イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「バッタを倒しにアフリカへ 」読了

2018年07月09日 | 2018読書
前野ウルド浩太郎 「バッタを倒しにアフリカへ 」読了

の本は今年の「新書大賞」というのをもらった本だそうだ。本屋さんでも結構な数が積まれていたのでかなり売れている本のようだ。

内容は昆虫学者を目指すポスドクの著者がアフリカのモーリタニアでドタバタしながらバッタの研究を続けるという話だ。多分それだけなら、そのドタバタが面白いというだけで前に読んだ「ヨシダ、裸で・・」や「怪魚・・・」などの素人の探検物とあまり変わらないのであるけれども、著者がそのポスドクという身分から何が何でも抜け出すための数々の作戦の進展が面白くて読者を引きつけたように思う。

そのポスドクというものだが、ネットで調べると、
ポストドクターの略。 博士号(ドクター)を取得しながら、大学などで正規のポストに就けず、非正規の立場で研究活動を続けざるを得ない任期付き研究者のことです。 博士研究員とも呼ばれる。
と書いている。要は博士という頭のいい称号は持っているけれども定職に就けていない不安定な身分であるというらしい。ちなみに学者が論文を書くとき、ペンネームもOKだそうだ。著者も現地でもらった「ウルド」という称号をそのままくわえてペンネームで論文を書いている。
そこでモーリタニアで大量発生しては農作物に甚大な被害を及ぼすサバクトビバッタの研究をするための研究費用を得たことでよい論文を書き、定職に就こうと考えたわけだが、なかなかうまくいかない。とうとう研究費も底を尽き無収入となった。これをなんとか打開すべく様々な秘策を打ち出すのだ。

その秘策がなんとも今風で、ニコニコ動画への出演やプレジデントのオンライン版での連載などなのだ。露出の方法もすごい。民族衣装を着てみたり、緑色のコスチュームでバッタの群れの中に佇んだり(これは著者が子供の頃からあこがれていた、自らバッタに喰われたいという願望を具現化したものらしいが・・)とおよそ学者らしくもないのだが、そんなふざけたことを真剣にやっているところが面白い。無収入を逆手にとっての大逆転だ。
売名行為だ何だと言われながらも世間にバッタのことを知ってもらい、なおかつ研究資金と定職を得るという明確な目的に突き進むそのさま、そして一発逆転のように物語が進んでいくことに読者は見守っている感を覚えるのだろうか。

しかし、僕がもうひとつ共感したのは、著者がモーリタニアで所属した、国立サバクトビバッタ研究所のババ所長だ。ババ所長は大きなナツメヤシ農家の出身だそうだが、砂漠で渇死しそうになったことを期に人の役に立つ仕事をしなければならないと家族の反対を押し切ってこの仕事に就いたということだが、こんなに貧しい国でどうしたらそんな志を抱けるのか、自分よりも周りの研究者のためにどうしてそんなに骨を折ることができるのか。
そこにタジタジとなってしまうのだ。

著者もババ所長もいくつもの場所、組織、団体、国々、修羅場での経験を経てここに至っているようだ。僕が自分の周りで魅力的に感じる人たちも同じように様々な職業や経験をしてきた人たちだ、なんだか人間としての厚みが違うような気がする。
勤続30年の感謝状のような厚さ0.15ミリの薄っぺらい人生とはまったく違うのだ。
厚さ0.15ミリの人生は確かに安全といえば安全な生き方ではあるけれども、著者が言うように、「一片たりとも未練を残さない。たとえダメでも堂々と胸を張って路頭に迷い、せめて鮮やかにこの身を終えよう。」というような生き方をした人こそが最後に笑うんだろうなと思えるのである。
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「江戸前の素顔―遊んだ・食べた・釣りをした」読了

2018年07月05日 | 2018読書
藤井克彦 「江戸前の素顔―遊んだ・食べた・釣りをした」読了

いつも粋な言葉に聞こえる、「江戸前」とは何かということと、どんなところであったかということをつり雑誌の記者をしていた著者が考察している本だ。

著者は、「身がそっくり返らないような魚は捨ててしまえ。」というような環境でそだった。だからなおさら、江戸前という言葉にこだわりがある。
いま、江戸前というとすぐに鮨を連想する。そして、ネタに使われる材料というのはなんとなく東京湾全体から水揚げされた魚介類だと想像するけれども、本当の江戸前というのは、江戸川から隅田川、広くても多摩川の河口の間のごくわずかな水域を指して使われた言葉だそうだ。それだけの面積で江戸の100万人の胃ぶくろを支えることができるほど豊穣な海であった。
浦安や神奈川の三崎で水揚げされた魚は江戸前の魚とは言えないのである。
しかしながら、もっと以前、“江戸前”というとうなぎの蒲焼に使われた言葉が最初だったそうだ。それが、うなぎの需要が増えてきて他所からの材料を使わなければならなくなってくると、“江戸前”という言葉を使いづらくなってきて、いつの頃からか、鮨の接頭語になっていったという。
そう言えば、今年はウナギが高くて代用品が注目されているらしい。生粋の江戸っ子が聞いたら怒り狂うのではないだろうか。

そして江戸前という言葉は産地偽装を防ぐ意味でもあったと著者は考える。防ぐ理由はふたつ。ひとつは鮮度の保障だ。冷蔵技術がほぼなかった時代、都会の目の前で獲れる魚は他所から入ってきた魚(これを「旅もの」と言ったそうである。)よりもはるかに鮮度がいい。もうひとつは脱税対策だ。江戸前の中心地、佃島の漁師は将軍家に白魚を献上する役柄から租税の免除を約束されていたそうだ。あっちから来たもの、こっちから来たものをみんな江戸前と名乗らせてしまうと税金を取りっぱぐれてしまう。だから厳格に範囲を決めてそこの漁師が獲ったものを江戸前と名乗らせた。
なんだかこれはかなり説得力のある理由のように思う。
そのほか、上方の食文化に嫉妬した江戸の人々が俺たちも負けてはいないとこの言葉を使ったという説もあるそうだ。なんといっても、京や大阪からやって来るものは、“下がりもの”と言われていたそうだからそれは嫉妬もするというものだ。

キス、カレイ、ハゼ、フッコ、そしてボラなど、浅い砂地の海域ではそれほど多くの魚種はないけれも文献を見る限り、それはそれは大量の水揚げがあったようである。明治から昭和ひとけたの頃まではアジ、サバ、真鯛、ほか日本で一番の水揚げを誇っていた魚種はかなりの数に上っていたようだ。
十数年前、東京へ、出張と称してよく出かけていた頃があったが、羽田空港からモノレールに乗って車窓から見える景色がまさにその江戸前であるけれども、護岸だらけで真っ黒い水を見ていると、かつてそんな豊穣な海が広がっていたということがまったく想像できない。わずかに屋形船や乗合船が停泊しているのをみるとああ、そういう文化があるのかと垣間見るだけである。
僕の港の水も夏になるとどこまで汚いのだと思うほどであるけれども、少し沖に出てみるといろいろな魚が遊んでくれる。新しい釣りを覚えるたびに釣れる魚種も増えてくる。

そう思うとまだまだ捨てたものではないと思えるのだ。



著者は釣り雑誌の記者ということで、江戸前とは関係ないけれども、釣りに関する面白いエピソードがいくつか書かれている。

アオリイカについて、
薩摩の国ではアオリイカ釣りが賭けになっていたそうで、その賭けに勝つために武士や豪商はエギを作る職人をかかえていたそうだ。今でも数百万単位のお金が動く賭けが行われているという噂があるらしい。

和竿について。
東作というと、僕も知っている江戸和竿の名門だが、初代東作は紀州徳川家の下屋敷詰めの武士であったそうだ。武士という堅苦しい肩書を捨てて竿師になったというのだからうらやましい。

脈釣りの語源。
医者は患者の腕を直接つかんで脈を取るけれども、高貴なお方だとそれがはばかられるのでそんなときは患者の腕に糸を巻いてその端をつかんで脈をとったそうだ。これを「糸脈」というそうだが、ウキを使わずにアタリを取る方法がこれに似ているというので脈釣りとなったとか。

雑賀崎の漁師。
房総勝浦に真鯛釣りを伝えたというのは有名な話で、それはビシマ糸をつかった釣りだけれども、そこで尊敬されていたのかというと、ひと通り技術を吸収した地元民からやっかいもの扱いされ、となりの大原に移住をよぎなくされたそうだ。

ボラ釣りについて。
著者がボラ釣りをしていると、「ボラ釣りだけはやめておけ。」と、とある老人から声をかけられた。その老人は、かつて、毎日のようにボラ釣りに通い、店も家族もなくしてしまったという。お金がかからないので毎日でも遊べる(ぼらの引っ掛けをやっていたらしい。)から最期は身を持ち崩してしまう。
船の釣りはお金がかかるからそれほどはのめりこめないからそっちび転向しなさいと言われたそうだ。
う~ん。奥が深い!
ぼくもそう言えば、ボラ釣りからのめり込んでいったんだよね~。



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水軒沖~加太沖釣行

2018年07月01日 | 2018釣り
場所:水軒沖~加太沖
条件:中潮 7:19満潮
潮流:6:12転流 8:20 上り 0.6ノット最強
釣果:マルアジ 7匹 ソーダガツオ 1匹 真鯛 1匹

これはいつもの友人に聞いた話だが、またまたなんだか気持ちがげんなりしてしまう出来事があったそうだ。
朝から、老人が役員に取り次げとわめいているという報告があがってきたそうだ。なんだ、なんだと急いで駆けつけると、「おれはここのVIP顧客だ、あそこのバーゲンセールの看板にVIP顧客には割引がないと書いていないから割引をしろと。」少しニヤニヤしながら言ってきたそうだ。
あぁ、まただ・・。こういう風にニヤニヤしながらクレームを言う輩は要求そのものにはまったく興味がない。心の中はこうだ。「おれ様は昔々は偉かったんだ。みんな専務、専務と(専務かどうかは知らないが。)とへりくだりながら後ろをついてきたもんだ。しかし、今はどうだ、誰もおれにかまうものがいないではないか!けしからん。」ということで売場の若い女性では物足りずに当時の部下であったような年代の男になんでもかまわないから怒鳴りつけて自分を偉そうに見せつけたい。そんなところだ。要は寂しいだけなんだ。人はこんなになってまで生きなければならないのか、そしてボクも先々こんな人間になっていくのかの知れないと思うと朝からまったく何もする気が起こらなくなってしまったそうだ。
1メートル歩くのに10秒はかかっているんじゃないかというほどヨボヨボだったので、「ふざけたこと言うてんと、とっとと帰れ!!」と一発かましてやったら糸の切れた操り人形のようにしてやれるのではないかと思ったがそれをひたすら我慢してその老人より目線を低くするために床にひざまずいて、「どうかご理解くださいませ。」と繰り返していたらしい。

おとといまで読んでいた本にはこんなことも書かれていた。これもJ.S.ミルの言葉だそうだが、「経済成長は必然的に自然を改変するが、ありのままの自然を残すことが重要である。」そして、「孤独というものは自らの考えや精神を高めるために不可欠なものである。」
この老人に当てはめると、コンクリートしかない都会のど真ん中で人恋しくて仕方がないと思いながら生きているからまったく自分となんのかかわりもない人間に何か八つ当たりのようなものしたくなる。まったく迷惑千万だと僕も思った。怒鳴られるのはかまわないけれども、こいつもある意味人生の先輩だろう。後ろに続くものにもっと立派な未来を映してあげて欲しいものだ。こんなくだらない人間になってしまうかもしれないと恐れを抱かせてどうするのだ。そして、こういうやつを、鏡を見ているように思えてしまうのがこれまた悲しい。

そんな気持ちを引きずって午前4時に出港。昨夜降った雨のせいだろうか、東の空は血を流したように真っ赤に染まっている。それを見てまた少しげんなりしてしまうのだ。



今日の予定はとりあえずチョクリでおかず分が確保できれば加太に向かって飲ませサビキかタイラバを試してみようというものだ。タイラバは僕の隣のN氏が先週、かなりの釣果を上げてきていたのであやかってみたいものだという理由からだ。それに今年は船足が早いので海の上を縦横無尽に駆け巡ることができるのである。
だから、できるだけ北の方に向かって針路を取る。紀ノ川の沖を越えたくらいで小さいけれども反応があったので仕掛けを下すといきなりアタリがあって5匹のマルアジが上がってきた。食っていたのは5匹だ。最初からこれでは加太に行かなくてもいいんじゃないかと期待を持ったが、その後が続かない・・・。
午前6時過ぎに転流時刻を迎えるのでそのまま加太に向かう。田倉崎から手パンポイントに向かうところで、イワシだろうか、ベイトの群れのような反応が出てきた。遠くまでは行きたくないのでこのへんで仕掛けを下す。舳先には念のためチョクリ仕掛けも継続して展開。
釣り始めて30分くらいしてからだろうか、本当にアタリが出た。タイラバなんてまず釣れないと思っていたものだから逆にびっくりしてしまった。慎重にリトリーブをおこなうが、これが意外と大きい。ハリスは3号なので無理はできない。ゆっくり、ゆっくり、リールを巻くと上がってきたのは真鯛だった。普通なら途中でギブアップして浮かび上がってくるのだが、こいつは最後までなかなか頑張ってくれた。

もう、1匹で十分だ。あまりの暑さに午前7時半に終了。





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