イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

カメラも、目玉も・・・

2018年12月05日 | Weblog
前回の釣行のときに撮った写真を見てみると望遠で撮ったものに黒いしみのようなものが写っていた。



カメラのモニターを見てみると、確かにズームのレバーを望遠側に動かすと黒いしみが現れる。レンズが汚れていたかと思い、とりあえず拭いてはみたけれどもこれが取れない。レンズの筒の中にゴミが入ってしまったか、またよく見ると一番外側のレンズの表面には相当な傷が入っている。ひょっとしたら、この傷がレンズを望遠にすると浮かんでくるのだろうか・・。
困ったものだ。購入してから6年近く、防水防塵設計でもないカメラを海や山に持ち歩いていたのだからそれもいたし方ないのであろうか。それも当時の価格で1万円もしなかったのだから堅牢性というのも大したことがなかったのかもしれない。しかし、このカメラ、写真はきれいに写すことができた。一眼レフも持っているのだが、どうみてもこのカメラで撮った写真の方がきれいに見えて仕方がないのだ。修理に出すとどれくらいかかるかというのを調べてみたら、安くても12,000円はかかるようだ。買った値段よりも高くなると、う~ん、修理に出すのは難しいとなってくる。もったいない。そのまま使い続けるか、黒いしみを我慢し続けるか悩みどころだ。ズームをしなければ普通に写るのだから・・。


それが昨日。
そして今日、いつものくだらない会議に出席するために席に着いた午後1時30分その直後、左の目の左上のほうにこれまた黒い大きなしみが突然現れた。加齢による飛蚊症はずっと前からあって目の中を黒いもやもやが行ったり来たりしていたのだが、今度のやつは超大型だ。最初はセピア色のしみが水に流れて尾を引いた感じでぼ~っと現れてそれがしばらくしてだんだん固まってきて、今の状況は黒い丸になんだか濃い茶色の尻尾がついている。黒いイカが飛んでいるような感じだ。
メガネを通して見える光景はこんな感じだ。



見たくもないボスが目の前で苦虫を噛み潰したような顔をして構えているのがよくなかったのではないだろうかと思ったりしてしまう。
以前にも2回ほど違和感を感じたので眼科を受診したのだけれどもそこの医者は、「そんな細かいことばかり気にしやがって。」みたいなつれない対応だった。
歳も歳なんだから仕方がないと言われればそれまでだが、あまりにも頭のいい人たちは凡人の悩みや心配に共感してもらえるような暖かいこころをきっと持ち合わせていないのだといつも思ってしまう。


会議は上の空で、急いで事務所に戻ってとりあえずネットで調べてみると、「後部硝子体剥離」というものによく似てしまっている。飛蚊症に加えて光の点が見える場合は間違いないとも書いているのだが、まったくピンポンだ・・。ひどい場合だと網膜剥離につながると書いている。特に強度の近視のひとはそうなりやすいとも書いてあるので間違いないのではないだろうか。ないだろうかというか、おおかたは間違いないと書いているサイトもある。
とりあえず近いうちに眼科に行かねばと思い、いつ、どんな状態になったかを記録に残そうとこれを書いているのであるが、この先、どうなるのだろうか・・。
人間が生きてゆくにあたって、目が見えないというのは一番辛いのではないだろうかと常々思っているわけなのでこれはショックだ。

しかしまあ、カメラと目玉、偶然とはいえ、同時にそんな症状が出てくるとは・・。これも何かの啓示なのだろうか。
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「私の旧約聖書」読了

2018年12月05日 | 2018読書
色川武大 「私の旧約聖書」読了

著者は、阿佐田哲也というペンネームで、「麻雀放浪期」を書いた人である。この本は本名で書かれている。ちなみにペンネームの由来は、麻雀をやってて夜が明けてくると、「朝だ、徹夜だ。」とよく言っていたというところかららしい。

およそ信仰からは程遠いギャンブルの世界で名を成したひとからみる旧約聖書とはいったいどんなものであったのかという興味で手に取ってみた。

大部分はモーセ以降、再びイスラエルの民がカナンの地を追われるまでについていろいろ書かれている。
僕みたいな凡人は、聖書の中の登場人物は、そういう人なのだからそういう人なのだとしか思わなくて、プロファイリングみたいなことをしようなんて考えたこともなかったけれども、著者はまず、モーセというひとはどんな性格の人であったのだろうかというところからはじめている。

モーセはエジプトで奴隷にされていたイスラエル人のひとりだが、赤ちゃんの頃川に捨てられたところを王の娘に拾われて、そこで大きくなった。だから創世記に出てくる人々とは少しタイプを異にしている。善意の人であり、品格も高く、個人のスケールの中ではまことに申し分のない一生を送ることのできる人であったけれども、それだけに、自分の手に余る大きな事に対しては、内向的、傍観的になってしまう。
いわゆるナルシストだ。自分のバランスが崩れることを極端に嫌がり、自分の美意識の枠に入りきらないようなことにはしり込みしてしまう。
と分析している。

そんなモーセの前に神エホヴァが現れて、「私はお前の神である。民を率いてイスラエルへ戻れ。そこで幸せにしてやるからずっと私を奉り続けろ。」と言われてもなんでその役が僕なの??みたいな感じで、なかなかそれを受け入れることができないのだ。自分の中にはすでに自分の考えがあるのだから。

そして、イスラエルの地を得た民はそこで何世代も続いてゆくのだが、およそ神が必要なときは危機が訪れるときで、食べ物が豊富にあるときや敵が襲ってこないときは民も神様を崇めることを怠けるようになる。そうなると神様は困るのである。だからイスラエルの民をいじめて、やっぱり神様はいいだろうと再び崇めさせるように仕向ける。旧約聖書の列王記という項目にはひたすらその繰り返しが書かれているそうだ。

そういう物語のなかに著者は何を見たのか。筆者も小さい頃のコンプレックスからやはり自分の中に神を持ってしまった。そうなると他者との距離がどんどん遠くなる。集団の世界に入れなくなる。モーセは神の指示に従ってイスラエルを目指すわけだけれども、その葛藤はいかほどのものだっただろうかと、こういう見解になる。やはり自分ならモーセ以上にしり込みしてしり込みしてしまうのではないかと。

そして著者はひょんなことからギャンブルの世界に入り込むのであるが、ギャンブルは場が終わるごとにシャッフルしてカードが配りなおされる。それを列王記になぞらえている。
そこのところは勝負事にはまったくわからないのだが、著者がモーゼになぞらえている部分はこれはぼく自身のことでもあるのではないだろうかと思えてくるのである。

だから世間とうまく折り合いをつけることができないのだ・・・。
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