イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「海とヒトの関係学 ①日本人が魚を食べ続けるために」読了

2022年12月09日 | 2022読書
秋道智彌 角南篤/編著 「海とヒトの関係学 ①日本人が魚を食べ続けるために」読了

この本は、「海とヒトの関係学」という一連のシリーズである。人類が海洋の生態系や環境に凌駕するインパクトを与えているということを鑑み、海洋をめぐって起こっている様々な問題、それは環境汚染であったり国家間、地域間、国内紛争なのであるが、そういった様々な問題を現場に精通した研究者、行政、NPO関係者、企業経営者などがそれぞれの専門分野に対して現状やその解決策を論じているというものである。
その第1弾が「魚食」についてである。

この本の最初は、「私たちはいつまで魚が食べられるか」という問いかけから始まる。
一応、魚釣りが好きで、自分で食べるくらいの魚はなんとか釣って帰ってきている僕にとっては愚問とも思える問いかけであるが、そうでもなさそうである。
「SDGs」の14番目の目標は、「海の豊かさを守ろう」というものらしいが、海洋汚染や乱獲によって、このまま放っておくと本当に魚は幻の食材になってしまうかもしれないというのである。まあ、僕が死んでから相当時間が経ったかなり未来のお話であるのかもしれないが・・。
しかし、魚がいなくなる前に、貧乏人は魚が食べられないという時代はもっと早くにやってくるかもしれない。
農林水産省の食料需給表によると国民一人当たりの年間魚介類消費量は2001年の40.2キロをピークに2006年には24.6キロにまで落ち込んでいる。そして、厚生労働省の国民栄養調査、国民健康栄養調査によると、2011年に日本の国民一人当たりの消費量は肉類の消費量を追い越したそうだ。
また、日本の漁業、養殖業生産量は、1984年に1282万トンであったものが2017年には430万トンにまで減ってしまっている。
どうしてこうなったかというと、水産白書によると価格の上昇、魚介類の品質の悪化、調理が面倒、ゴミ捨てが困難、料理時の臭いと煙が挙げられている。そして年齢層が低くなるほどその傾向は高くなり、魚離れは未来に向けて間違いなく進行してしまうと考えられているのである。
しかし、世界を見ると、まったく逆の傾向にあり、国際連合食糧農業機関(FAO)が示した年間一人当たり魚介消費量は2004年に63.2キロで1位であった日本は2013年には48.9キロで7位になってしまった。
海外での魚介類の需要増のため、2006年頃から水産分野での国際市場において、日本は他国に対して買い負けの傾向が強くなってきていて、輸入環境の悪化によりますます魚が食べにくくなってきているという。
ホタテやアワビ、タチウオは海外での価格のほうが上回っているのでどんどん輸出に回ってしまっているというし、ビンナガマグロはツナ缶の原料になる主力の魚だが、これも海外のツナ缶のほうが価格が高くなったのでどんどん輸出に回っているらしい。
まあ、これは魚に限ったものではなく、デフレの日本では何もかもそうなっているのだろう。きっと今の日本人は輸出できないほど品質の悪いものばかりを食べたり身につけたりしながら生活しているに違いない。
そして、国際的な魚食に関するものといえば、国家間のけん制の仕掛け合いというものにも使われているらしい。捕鯨問題やマグロ問題というのは有名な話だが、条約における締約国会議(COP)の場では、ナマコやタツノオトシゴやサメに対する規制が提案されてきたという。これらはすべて、中華料理や漢方薬の材料だ。これらが絶滅の危機や違法な漁獲、サメについてはヒレだけ切って生きたまま捨てているというような話を読むと、規制されてもしかりとも思うけれども、どこか、中国に対するけん制活動にも見えてくるのである。

しかし、家庭での魚介類の消費は減っているものの、外食での魚介類消費は減っていないという。ということは、日本人はいまだに魚を食べたいという感情に陰りはないということだ。
では、何がその感情を妨げているのか・・。
確かに、水産白書に書かれている問題はなんだか勘違いしているように思う。普通に考えると魚を料理する際には当たり前のことであるが、「調理が面倒」、「ゴミ捨てが困難」などということが僕のひと世代前の人たちには当たり前のことが当たり前で無くなってしまったということが一番の問題であるというのはなんだか滑稽だ。僕も親戚や友人に魚を持っていくときにはきちんと捌いてゴミが残らないようにして持っていくのだが、その理由は、大体のひとが魚を捌けないのだ。もらう方はうれしいのだろうが、釣りから帰ってきて疲れた体で一所懸命に魚を捌いてさらに個別に届けている僕は一体何のためにこんなことをしているのだろうと思ったりしてしまう。魚を丸で持っていけるのは野菜を貰える叔父さんの家だけだ。一体、日本人の生活の何がそうさせてしまったのかその根本の原因を追究せねばこの本に書いているような魚食の復権などありえないのではないかと思うのである。昨今、出刃と柳刃を持っている家なんて少数派のようなのである。そこからなんとかしなければならないのではないだろうか。
僕が個人的に思うのは、よく切れる包丁で魚を捌くというのはある意味楽しく、その包丁をメンテナンスするというのも楽しいものである。と、そういうことを思いめぐらせていると、これは男性がもっと魚に面と向かって取り組まねばこの問題は解決できないのではないかと感じてきた。道具にこだわるというのはやはり男の方に分がある。その男も、昨今は料理男子というのも多くなっているが、親の世代が魚を捌く姿を見ていないと自分もやる気がおこらないしそもそも、どうやるのかということもわからないというのが現実なのだと思う。
それに加えて、鮮度も問題だろう。まあ、僕も高級なスーパーや百貨店で買い物をするわけではないのでこれは必然だと思うが、店頭に並んでいる魚の鮮度というと釣りをする人間から見るとほぼ腐っているのではないかと思えるほどである。一度、ガシラ釣りのエサにと思って買ったサバの切り身は、もう、エサにもならないのではないかというほどであり、本当にこれを食べている人間がいるのかと思えるものであった。ちょっと食材に詳しい人なら買う気は起きないだろうし、それが魚離れに直結しているのだろうと考えてしまう。
肉というと、牛、豚、鶏、ごくたまに羊くらいが関の山だろうが、魚には数倍の種類がある。それぞれに味も食感も違うのだから無限の料理のバリエーションがある。それを楽しむ機会がほとんどないというのはなんとももったいない。

そういう点では、この本に書かれている、日本の各地でおこなわれている様々な施策には期待を覚える。
マグロの完全養殖というのは近畿大学が成功させたということで有名な話だが、民間企業でも温泉水を使ったトラフグの養殖をやっているところもあり、その生産地は日本全国に広がっているそうだ。
町おこしも魚食をきっかけにしておこなわれている。この本では福井県のサバ、大分県臼杵市のクログチなどがこの本には取り上げられている。また、食育や、MSC認証(水産資源や海洋環境に配慮し適切に管理された、持続可能な漁業に対する認証:海のエコラベル)、ASC認証(環境と社会への影響を最小限にした責任ある養殖の水産物である証)という国際認証制度なども紹介されているが、このあたりになってくると、なんだか、利権と交付金目当ての臭いもしてくる。
志はよくわかるし、和歌山市にもいくつかの漁港があり、様々な取り組みをやっていて、そういう話を聞くと、活気も感じるし、僕もそういった活動に参加をさせてもらえないものだろうかと思ったりもするのだが、外から参加をさせてもらえるほど甘いものではなく、交付金をがっつりもらって、結局はハコだけ作ったみたいなところで足踏みしているところもあるらしい。まあ、何でも100%成功するわけでなく、その中のひとつでも大きく育てばそれでいいのかもしれないとは思う。
この本も、笹川平和財団というところが編集協力をしているようだが、公的なおカネが入っているのかもしれない。

繰り返しになるかもしれないけれども、こういった施策を一所懸命にやっている人たちはなんとか日本の魚食を守ろうと奮闘しているのだろうが、すでに親の世代が魚を料理することも食べることを知らず、新鮮な魚を買おうとするとお肉に比べるとはるかに高価になってしまっている現状ではますます崩壊していく未来しかないのではないだろうか。
幸か不幸か、我が家は魚を自分でさばいて食べるのが当たり前の暮らしをしてきた。だから、魚食の生活は十分足りていると思うのでそれでいいのだと思っている。ただ、地元に根ざした伝統的な魚食をしているかというとそれは残念ながら根無し草と言わざるを得ない。そこは残念だと思うのだ。水軒の集落でもあそこ独特の魚の食べ方というものがきっとあったと思う。それを知ることができなかったというのはやはり永遠に片手落ちということになるので、僕の魚食は安泰だと思っているとそれは大きな勘違いなのである・・。

最後に漁獲圧というものについて。
『漁撈の努力量は、漁船数、漁具数、操業時間などで表すことができる。漁獲努力量が増加すると、漁獲量は一定量増加する。一方、資源の個体数や加入率(魚が成長して資源として利用できるよう(=加算される)ようになる比率)に変化が起こる。漁獲圧は対象資源への影響を表すさいに使う。』
というのがその定義であるが、魚釣り程度のものでそんな圧力はないだろうと思っていたが、今年は現実にそういったことが起こるのだということを実感した。
もっとも大きかったのはアマダイだ。夏前に近場で釣れるということが広まるとそれを狙う船がプレジャーボート、遊漁船問わず大挙押し寄せひと月程度でほとんど釣れなくなってしまった。加太沖や洲本沖のタチウオも今年は大物が釣れなかったらしい。それはここ数年続いていることだ。先週の洲本沖はそこに陸地が生まれたのではないかと思うほど密集した船団ができていた。



カワハギも30センチに迫るような大きなものはお目にかかることができなかった。(これは腕と運のほうが影響しているのかもしれないが・・)
これらはすべてここ最近急増しているプレジャーボートの漁獲圧にほかならないのではないかと思えるのである。
たかが一艘でも、それが大量にあつまるとこんなことになってしまう。

僕が年末の真鯛をゲットできなくても、それは腕のせいではなく、漁獲圧のためなのである・・。

コメント
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