谷津矢車 「三人孫市」読了
著者のプロフィールを調べてみると、時代小説の世界ではいくつかの賞を取ったりしている人のようだ。雑賀孫市が主人公の小説を何冊か読んだが、いままでは調べても出てこない人ばかりであったことと比べると、司馬遼太郎や津本陽まではいかなくてもけっこう有名な人のようだ。
雑賀孫市は謎の多い人物なので様々な空想の世界の中で物語が作られるが、今回は複数の孫市が一度に存在したという設定のもとに書かれている。これは元々、「雑賀孫市」という名前は名跡として存在し、雑賀一族の統領が代々受け継いできたものだということをヒントにしているのだと思う。
雑賀一族は傭兵集団という側面を持っているので、雇われれば敵と味方に分かれて戦うこともあったらしい。(どこまで史実かは知らないが。)そういった真逆の立場に立つようなことが、複数の人格があってもいいだろうとなり、それなら同じ名前を名乗る人物が複数いてもいいだろうという想像の膨らみにつながっていったのかもしれない。
物語の中では、長男と次男のふたりが同じ名前を名乗ることで武勲が大きくなり、自分たちを利することになるというのでそんな名乗り方をしたということになっている。
主人公は3人の兄弟である。雑賀一族の統領のひとり、鈴木佐大夫の息子たちという設定である。長男の秀方は聡明ながら病弱、次男の重秀は体躯も大きく勇敢、三男の重朝は神秘的で他人を寄せ付けない雰囲気だが銃の名手という設定になっている。次男の重秀という名前は実在した名前のようだ。
雑賀一族は自分たちの生き残りを懸け、時には一丸となり、時には敵と味方に分かれながらも自分たちのための戦いを展開するという内容である。ちなみに、孫市が愛用したとされる「愛山護法」という銘の銃も3丁に分かれて登場する。
主人公たちはいつもながらのスーパースターでぶりで、長男は戦略立案の名手であり、その策はいつもズバリと当たる。愛機は銃身が2本ある「愛山護法・海」。連射ができるということが特徴である。次男の重秀は屈強で、ひとたび金砕棒を振り回すと敵兵が5人、10人と血まみれになって死んでゆく。普通の人間ではそこまでの力は出せないだろう。愛機は「愛山護法・陸」。銃身の直径は通常の倍以上。命中精度は低いがその破壊力は強力である。三男の重朝はまだ、7、8歳のころ、初めて銃を見たそのとき、何かに憑りつかれたように銃を扱い見事に鴉を打ち落とす。そしてその鴉には三本の足が生えていた。そこにこの三人の兄弟の運命が暗示されているのである。愛機は「愛山護法・空」。銃身の長さが通常の倍あり、射程距離と命中精度が高い。その後も腕を上げ、1発の銃弾で3匹のスズメを一度に打ち落とせるほどにまでなるのだが、まず、そんな芸当はスズメが立方体の箱の中に詰め込まれているような状況でも作らないかぎり無理だろう。しかしながらその腕前は数度にわたって信長の命を脅かすことになり、後に兄弟同士戦いという悲劇を生む。
雑賀庄の統領の使命として、長男の秀方はまずは領地を守ることこそが一番であると考える。病弱であるがゆえに戦場での働きはできないものだと悟り、戦術書を読み漁り、名高い軍師に教えを乞うことで軍略家として成長する。そのきっかけとなるのが、刀月斎という本願寺から流れてきた老人である。ボロを纏ってはいたが、腕利きの鉄砲鍛冶であった。刀月斎は雑賀庄に鉄砲と阿弥陀信仰をもたらしたことで雑賀庄に波乱が巻き起こる。「愛山護法」を造ったのも刀月斎である。
次男の秀重は秀方が考案した鉄砲の運用術を使いこなして名うての戦術家となる。生き残るために織田、羽柴の軍門に降った雑賀庄と本願寺との間に悩みながらも武士としての本分を全うすべく自分の信じた道を行こうとする。三男の重朝はそんな次男に付き従いながら自分の技術をさらに高める道を進むのだが、本願寺と織田家の軋轢から生まれた悲劇により二人の兄と争うことになる。
その悲劇とは、こんな内容である。
雑賀一族は織田信長と雑賀庄での合戦の和議の条件として本願寺には与しないという約定を飲む。しかし、統領のひとりである土橋平次はその約定を破り本願寺へ物資を流していた。雑賀庄を守るため、重方はやむなく平次を斬る。そして、その娘であり、鴉の巫である娘のさやの命も奪ってしまう。
秀方は非情なまでの決意で雑賀庄を守ろうとし、秀重はなりゆき上本願寺派を守るため信長、秀吉軍に戦いを挑む。そして、重朝は心に秘めた思いから悲しい復讐に燃えるというかたちで物語は進行してゆく。その思いとは、さやに対して、鴉の巫という窮屈な立場からいつかは自由にしてやると約束をしていたことであった。重朝はその死を知って怒りに震え、兄を仇として討つことを誓う。そしてそれは手段を択ばぬものであった。この、悲しい復讐劇が物語のクライマックスとなる。重朝は羽柴方に寝返り本願寺に味方する秀重を討ち、そしてまたさやを殺した長兄の秀方さえも狙うのである。
信長や秀吉にとっては雑賀一族などというのは地方の小さな豪族に過ぎず、たとえ戦場で苦杯をなめさせられたとしてもそれは一時のものであり世の中のすう勢を決するようなものでもない。今までの孫市が主人公の小説というと領地を守るための戦いと信長、秀吉に一矢報いるというような流れで書かれているが、この小説は3人の兄弟を登場させることでもっと小さな世界での戦い、すなわち、自分の名誉であったり恋焦がれる人への思いであったりのための戦いを書いているというのが大きな違いだ。
きっと、この時代でも、もっと時代が進んだ昭和の時代の戦争でも、大多数の人たちは大局などは別の世界のこととして、もっと小さな世界で自分たちのための戦いをしていたんだろうなとあらためて思わせる内容であった。戦争などというものは結局、政府なり、幕府なり、大名なりの欲望やエゴだけで始められるものだ。前線で戦っている人たちにはそんなことは関係ない。もしそれが正義の戦争だと信じているのであればそれはただ洗脳されているだけである。もし、そういう人たちに大義があるとすればその大義はもっともっと身近で小さなものである。そういうところを重朝というキャラクターを使ってうまく書いているなと思うのである。
最近「ちむどんどん」では、ここはおかしいとか、こんな展開はあり得ないと、「#ちむどんどん反省会」などと称していろいろ突っ込まれているように、主人公たちの射撃の腕や武勇伝を別にしてもこの小説にも細かな点でこれはおかしいのではないかというところがいくつかある。僕もそういったところを突っ込んでみようと思う。
まずひとつ目だが、この物語が動き始めるきっかけになる部分だ。先に書いた通り、秀方は長男ではあるが、病弱であるがゆえに戦場に出ることもままならず、家督を継ぐことを諦めているのだが、そこに本願寺から流れてきた刀月斎という老人が現れる。その登場シーンというのが、八咫烏の従者として巫の役割をしているさやにボロをまとった汚い姿で取りすがったところを捕らえられるという感じなのだが、その時は祭りの最中だということで手討ちにされるのを免れる。この領地には牢屋がない(ここも、戦国時代の傭兵集団の里に牢屋がないというのはおかしい・・)というので監視役として秀方が指名されるのだが、場面は変わって一応、体はきれいに洗われてそれなりの着物に着替えさせられている。そこで、「お前は力が欲しくないか。」と2丁の鉄砲を包みから取り出すのだが、ボロをまとった姿から着替えさせられているのだから、その時に持ち物も検査されているはずで、普通なら鉄と木でできた見たこともないような怪しいものは一体何かと尋問をされていてもおかしくないはずなのに、何故、そうはならずにその後に路上で秀方に見せることができたのか・・。この場面がなければ雑賀一族が鉄砲隊として戦国の世に名を上げることができなかったのだが、相当無理がある設定のように思うのだ。
ふたつ目は、いわゆる「雑賀川の戦い」だ。川底に壺を埋めて騎馬武者をパニックに陥れるという奇策が有名だが、この小説では普通の落とし穴となっている。空想は空想でよいのだが、この戦いは雑賀一族の知略の象徴だと僕は思っているのでやはりここはそのストーリーで書いてほしかった・・。
三つ目は、雑賀庄の秀方は織田方、弟の重秀は本願寺方に分かれた後のことだが、本願寺は降伏して顕如上人は鷺ノ森別院に隠れ、そこに重秀も同行するのだが、信長は執拗にその行方を追っている。しかし、雑賀庄と鷺ノ森というのは目と鼻の先というか、鷺ノ森も雑賀庄の一部であるにも関わらず、重方たちはその存在にまったく気が付いていない様子なのだ。これだけの高僧と屈強な武士が一緒のところにいれば、すぐに噂が広がって見つかってしまうと思うのだが・・。
と、もちろん、この小説は100%空想で書かれているのでそれはそうなっているのだからそう読んでおけばいいのだが、ひねくれた性格の僕はどうしてもそういうところを突っ込みたくなるのである・・。
著者のプロフィールを調べてみると、時代小説の世界ではいくつかの賞を取ったりしている人のようだ。雑賀孫市が主人公の小説を何冊か読んだが、いままでは調べても出てこない人ばかりであったことと比べると、司馬遼太郎や津本陽まではいかなくてもけっこう有名な人のようだ。
雑賀孫市は謎の多い人物なので様々な空想の世界の中で物語が作られるが、今回は複数の孫市が一度に存在したという設定のもとに書かれている。これは元々、「雑賀孫市」という名前は名跡として存在し、雑賀一族の統領が代々受け継いできたものだということをヒントにしているのだと思う。
雑賀一族は傭兵集団という側面を持っているので、雇われれば敵と味方に分かれて戦うこともあったらしい。(どこまで史実かは知らないが。)そういった真逆の立場に立つようなことが、複数の人格があってもいいだろうとなり、それなら同じ名前を名乗る人物が複数いてもいいだろうという想像の膨らみにつながっていったのかもしれない。
物語の中では、長男と次男のふたりが同じ名前を名乗ることで武勲が大きくなり、自分たちを利することになるというのでそんな名乗り方をしたということになっている。
主人公は3人の兄弟である。雑賀一族の統領のひとり、鈴木佐大夫の息子たちという設定である。長男の秀方は聡明ながら病弱、次男の重秀は体躯も大きく勇敢、三男の重朝は神秘的で他人を寄せ付けない雰囲気だが銃の名手という設定になっている。次男の重秀という名前は実在した名前のようだ。
雑賀一族は自分たちの生き残りを懸け、時には一丸となり、時には敵と味方に分かれながらも自分たちのための戦いを展開するという内容である。ちなみに、孫市が愛用したとされる「愛山護法」という銘の銃も3丁に分かれて登場する。
主人公たちはいつもながらのスーパースターでぶりで、長男は戦略立案の名手であり、その策はいつもズバリと当たる。愛機は銃身が2本ある「愛山護法・海」。連射ができるということが特徴である。次男の重秀は屈強で、ひとたび金砕棒を振り回すと敵兵が5人、10人と血まみれになって死んでゆく。普通の人間ではそこまでの力は出せないだろう。愛機は「愛山護法・陸」。銃身の直径は通常の倍以上。命中精度は低いがその破壊力は強力である。三男の重朝はまだ、7、8歳のころ、初めて銃を見たそのとき、何かに憑りつかれたように銃を扱い見事に鴉を打ち落とす。そしてその鴉には三本の足が生えていた。そこにこの三人の兄弟の運命が暗示されているのである。愛機は「愛山護法・空」。銃身の長さが通常の倍あり、射程距離と命中精度が高い。その後も腕を上げ、1発の銃弾で3匹のスズメを一度に打ち落とせるほどにまでなるのだが、まず、そんな芸当はスズメが立方体の箱の中に詰め込まれているような状況でも作らないかぎり無理だろう。しかしながらその腕前は数度にわたって信長の命を脅かすことになり、後に兄弟同士戦いという悲劇を生む。
雑賀庄の統領の使命として、長男の秀方はまずは領地を守ることこそが一番であると考える。病弱であるがゆえに戦場での働きはできないものだと悟り、戦術書を読み漁り、名高い軍師に教えを乞うことで軍略家として成長する。そのきっかけとなるのが、刀月斎という本願寺から流れてきた老人である。ボロを纏ってはいたが、腕利きの鉄砲鍛冶であった。刀月斎は雑賀庄に鉄砲と阿弥陀信仰をもたらしたことで雑賀庄に波乱が巻き起こる。「愛山護法」を造ったのも刀月斎である。
次男の秀重は秀方が考案した鉄砲の運用術を使いこなして名うての戦術家となる。生き残るために織田、羽柴の軍門に降った雑賀庄と本願寺との間に悩みながらも武士としての本分を全うすべく自分の信じた道を行こうとする。三男の重朝はそんな次男に付き従いながら自分の技術をさらに高める道を進むのだが、本願寺と織田家の軋轢から生まれた悲劇により二人の兄と争うことになる。
その悲劇とは、こんな内容である。
雑賀一族は織田信長と雑賀庄での合戦の和議の条件として本願寺には与しないという約定を飲む。しかし、統領のひとりである土橋平次はその約定を破り本願寺へ物資を流していた。雑賀庄を守るため、重方はやむなく平次を斬る。そして、その娘であり、鴉の巫である娘のさやの命も奪ってしまう。
秀方は非情なまでの決意で雑賀庄を守ろうとし、秀重はなりゆき上本願寺派を守るため信長、秀吉軍に戦いを挑む。そして、重朝は心に秘めた思いから悲しい復讐に燃えるというかたちで物語は進行してゆく。その思いとは、さやに対して、鴉の巫という窮屈な立場からいつかは自由にしてやると約束をしていたことであった。重朝はその死を知って怒りに震え、兄を仇として討つことを誓う。そしてそれは手段を択ばぬものであった。この、悲しい復讐劇が物語のクライマックスとなる。重朝は羽柴方に寝返り本願寺に味方する秀重を討ち、そしてまたさやを殺した長兄の秀方さえも狙うのである。
信長や秀吉にとっては雑賀一族などというのは地方の小さな豪族に過ぎず、たとえ戦場で苦杯をなめさせられたとしてもそれは一時のものであり世の中のすう勢を決するようなものでもない。今までの孫市が主人公の小説というと領地を守るための戦いと信長、秀吉に一矢報いるというような流れで書かれているが、この小説は3人の兄弟を登場させることでもっと小さな世界での戦い、すなわち、自分の名誉であったり恋焦がれる人への思いであったりのための戦いを書いているというのが大きな違いだ。
きっと、この時代でも、もっと時代が進んだ昭和の時代の戦争でも、大多数の人たちは大局などは別の世界のこととして、もっと小さな世界で自分たちのための戦いをしていたんだろうなとあらためて思わせる内容であった。戦争などというものは結局、政府なり、幕府なり、大名なりの欲望やエゴだけで始められるものだ。前線で戦っている人たちにはそんなことは関係ない。もしそれが正義の戦争だと信じているのであればそれはただ洗脳されているだけである。もし、そういう人たちに大義があるとすればその大義はもっともっと身近で小さなものである。そういうところを重朝というキャラクターを使ってうまく書いているなと思うのである。
最近「ちむどんどん」では、ここはおかしいとか、こんな展開はあり得ないと、「#ちむどんどん反省会」などと称していろいろ突っ込まれているように、主人公たちの射撃の腕や武勇伝を別にしてもこの小説にも細かな点でこれはおかしいのではないかというところがいくつかある。僕もそういったところを突っ込んでみようと思う。
まずひとつ目だが、この物語が動き始めるきっかけになる部分だ。先に書いた通り、秀方は長男ではあるが、病弱であるがゆえに戦場に出ることもままならず、家督を継ぐことを諦めているのだが、そこに本願寺から流れてきた刀月斎という老人が現れる。その登場シーンというのが、八咫烏の従者として巫の役割をしているさやにボロをまとった汚い姿で取りすがったところを捕らえられるという感じなのだが、その時は祭りの最中だということで手討ちにされるのを免れる。この領地には牢屋がない(ここも、戦国時代の傭兵集団の里に牢屋がないというのはおかしい・・)というので監視役として秀方が指名されるのだが、場面は変わって一応、体はきれいに洗われてそれなりの着物に着替えさせられている。そこで、「お前は力が欲しくないか。」と2丁の鉄砲を包みから取り出すのだが、ボロをまとった姿から着替えさせられているのだから、その時に持ち物も検査されているはずで、普通なら鉄と木でできた見たこともないような怪しいものは一体何かと尋問をされていてもおかしくないはずなのに、何故、そうはならずにその後に路上で秀方に見せることができたのか・・。この場面がなければ雑賀一族が鉄砲隊として戦国の世に名を上げることができなかったのだが、相当無理がある設定のように思うのだ。
ふたつ目は、いわゆる「雑賀川の戦い」だ。川底に壺を埋めて騎馬武者をパニックに陥れるという奇策が有名だが、この小説では普通の落とし穴となっている。空想は空想でよいのだが、この戦いは雑賀一族の知略の象徴だと僕は思っているのでやはりここはそのストーリーで書いてほしかった・・。
三つ目は、雑賀庄の秀方は織田方、弟の重秀は本願寺方に分かれた後のことだが、本願寺は降伏して顕如上人は鷺ノ森別院に隠れ、そこに重秀も同行するのだが、信長は執拗にその行方を追っている。しかし、雑賀庄と鷺ノ森というのは目と鼻の先というか、鷺ノ森も雑賀庄の一部であるにも関わらず、重方たちはその存在にまったく気が付いていない様子なのだ。これだけの高僧と屈強な武士が一緒のところにいれば、すぐに噂が広がって見つかってしまうと思うのだが・・。
と、もちろん、この小説は100%空想で書かれているのでそれはそうなっているのだからそう読んでおけばいいのだが、ひねくれた性格の僕はどうしてもそういうところを突っ込みたくなるのである・・。