。言い換えると、世界を狭く認識してしまうとそこまでしか大きくなれない。半径10キロの世界しか知らないとそれなりの人間にしかなれないということだ。
だから曼荼羅を理解するということは宇宙と同じ大きさにまでなれるということだ。修行をするというのはきっとそういうことなのだろう。
真言密教の本尊、大日如来は宇宙そのものである。そして人の心には必ず仏心(大日如来)が隠れているけれども、人々がそれに気付かないのは様々な曇りのようなものに隠されているからである。そんな秘密にされた心の奥底をあらわにするために修行に励むということが、密教が密教という名前であるという理由のひとつでもある。
しかし、ヨーロッパの宗教には創造主が必ずいて世界を創造するわけで、それは唯物的な思想であるのに対して、仏教は観念的な思想であるので創造主がいない。すなわち形のあるものは創られなかったと考える。せっかく世界の広さがわかれば自分の立ち位置がわかるというのにその世界に形がないとその世界がわからないというので曼荼羅が作られたのだ。
そして、そこには様々なものが包含されている。清濁すべてだ。愛欲もあればそれを焼き尽くす劫火もある。
これはたしかに宇宙だ。そして生きることのすべても表されていると思う。浄土思想は死んでから極楽にいくためのことだけを考えるし、禅宗は欲望を捨てることで人生を楽に生きる方法を考える。しかし、密教は今をどうやって、何もかもに折り合いをつけてどうやって充実して生きるかという、他の仏教にはない現実的な思想であるように思う。
しかし、煩悩が渦巻く世界で自分の中の秘密の仏性を見つけ出すということは至難の技に違いない。
師がよく使った言葉に、「釣り師は心に傷があるから釣りにでかける。しかし彼は、その傷が何であるかわからない。」というものがあるが、これの意味がやっとわかった気がする。
これは釣り人自身が自分の仏性に気付かない様を言い表しているのだ。心の傷を修復できる唯一のものが仏心なのだろう。そして釣りに行くこと自体が修行であると言っているのに違いない。
それが的を射ていると考えた理由のひとつは、金剛界曼荼羅の真ん中の枠、ここは「成身会」というそうだが、千人の菩薩様が並んでいる四角の東西南北には釣り鉤、釣り糸、鎖、鈴を象徴した菩薩様がお座りなのだ。もちろん、魚を釣っているわけではなくて、迷える衆上を鉤で引っ掛け、紐でたぐり寄せ、鎖で縛り、鈴でその喜びを表しているというのだけれども、それの手段が魚釣りの道具というのはなんとも運命的ではないか。
ぼくの今年の釣行回数は60回に近づこうとしているけれども、仏性の陽炎も自分の中に見つけることができない。いったいどれだけの釣行を繰り返せばいいのだろうか・・・。