イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「Arc アーク ベスト・オブ・ケン・リュウ」読了

2022年08月09日 | 2022読書
ケン・リュウ/著 古沢嘉通/訳 「Arc アーク ベスト・オブ・ケン・リュウ」読了

著者の名前を知ったのは「三体」を読んだ時だった。この本を英訳した人がこの人であったのだが、小説家でもあるということはその時に知り、以前に読んだ本にも著者の短編が収録されていた。
何気なく図書館の書架を眺めているとこの本が目に入り、ああ、「三体」に関係する人だなと思い、読みたい本もないので借りてみた。
東洋人とSFというのはなんとなく似合わないように思ったりするのだが、もとも西洋人の書いたSFを読むような習慣もなく、「三体」の出来が僕にとってはすごくよかったということでSFを読むときは中国人が書いたものばかりを読むということになった。同じ東洋人ということで思考がよく似ていて読みやすいのかもしれない。著者自身は、中国系アメリカ人ということで純粋な東洋人ということではないのだが・・。

この本には、9編の短編が収録されているが、いずれも科学の進歩により距離や時間の隔たりが克服されたことにより人の生と死、肉親との関係がどう変化し、そのときそれぞれの人はどんな思いを抱くかということが描かれている。そして、そこまでの進歩をまだ見せていない現代に生きる自分たちはその場面に人への思いの真実を知る・・・。のかな?という感じである。

それぞれの短編のあらすじは以下の通りだ。

タイトルにもなっている「Arc」は不老不死が実現した社会が始まろうとする中、17歳で子供を産み、捨てた女性がその後、新たな夫と共に不老不死を選ぶが、遺伝子異常で夫が死亡したことで、自分だけが生き残り、人類ではじめて不老不死を選んだ人物となる。その後、見た目では自分の年齢を追い越してしまった最初の子供と出会い、人生とは一体何かということを見つめ直すという物語だ。死体を腐敗させることなく標本化するプラスティネーション技術をからめて物語が進んでゆくのが興味深い。
Arcという言葉は「環」という意味だが、収録されているすべての短編に共通する、生きるということが完結する=環として閉じる。ということには何が必要なのか、そういうことを象徴する言葉として使われているような気がする。

この短編は去年、日本で映画化されていて、偶然だが、来週BSで放送されるということを知った。ストーリーはかなり手を加えられているようだが、ぜひ観てみたいと思っている。

「紙の動物園」は、中国からカタログで選ばれアメリカに嫁いだ女性と息子の物語だ。中国が貧困にあえいでいた時代にはよくあった話のようだが、英語が話せない母親の息子との唯一のコミュニケーションが魔法にかけられて生きているようにふるまう動物の折り紙たちであった。中国人である母親になじめず冷たい態度をとり続けた息子は、母親が亡くなったのち老虎の中に書かれていた母親の手紙で母親の本当の気持ちを知る。
この短編は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞という、SFの世界では権威のある賞を複数受賞している。子供の頃、中国からアメリカに移住した著者の体験と重なっている部分が多いのだと思う。

「母の記憶に」は、余命2年となった母親は娘の成長を見続けたいという願いから高速で移動する宇宙船に乗ることで生まれる時間の経過の遅延を利用するのだが、娘と会えるのは7年に一度になる。娘はそんな母親に恨みと違和感を覚えるのであるが、見た目の年齢ではすでに母親を追い越してしまった娘は、母親が宇宙船の中での2年間の時間をすごしたのちに語った言葉に母親の愛を知るのである。

「もののあはれ」は、小惑星が地球に衝突し、すべての生命が死滅するとわかったとき、わずかな人数だけ地球から人を脱出させることができると知った日本人の化学者夫婦は、アメリカ人の科学者の伝手を頼って自分たちの息子だけを脱出させる。
18年の後、おとめ座61番星を目指していたソーラーセイルシップのセイルに穴が空くという事故が発生した。その修理のために船外活動に出るのがその息子であった。
72時間の不眠の作業の中で、子供の頃、父親が教えてくれた芭蕉の句を思い出す。
自己犠牲というのは、「もののあはれ」と同義ではないと思うのだが、そこはちょっと日本人的ではなさそうな気がする。芭蕉の句自体は確かにもののあはれなのだが・・。

「存在(プレゼンス)」は、中国とアメリカ、遠く離れた母と息子が遠隔操作の介護ロボットを通して最後を過ごすという物語だ。テクノロジーは物理的な距離を感じなくさせることができるが、心の距離までは縮めることができるのだろうかということが主題のような気がした。遠隔操作で母親の爪を切るシーンと、娘の爪を自分自身の手で切ってやるというシーンの対比が印象的である。

「結縄」は、結縄文字のパターンをタンパク質の分子結合に例えた物語だ。
東アジアの山奥に伝わる結縄文字を伝える老人が、新薬開発のため、結縄文字の結び目と縄のヨレが作り出す折りたたみパターンの解析に協力する。その見返りは、飢饉に強いイネの種籾なのだが、その種籾は遺伝子操作によって自家採種できない品種であり、毎年その種籾を購入しなればならなくなってしまう。
最先端の科学への手助けをしたにも関わらず、その最先端の科学によって自分たちが縛られるという矛盾が表現されている。縄の折りたたみパターンがDNAの折りたたみパターンにも例えられ、それも記憶の一部として縄文字に残すのだというのが皮肉である。

「ランニング・シューズ」は、生活のため、過酷な労働を強いられているベトナムの製靴工場の労働者の少女が主人公である。
その状況から抜け出したいと夢見ていた少女は事故に巻き込まれ、体を裁断されランニングシューズに加工されてしまう。アメリカに輸出され、少年と共に駆け回るが、古くなり、少年は靴紐を結わえて遠くに放り投げてしまう。シューズは電線に引っかかり、はじめて鳥のように遠くを見渡せるところに行くことができたというシュールな物語である。

「草を結びて環を銜えん」は中国故事にヒントを得た物語だ。
漢民族が攻め込んできた揚州。全員皆殺しにしろという指令が出ている中、美人娼婦は色仕掛けで仲間や同胞を救おうとする。司令官の自尊心をくすぐり、あなたは彼女たちを殺さないという命令を出すことができるはずだと迫り、大富豪たちは秘密の場所に財宝を隠している。殺してしまえばそれがわからなくなるから殺してはいけないと。しかし、心ない他人たちは自分だけが助かりたいのだろうと罵る。
そして散歩の途中、揚州の落ち武者に見つかり彼女は命を落とすことになる。
従者として付き従っていた娼婦はのちに琵琶の音色と共に彼女の徳をたたえる。その周りにはいつも彼女の生まれ変わりのようなマヒワが飛んでいたという物語である。
いかにも中国風なストーリーだ。

「よい狩りを」は、「幸運を祈る」という意味も含まれたタイトルだ。
妖術がまだ生きている時代、妖怪ハンターの親子は富豪の息子にとりついた妖狐を退治するために古寺まで追い込む。親狐は退治したが狐には娘がいた。娘狐と息子は心惹かれあう。しかし、文明が浸透した時代になり、妖術は効力を失う。娘狐も人間の姿から戻れなくなり、息子も妖怪退治の仕事がなくなり技術者として生きる道を選ぶ。
年月が過ぎ、時代は蒸気機関が支配する時代になる。息子と娘狐は再開するもののその体の半分は悪意を持った異常な性癖の男によって機械の体にされてしまっていた。息子は自分の技術をつぎ込んで娘を金属光沢の機械の体を持った狐の姿に変えてやる。動力源は超小型の蒸気機関だ。
娘狐は再び妖力を得たかのように街の中を駆け抜けてゆく。

翻訳をした人のアレンジなのか、元の文章からしてそういう雰囲気があるのか、文体のすべては落ち着いていてすべてを達観したかのように感じる。その文体がまた、人の命は環を閉じてこそ命なのだと言っているかのようである。
ハードなSFというのも引き込まれていく部分はあるが、こういった、SFなのかファンタジーなのかよくわからないがひとつテーマを持っている物語というのもいいものだ。

若返るための治療や人体のサイボーグ化というのはSFではなくなってきているらしい。「Arc」や「母の記憶に」という物語は同じ時代を生きてきた人たちが肉体的にギャップを持つようになったとき、人はどんな思いを抱くのかということをつくづくと考えさせられる。
また、そういう恩恵を受けることができるのは経済的に豊かな人たちのみであるという事実がある。社会の中で大きなギャップが生まれる時、はたして社会は平静を保つことができるのだろうかと、ひょっとしたら、僕が生きている間にも実現するかもしれない若返りの治療におそれおののいているのである。
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