イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

加太沖釣行

2018年10月11日 | 2018釣り
場所:加太沖
条件:中潮 7:25満潮
潮流:7:58 上り2.5ノット最強 11:29転流
釣果:真鯛 2匹

連休は最後の日だし、船底を塗装した直後なのでスピードはマックスに出る。ウエザーニュースの予報では1日中曇りとなっているので予定通り出撃だ。
船のスピードは快調そのもの。滑るように加太に向かってゆく。



一昨日、船を港に戻すために和歌浦まで雑賀崎経由で歩いて向かったのだが、台風21号の爪痕はそのまま残っていた。その姿はすさまじいものだった。
遊歩道は欄干はすべてなぎ倒され、崖の下では寸断され、めくれ上がっているところもあった。せっかく復活した宿泊施設は基礎がむき出しになっていた。

   

津波を見たことがないけれども南海トラフの地震が起こったとしたらいったいどんなことになるのだろうかと恐ろしくなってしまった。海は優しいけれどもひとたび怒ると人間の力など何の役にも立たないということを思い知らされた。

そんなことを思いながら田倉崎に向かったのだが、空の様子は真っ暗だ。本当に雨は降らないのだろうかと訝しみながら釣りをスタート。



この時間は上り潮なのでテッパンポイントに入りたいのだが帝国軍もけっこう張り出してしてきている。少し離れたところからスタート。どうせ北に流されていくので知らない間にテッパンポイントに入ることになるのだ。
しかしその頃にはテッパンポイントは帝国軍に制圧されてしまった・・・。



釣りを始めてしばらくしたら心配の通り雨が降って来た。だんだん強くなってくる。
雨の日には釣りに行かないことにしているのでもちろん雨具の用意はない。そして、出港するときは風も無くてそれほど寒くもなかったので三輪車のカゴに入れていたヤッケを羽織るのも忘れてきた。
なんともお粗末なことだ・・・。板子一枚下は・・・というけれども、我ながらもう少し用心するべしと思うところだ・・。

そんな中でもアタリは出てきた。
そして3回目くらいのアタリだっただろうか、やっと鉤に乗った。
それも一荷であがってきた。これで叔父さんの家にも持って行ける。この辺りですでに戦意喪失状態だ。しかし、今日はオキアミも持ってきている。実は真鯛よりもアジを釣りたいと思っていたのだ。
仕掛けをエサ釣り用に切り替え頑張ってみるけれども、雨は止まず、船べりに座って竿を持っているとオーニングから雨だれがどんどん落ちてくる。これはたまらんと船の中心部分に移動。エンジン場の扉を開けてエンジンの熱気で暖を取ろうと思ったがこれは全くの徒労であった。



結局寒さに負けてしまって午前9時に終了。

オキアミは10匹ほど使っただけでもったいない話だ・・・。



おすそ分けの魚も確保できたので叔父さんの家に行くと、落花生を抜くから持って行けというありがたい声をかけてもらった。
2週間ほど前から、もう収穫できるのではないかと楽しみにしていたのだが、なかなか許可が出なかったのだ。
今日の落花生の一部で、ちからさんに教えてもらったジーマミー豆腐を作ってみた。
形は不格好だけれども、高野山のゴマ豆腐も真っ青という味わいだ。我ながらよくできている!



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「知ってるつもり―無知の科学」読了

2018年10月10日 | 2018読書
スティーブン スローマン、フィリップ ファーンバック/著 土方 奈美/訳

この本の核心は、「なぜ人は薄っぺらな主張に流され、浅はかな判断をするのか。」ということである。それだけわずかな知識しかなくてもそこそこ普通に生きてゆけるがその生き方は周りからの影響を限りなく受けているのだというのだ。

人間の記憶している内容を文字数に換算するとなんと0.5ギガバイトほどしかないそうだ。まあ、頭の中に画像として保存されているものもあるだろうから、そんなに少ないこともないだろうけれども、僕の500ギガバイトのハードディスクのパソコンに比べるとはるかに記憶している内容は少ないようだ。

しかしながら、普通の人たちはそんな少ない情報しか持っていないにもかかわらずそれなりに生活を維持できている。それはいろいろなものごとを知ったふりをしてやり過ごしていられるからだというのが著者のひとつの主張になっている。

たとえば、水道の蛇口をひねると水がでてくるけれども、どんな仕組みで出てくるかを知らない。そんなことが身の回りに膨大にあるというのだ。
まあ、こんなことは知っていても知らなくてもそれはどうでもいいかと思うのだが、確かに、けっこう知っていると思っていることでもいざ人に説明しようとするとまったくそれができないということというのは山のようにある。受験生時代によく塾の先生からも、他人に教えることができるようにならないと本当に理解したのだとは言えない。とよく怒られた。きっとそういうことだと思う。

ではどうしてひとはそんなに知ったかぶりをするのだというと、思考方法にあるという。コンピューターというのは蓄積された膨大なデータをひとつひとつ照合しながら、説明しなければならないもしくは解決しなければならない問題の回答を求めるが、人間は前後左右の因果関係をもとにしながら回答を求める。だからすべてのデータを蓄積していなくてもそこそこの答えを導き出せるのだ。(それが本当に正しいかどうかは別として。)相当な部分を想像しながら判断しているのである。

そして、著者たちは人間の知能のもうひとつの特性はコミュニティ、人間関係などのなかから他の人が持っている記憶や認知とつながりながら巨大な知能体を作り上げているということも書いている。自分はこのことは知らないけれどもあの人はそれを知っている。そういうことをつなげながら巨大な文明が出来上がってきたのだというのだ。知性には人と人の境界がないという。

似たようなものに、トランザクティブ・メモリーということばがあったことを思い出した。これは、「組織に重要なのは、組織の全員が同じことを知っていることではなく、『組織の誰が何を知っているか』を組織の全員が知っていることである」というものであるけれども、それが極端に同化してしまうとあたかも自分がなんでも知っていると錯覚してしまうのだろうか。
う~ん、なんだか人類補完計画に似てきたような気がする。ネット社会というのは人の手が届く小さなコミュニティの枠を大きく飛び越えて他人の知識と自分の知識を同化させていくもののようにも思えるけれども知性の究極の姿というのはそういうすべての人間が一体化してしまったものになるのだろうか?
それはそれでちょっとおぞましいような気がする。

そして他人の知性を引き込みながらそれを自分の知性だと知ったかぶりをする危険性を政治にたいするリテラシーを例に取り上げている。
今でも沖縄の基地問題や消費税率の引き上げ、社会保障、様々な賛否に関する意見がテレビや新聞に掲載されているけれども、専門家ではない一般人ははたしてどれだけそれぞれのことを論じているのか、投票しているのか。お昼のワイドショーに出てくる一般人のインタビューなんかをみているとそれが如実にわかることがある。

しかしながら、著者たちは、それだからどこが問題であるかとか、こういう風にただしていかなければならないとか、そういうことはまったく論じていない。それはきっとこの世の中に、“これが正しい”というようなものなんてないのだということをよくわかっているからだろが、ただ、そのスタンスとして、「自分はそれほど物事を知っているわけではない。」ということを十分に理解したうえですべてのことに対して知見を持たなければならないのだと結論付けている。

結局、そんなことはみんな心の中ではわかっているんだよというような結論であるように思えるがそこはやっぱり、自分のことを無知あり薄っぺらな主張に流され、浅はかな判断をする傾向があるのだとは思いたくない。
そこが悩みどころなのである・・。
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船底塗装

2018年10月08日 | Weblog
今日は4ヵ月ぶりの船底塗装だ。10月にこの作業をするのははじめてだったのだが、体が楽だ。ものすごく楽だ。
じつは、最近通勤途中に駅の改札を通り抜けるたびにいつも立ちくらみをおこしていて、今日の差業も無事に終われるのか少しだけ不安な中で港に向かったのであるけれどもそれは杞憂に終わった。

いつもの通りちからさんの手助けで和歌浦漁港のスロープに上架。そして今日も港内でタコ釣りをしていた名人が舳先に乗って位置決めをしてくれた。
偶然というか、この名人はひょっとして1年中港内でタコを釣っているのか必ず手助けをしてくれる。もちろんちからさんが声をかけてくれるからなのだが助かるのだ。
上架のときは台車から飛び出た柱に船を添わせて位置を維持しながら陸まで上がるのだが、これがひとりでできない。船が勝手に動くのだ。プロの漁師はひとりでその位置を決めてやっていくのだが僕はまったくダメなのだ。


入港前の東の空は今日もきれいだ。



一足早く上架していたちからさんの船の横に上陸し、



それから高圧洗浄機でゴミを吹き飛ばす作業にかかり今日の作業をスタート。
台風のあとで太平洋の高気圧が張り出しているということで気温は10月にしては暑い日であったのだが風がずっと吹いていてくれたので暑さで朦朧とすることもなく午後1時過ぎにすべての作業を終えることができた。



そして今日の体重は70.8kg。昨夜の体重が72.5㎏だったから極端にも減量とはなっていないことが今日の楽さを物語っているのだ。





さあ、これでどこまでも遠くへ行けるのだ!!
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水軒沖釣行

2018年10月03日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 6:24干潮
釣果:ボウズ

水軒の沖にタチウオを釣りに行ってボウズというのも珍しい。
元々、今日は釣りに行こうなどとは思っていなかったのだ。朝刊が郵便受けに落ちる音で目を覚ましてしまったのだから仕方がない。それだけの理由だったのだ。
アタリなのかゴミを引っ掛けたのかわからないような重みが2回ほどあっただけだった。電気ウキが流れているくらいだからタチウオはきっとそこにいると思うのだけれども・・・。



結局まったくの“徒労~リング”であった。朝焼けの雲がきれいだったことだけが救いだ。




今日は本当は台風21号の襲来で割れてしまった風防を修理しようと思っていたのだ。
釣りはそこそこにして、家に取って返して三輪車に風防を積み込んで港へ逆もどり。こんな状態だが、 加重逃走の犯人ではない。




今回はアクリルの50倍の強度があるというポリカーボネートを採用してみた。その代わり厚みは3㎜。前は5㎜だから単純に掛け算をしても前の風防よりも30倍の強度がある。はずだ・・・。



これをオーニングのフレームに取り付けるのだが、このフレームがどうも歪んでいるようだ。風防に入れた切込みの座りが悪いのだ。少し左にずれている。21号のときにあおられて歪んだとしか考えられない。
見た目はまったくわからないが、気になり出したら気になって仕方がない。がどうしようもない。


帰り道、和歌川の公園の桜の木に花が咲いていた。多分風で葉が吹き飛ばされて春が来たと勘違いしたのだろう。




タチウオが釣れなかったのもこんな季節の狂いみたいなものが関係しているのだろうか。
なかなかもっともらしい言い訳ではないか。



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