イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「宇宙・肉体・悪魔【新版】 理性的精神の敵について」読了

2022年08月21日 | 2022読書
J・D・バナール/著 鎮目恭夫/訳 「宇宙・肉体・悪魔【新版】 理性的精神の敵について」読了

タイトルを見てみると、なんだか落語の三題噺のようにも思える。“悪魔”という言葉が気になり、こういう言葉がタイトルに入っているとなるとおそらくは科学と哲学に関するような内容だろうと読み始めたのだが、そういうものではなく、人類社会の未来予想というような内容であった。
著者は、X線による結晶構造解析の第一人者であり、この本は1929年に書かれたものだそうだ。日本語訳が最初に出版されたのは1972年、そしてこの本は復刻版として新たに2020年に出版されたものだ。1929年というと、相対性理論や量子論はすでに発表されていたが、著者の研究がタンパク質やDNAの分子構造を解明するのに貢献するのはもっと先のことになる。
そんなに古い本を復刻する意味があるのだろうかと思うのだが、これには多分、二つの意義があるのだろうなと思った。
ひとつは、この本に書かれている未来というものが今の時代になってそれが実現しそうな時代にいよいよ入ってきている。その時に人類はどういう心構えをしておくべきなのかという問いかけをするためではないかということ。もうひとつは、この本に書かれていることが数々のSF小説や映画、アニメのネタ元になっていたのではないかということをもう一度知らしめたいという、出版を企画したひとの意思があったのではないかということである。

この本の主な内容は、人類の新しい活動拠点として宇宙を取り上げ、そのためには人体その物の改変が必然となってくるというものだ。そして、その進化の妨げになるものは何かということを示している。
地上以外の活動拠点として地底都市や海底都市を提示するのではなく、空気と重力のない宇宙にスペースコロニーを建造して生活拠点とするということをこの時代に提案しているというのが現実の流れに合致している。これが著者の科学に対する合理的な見方の正しさを示しているし、そういった環境に適応するためには肉体も変わっていかざるを得ないという考えも長く無重力で生活してゆくと筋肉などさまざまな部分に重力下では見られない変化が短時間で現れるという事実とも合致している。
そしてそれは自然な進化の過程を待つのではなく人間自らが肉体改造しなければならないというのだが、さすがに、宇宙開発のために肉体改造をするというところまではいかないが、人間の寿命を延ばすために臓器の一部を作ったり、欠損部分を補うための、例えば聴覚や視覚を肩代わりするシステムなどは実用化されつつある。
究極は円筒に入った脳みそだそうだ。目や耳などの感覚器官や手足などの触覚器官はすべて機械化され、脳と分離される。すべての外部情報は電気信号として筒の中に入っている脳に送られ知覚として認識されるというのだ。宇宙で暮らすにはこの形がもっとも合理的で太陽圏も越えていけるのだという。
また、知性の進化としては複合頭脳、群体頭脳といった名前のものが想像されているが、これなどもインターネットがその一部を担い始め、メタバースが進化すると本当に意識や知性が、それが他人のものなのか自分のものなのかの区別がつかなくなってくるのかもしれない。

そんな時代を目の前にして、人類はどう考えるべきかというヒントは「悪魔」や「敵」という部分に隠されている。この本でいう「悪魔」という言葉の使われ方は、こういった人類の進歩と進化を阻むもの、それが「悪魔」であり、「敵」だと書かれている。
著者は科学者であるので、基本的には科学の進歩はよいことだと思っているのであろうから、その進歩を阻むものは、『創造的な知的思考を維持する能力の喪失か、または創造的な思考を人類の進歩に適用する願望の欠如、もしくはこの二つの両方の合わさったものである。』とかなり手厳しい書き方をしている。
そして、具体的には、専門分化、自然界の複雑さ、化学への幻滅、天才と大衆との軋轢、政治的要因と歴史の循環、田園牧歌か、知的進化かといったことがその阻害要因として挙げられると書いている。
科学知識が増大すると専門分化が避けられないが、他の分野に無知でいるようになるとその進化が妨げられ、人間の心理的、社会的な部分、今のままでいいのだという考え、進歩的な考えに対するアレルギーや権威主義もその妨げとなる。そういったことから最悪の場合、進化に乗る人と乗らない人の二極化が起こるかもしれないとまで予言している。
この辺もなんだか当たっているような気がする。ちょっと意味が違うかもしれないが、時代の波に乗れる人と乗れなかった人の間では貧富や情報の格差が起こり、そういったことから降りて田舎暮らしを楽しむというのもひとつのトレンドとなっている。そういった人たちは肉体改造やましてや宇宙への進出など考えたこともないだろうし、寿命がくればそこで終わるのが人間らしいのだと思うだろう。
『一つの時代が創造的であるか否かを真に決定するのは希望である。ところが、どんな時代にも社会における希望の存在そのものは、まだ探られていない多くの心理的、経済的および政治的な要因に依存する。』のである。
そして、そのどちらもが選択としては間違っていないのだろうと言えるのであるから難しい。
ひとつ、著者の考えとして興味があったというか、きっとそうなんだろうなというものは、こういった進化をけん引しやすい社会体制は社会主義国家であると書いていることだ。そしてその先には統治者が科学者に引き継がれることが望ましいというのだ。
なるほど、自由主義の世界では必ずラディカルなことには反対する勢力が存在し、それが進化の障害となる。社会主義では方向性が決まればそれがどんなことであれすべての人がそれに従わねばならないから資本はすべてそこに注ぎ込まれる。習近平が科学に理解のある人かどうかは知らないが、はやり宇宙を制するのも中国なのかもしれない。
しかし、重力のない世界で進化の仕方を間違うと、頭だけが大きくて胴体と腕と足がヒョロヒョロのクラゲみたいな見た目になってしまうのではないかと考えると、僕は自由主義の社会で生きていることに感謝したいと思うのだ。

様々なSFのネタ元としてはどうだろう。僕はSFのネタというのは哲学の世界から取り出したものと思っていたけれども、宇宙への進出や肉体改造、複合頭脳や群体頭脳といったキーワードはガンダムやエヴァンゲリオンのプロットそのままのように思える。マトリックスも攻殻機動隊もしかりだ。また、進化と現状維持との間に揺れる心理はArcの中に出てくる考え方に一致する。
指導者が科学者というのは「未来少年コナン」の世界だ。宮崎駿もこの本を読んだことがあったのかもしれない。
もちろん、様々な情報を総合するとこういった考え方というものは浮かび上がってくるだろうとも考えられるが、それは先行者利得というもの。1929年に先にこんな本が書かれていたという事実があると、原作者たちはみんなこの本の存在を知っていたと言われても違いますとは言えないような気がする。

たった100ページの本文だが、確かに科学史の中ではエポック的な1冊であったのかもしれない。

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