イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「流れ施餓鬼」読了

2017年12月04日 | 2017読書
宇江敏勝 「流れ施餓鬼」読了

この本は著者が、同人誌「VIKING」へ投稿した短編を1冊の本にまとめたものだ。僕がこの本を手にしようと思ったのは、熊野地方を舞台に書かれたものだということはもちろんであるけれども、この同人誌は師が若い頃に参加していたものだったということも大きな理由だ。古くに投稿されたものをまとめたものかと思ったが、この同人誌、まだ続いているそうで、すでに800号を超えているそうだ。これはこれですごいことだ。

物語は、明治の終わり頃から終戦直後までの時代、「川」に寄り添って生きていた人々を淡々と描いている。その舞台となる川は日置川と熊野川である。
小説なのか、聞き書きなのか、それとも著者の回想録に思えるようなものもある。どの短編にも共通することは、川に寄り添って生きることに嫌悪するでもなく都会を目指すこともなく本当に淡々と生きていた人々を描いている。
主人公たちの職業は、団平舟と呼ばれる船を使って上流と下流を行き来する運送業や、渡し舟、女性たちは小さな商いをしている。
時代は進み、少しずつ陸上の運送に取って替わられようとしながらもかたくなに川での生活を守り続けている。しかし、この人たちはそれを時代に乗り遅れていると卑下するでもなくそれを当たり前のように生活を続けている。それどころか、そこに小さな希望さえも見つけようとしているのだ。
著者もそんな生き方をしていた人たちがこの熊野の地域に確かにいたのだということをはっきりと残さなければならないとこれらの物語を綴っているのだと思う。
自然に逆らうでもなく、自然に翻弄されることもあるけれどもそれも当たり前のこととして受け入れる。新宮というと、木材産業で繁栄を誇った町だから河口あたりではこの当時から都会的というか世俗的な世界ができていたと思うけれども、そこからわずか2,30キロメートル離れた上流では江戸の時代とあまり変わらないような生活が続いていたようだ。

都市の生活と田舎の生活。僕はどちらかというと田舎の生活にあこがれる。ロダンは、「都会は意思の墓場です。人の住むところではありません。」と言ったそうだ。「前年対比」、「対策」、「お客様は神様」・・・。都会の生活というのは自分で切り開く能力がなければそんな言葉が常に付きまとう。粘度の高い水の中を掻き進んでいるような感じだ。走っても走っても前に進まないのでエビみたいに後ろ向きにお尻を突き出して流れに逆らっている夢をよく見る。

日高川に釣りに行っていた頃、支流の入り口に数件民家が集まっていた場所があり、そこから奥に進んでいくとまたポツリと家が建っている。
庭に小さな畑があり、いろいろな野菜を植えている。車もあり、当然ながら電気もあったテレビもある。でも都会の生活に比べると寂しくもあり不便でもあるだろう。
あこがれるだけで実際やってみるととてもじゃないが無理だとなってしまうのか、それとも意外としっくりやっていってしまうのか。まあ、この歳で移住しようと考えることができるわけでもない。しかし、外から見ているとなんともうらやましい生活だと思ってしまう。
できることなら今の場所でそんな生活ができないものかと願ってしまうのは贅沢なのだろうか。野菜を作りながら漁師をやっているなんていうのが一番よさそうだ。しかしなぁ、釣りは仕事にできるほど上手くはないし、トウガラシは叔父さんに作ってもらって収穫しかできないからやっぱりだめだろうとやっぱり悲しくなる。

著者は同じような本をかなりの冊数出版しているようだ。これから読み進めてゆくのが楽しみだ。



コメント
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