スティーヴン・マンフォード/著、秋葉剛史、北村直彰/訳 「哲学がわかる 形而上学」読了
よくわからない哲学をこれまたよくわからない形而上学を使って解説された本を読んでもそれはやっぱりよくわからないのである。
哲学を勉強したいと思うほど自分がインテリではないということはわかっているので、その一端でも知りたいという程度なのだが、そこまでも到達できそうにはない・・。
哲学という学問は「存在」とは何かを求めているのだということは以前に読んだ本で確認することができた。
では、形而上学というのはどういう学問かというと、ウイキペディアを調べてみると、『感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものについて考える。』となっている。
形而上学で哲学をするということは、まさに「存在」の本質とは何かということを求めるということであるということは大まかにはわかり始めた。
しかし、著者は、最終章で、『形而上学で扱われる問いの多くは、単純素朴で他愛のないもの、あるいは子供じみたものにみえたことだろう。そしてそれらの問いは、しばしばそうしたものとして軽く扱われる。私たちはひとたび成長すると、円とは何か、時間は過ぎ去るのか、無はなんらかの存在物であるのか、といったことを問わないように期待される。これはまるで、生まれつきもっている自然な驚きの感覚を、私達は訓練によって自分の外に追い出しているかのようだ。
ひとは形而上学を、時間の浪費、あるいはより悪くは、人々の注意をそらす有害なものだと考えるかもしれない。ソクラテスはまさにその有害な輩であるということで死刑になったという(おそらくは半分だけ正しい)逸話を私たちは忘れてはならない。』
と書いている。
なんだか取りつく島もないような表現である。
この本は、九つの章で、①個別者とは何か。②性質とは存在なのか。③全体は部分の集合体というだけなのか。④変化とは何か。⑤因果とは何か。⑥時間が過ぎてゆくとは何を意味するか。⑦人とは。⑧可能性とは。⑨「無」は存在と言えるのか。
ということを論じているのだが、著者が言うように、そんなことを考えて何になるの?というようなものばかりである。しかし、僕が驚いたのは、「変化とは何か」という部分に書かれていたことだ。これは時間というものの考え方にもつながってくるものだが、形而上学ではこう考えられている。『静的な性質を持つものの系列―それに属するものはいずれも、その直前・直後に位置するものと質的にごくわずかにしか異なっていない―が存在するだけだ、と捉えることになる。したがって変化とは、ある意味で、そのような時間的部分の系列が作り出す幻想だということになる。』ようは、一本のフィルムに収められたコマの集まりが時間の流れであり物事の変化であるというのである。
これは、「正法源蔵」に書かれている「時間」の解釈とほとんど同じなのである。
地球の西の端と東の端でどうして同じような考え方が生まれたのか・・。
これはたまたま同じような考えが別の場所で生まれただけなのか、それともギリシャ哲学の考えが西のほうに伝搬して仏教の考えと混合していったのだろうか。どちらにしても、同じような考えが別の場所でそれぞれ支持されて現代まで引き継がれてきたということは、人間が感覚的に持つ時間に対する考え方というのはこれはこれで正しいのではないかと思えてくる。
ほかにも現代の物質やエネルギー、テクノロジーに関する事柄につながっている考え方もその中には見えてくる。
例えば、「無」についての考え方では、無というものが、「・・でない。」という否定的な意味と同義であると考えるならば、あるものに対して、「・・でない。」というものは無数にあると考えるのである。例えば、ある男性の身長が180cmだったとき、この男性の身長は2mではないし179cmでもないと、理屈では無数に「・・でない」というものが存在することになる。
かなりこじつけではあるが、宇宙論に出てくる、無限のエネルギーを持っているという真空のエネルギーの解釈に似ているような気がする。
「人」とはという考え方では、心理的な連続性と身体的な連続性が必要であるとされている。意識をコンピューターにコピーできるような時代がやってきて、アンドロイドなり、空っぽの人体になりに移植することができたとしても、それは過去の自分とのつながりがないのだから自分ではないといえるというのである。僕は日ごろから、僕のコピーが生まれ、その時点までの僕のすべての記憶を留めていたとして、その後に僕が死んでしまったとしたらそのコピーは僕と言えるのだろうかなどと中二病のようなことを考えていたのだが、この答えを読んで納得してしまった。これは今後、人工知能と対峙しなければならない人間にとって重大な指標となるだろう。
「可能性」に対する考え方では、ある人がある選択を迫られたとき、何を選択するか、もしくはその後の展開については無数の可能性を秘めている。それは、無数の世界に枝分かれをしてゆくということであるとも言える。これなどは多重宇宙論とうり二つの考え方である。量子物理学や人工知能などまったく知る由もない紀元前の人たちがすでにそんなことを考えていたというのは驚きでもある。しかし、こうとも考えられないだろうか。この世界はすべて空想の世界であり、量子物理学の奇妙な理論も、人工知能もソクラテスやプラトンの時代の人の空想なり妄想のなかの仮想世界であると。
まさにそれは仏教で言うところの、「色即是空、空即是色」なのである。
物体が存在することのうちには、諸々の性質に加えて、それらを背後で取りまとめている別の何かの存在が含まれているかもしれない。そして、その別の何かの存在の背後にもそれらを取りまとめている別の何かが存在する・・。まったくもって曼荼羅の世界である。
それとも、現代の量子物理学者たちが古代の哲学に影響されているのだろうか・・。以前に読んだ本の中に、量子力学を、『人工的な形而上学』だと書いているものがあったが、実際、そうなのかもしれないと思えてもくるのである。
哲学は存在を考える学問であり、その哲学は科学を生み出す元にもなったのであるが、その中核をなす形而上学は科学のみならず、仏教の基盤でもあったのであると妄想してしまった。というか、仏教もまさに哲学であると実感したのである。
よくわからない哲学をこれまたよくわからない形而上学を使って解説された本を読んでもそれはやっぱりよくわからないのである。
哲学を勉強したいと思うほど自分がインテリではないということはわかっているので、その一端でも知りたいという程度なのだが、そこまでも到達できそうにはない・・。
哲学という学問は「存在」とは何かを求めているのだということは以前に読んだ本で確認することができた。
では、形而上学というのはどういう学問かというと、ウイキペディアを調べてみると、『感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものについて考える。』となっている。
形而上学で哲学をするということは、まさに「存在」の本質とは何かということを求めるということであるということは大まかにはわかり始めた。
しかし、著者は、最終章で、『形而上学で扱われる問いの多くは、単純素朴で他愛のないもの、あるいは子供じみたものにみえたことだろう。そしてそれらの問いは、しばしばそうしたものとして軽く扱われる。私たちはひとたび成長すると、円とは何か、時間は過ぎ去るのか、無はなんらかの存在物であるのか、といったことを問わないように期待される。これはまるで、生まれつきもっている自然な驚きの感覚を、私達は訓練によって自分の外に追い出しているかのようだ。
ひとは形而上学を、時間の浪費、あるいはより悪くは、人々の注意をそらす有害なものだと考えるかもしれない。ソクラテスはまさにその有害な輩であるということで死刑になったという(おそらくは半分だけ正しい)逸話を私たちは忘れてはならない。』
と書いている。
なんだか取りつく島もないような表現である。
この本は、九つの章で、①個別者とは何か。②性質とは存在なのか。③全体は部分の集合体というだけなのか。④変化とは何か。⑤因果とは何か。⑥時間が過ぎてゆくとは何を意味するか。⑦人とは。⑧可能性とは。⑨「無」は存在と言えるのか。
ということを論じているのだが、著者が言うように、そんなことを考えて何になるの?というようなものばかりである。しかし、僕が驚いたのは、「変化とは何か」という部分に書かれていたことだ。これは時間というものの考え方にもつながってくるものだが、形而上学ではこう考えられている。『静的な性質を持つものの系列―それに属するものはいずれも、その直前・直後に位置するものと質的にごくわずかにしか異なっていない―が存在するだけだ、と捉えることになる。したがって変化とは、ある意味で、そのような時間的部分の系列が作り出す幻想だということになる。』ようは、一本のフィルムに収められたコマの集まりが時間の流れであり物事の変化であるというのである。
これは、「正法源蔵」に書かれている「時間」の解釈とほとんど同じなのである。
地球の西の端と東の端でどうして同じような考え方が生まれたのか・・。
これはたまたま同じような考えが別の場所で生まれただけなのか、それともギリシャ哲学の考えが西のほうに伝搬して仏教の考えと混合していったのだろうか。どちらにしても、同じような考えが別の場所でそれぞれ支持されて現代まで引き継がれてきたということは、人間が感覚的に持つ時間に対する考え方というのはこれはこれで正しいのではないかと思えてくる。
ほかにも現代の物質やエネルギー、テクノロジーに関する事柄につながっている考え方もその中には見えてくる。
例えば、「無」についての考え方では、無というものが、「・・でない。」という否定的な意味と同義であると考えるならば、あるものに対して、「・・でない。」というものは無数にあると考えるのである。例えば、ある男性の身長が180cmだったとき、この男性の身長は2mではないし179cmでもないと、理屈では無数に「・・でない」というものが存在することになる。
かなりこじつけではあるが、宇宙論に出てくる、無限のエネルギーを持っているという真空のエネルギーの解釈に似ているような気がする。
「人」とはという考え方では、心理的な連続性と身体的な連続性が必要であるとされている。意識をコンピューターにコピーできるような時代がやってきて、アンドロイドなり、空っぽの人体になりに移植することができたとしても、それは過去の自分とのつながりがないのだから自分ではないといえるというのである。僕は日ごろから、僕のコピーが生まれ、その時点までの僕のすべての記憶を留めていたとして、その後に僕が死んでしまったとしたらそのコピーは僕と言えるのだろうかなどと中二病のようなことを考えていたのだが、この答えを読んで納得してしまった。これは今後、人工知能と対峙しなければならない人間にとって重大な指標となるだろう。
「可能性」に対する考え方では、ある人がある選択を迫られたとき、何を選択するか、もしくはその後の展開については無数の可能性を秘めている。それは、無数の世界に枝分かれをしてゆくということであるとも言える。これなどは多重宇宙論とうり二つの考え方である。量子物理学や人工知能などまったく知る由もない紀元前の人たちがすでにそんなことを考えていたというのは驚きでもある。しかし、こうとも考えられないだろうか。この世界はすべて空想の世界であり、量子物理学の奇妙な理論も、人工知能もソクラテスやプラトンの時代の人の空想なり妄想のなかの仮想世界であると。
まさにそれは仏教で言うところの、「色即是空、空即是色」なのである。
物体が存在することのうちには、諸々の性質に加えて、それらを背後で取りまとめている別の何かの存在が含まれているかもしれない。そして、その別の何かの存在の背後にもそれらを取りまとめている別の何かが存在する・・。まったくもって曼荼羅の世界である。
それとも、現代の量子物理学者たちが古代の哲学に影響されているのだろうか・・。以前に読んだ本の中に、量子力学を、『人工的な形而上学』だと書いているものがあったが、実際、そうなのかもしれないと思えてもくるのである。
哲学は存在を考える学問であり、その哲学は科学を生み出す元にもなったのであるが、その中核をなす形而上学は科学のみならず、仏教の基盤でもあったのであると妄想してしまった。というか、仏教もまさに哲学であると実感したのである。