イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「天上の歌―岡潔の生涯」読了

2022年08月22日 | 2022読書
帯金充利 「天上の歌―岡潔の生涯」読了

岡潔という人を知っているだろうか・・。数学者で「多変数複素函数論」というまったく意味が分からない論理を解明した人だそうだ。
どうしてそんな人に興味を持ったかというと、和歌山にゆかりのある人で、この人の書いたエッセイというのはものすごく評価されていたということを知ったからなのである。
1901年、生まれは大阪市だが、父親の実家が紀見峠にあり、父親が本家を継ぐために幼くして和歌山に住むようになる。
京都帝大に進学するまでは和歌山で暮らし、卒業後は京大の講師になり途中、フランスへ留学。そこで中谷宇吉郎やその弟で考古学者であった中谷治宇二郎と親交を結ぶ。
帰国後、広島文理科大学助教授となり、6年後に休職し和歌山に戻る。
その後は無職のまま和歌山で研究生活を送り、「多変数複素函数論」というものをまとめあげたそうだ。この問題はものすごく難題で普通ならひとりの力では成し遂げられないような偉業なので外国の数学者たちは岡潔というのは数学者の集団のペンネームだと思ったくらいだそうだ。
この業績が認められ1960年に文化勲章を受けたことで一躍日本でも有名な学者となったらしい。元々が難解で一般人受けしない業績だったのでそれまではまったくの無名だった。
その後、毎日新聞に連載されたエッセイ「春宵十話」が話題になり、一般にも知られる学者となっていたそうだ。

研究のために助教授の食を休職し収入が途絶え、親から相続した田畑を売りながら生活していたというのだからストイックというか、ちょっと変わったひとであったようである。
助教授でありながら、自分の研究優先で教育には身が入らず、評判は悪く、さらに、後にはすごい論文を発表することになるのだが自分の研究はまだまだこんなものではないと、当時はまったく論文を発表することもなかったらしい。しかし、そんなことは偉人伝にはよくあることで、この伝記を読んでいる限りにおいては、僕自身はそんなに大変人であるというような感じは受けなかったのであるが、文化勲章を受けた直後はその業績よりも奇行のほうに注目されたというようなことが書かれていた。その象徴が表紙の写真である。これは編集者に望まれて撮った写真だそうだが、世間が見る岡潔はこんな感じの人であると編集者も思っていたということだろう。一緒に写っている子犬は近所の野良犬で飼い主がおらず、誰かれなくもらえる餌で暮らしていたそうだが、この写真をきっかけにきちんとした飼い主が決まったというので、岡潔は変な写真を撮った甲斐があったと言ったそうだが、この人は世間が思うほどの変人でもなかったということだろう。
こういうのはなんとも日本の国らしいと思う。しかし、年月が過ぎても未だにそういうところは変わっていないというのは面白いというか呆れる。

収入の面では、手を差し伸べてくれる友人たちがおり、中谷宇吉郎は北海道帝国大学理学部研の究補助嘱託の職を紹介し、秋月康夫という京大時代からの友人は奈良女子大学理家政学部教授の職を紹介してもらったということだ。母校の京大からも学位を得ることができた。
広島時代はともかく、奈良女子大学時代にはちゃんと教育者としての仕事もこなし、女性に数学を教えるためにはどうすればよいかということに真剣に取り組んだそうだ。
また、宗教や東洋思想にも非常に興味があったらしく、取り組んだ難題の解明法のひらめきはそういった思想からヒントを得ることができたとも語っている。
そういうところがさすがに非凡なところで、『僕は論理も計算もない数学をやってみたい』という言葉にも繋がっているのだと思う。
そういうところから案じたのが日本という国の行く末だった。
この人の人生の後半は数学よりもこういった行動がクローズアップされ、また、最後に教鞭をとった京都産業大学では数学の講義ではなく、「日本民族」の講義をおこなったらしい。

岡潔の生き方としては宗教的な部分が強く、僕が期待していた科学と哲学の関連のようなものはあまり見られなかった。宗教的な面でも公明主義という新興宗教に帰依したということで、新興宗教がどうのとかは言うつもりはないがどうも思想が偏っているような気もする。エッセイについても書かれた時期が1960年代までとなってくると、これから先、読んでみようと思うようになるかというとちょっとそれはないかなと思うのである。

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