イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「おクジラさま ふたつの正義の物語」読了

2021年05月09日 | 2021読書
佐々木芽生 「おクジラさま ふたつの正義の物語」読了

どうやってこの本のタイトルを知ったのかということは忘れてしまったのだが、捕鯨問題がテーマの本だ。
図書館では、「郷土資料」の書架に並んでいた。確かに捕鯨問題は和歌山県の問題でもある。
捕鯨問題は、世間によくある、どちらが正しいかを問うても結局答えが出ない問題のひとつである。
鯨を食べる側からは、これは伝統であり何百年も前からこの習慣を続けている。よそ者にとやかく言われる筋合いはない。反対する側からは、クジラは知的な生き物であり残酷な殺し方は許せない。だから捕鯨には断固反対する。もともと価値基準が違うのだから合意点を見つけることは無理な話だ。どちらも見る側が変われば正しく、正義である。

そういった価値基準はどこから出てくるのか。そのひとつは宗教観の違いであるといえる。西洋では旧約聖書の頃からすべての生き物は人間が支配すべきものであると考えられてきた。それに加え、アリストテレスの、動物は人間よりも下等な生き物であるという考え方が加わる。食料の乏しい砂漠地帯を生き延びるための唯一の方法であった。
そして、いくつかの研究から、動物にも感情があり人間が考えているよりもはるかに知能が高いということがわかってきた。ダーウィンの進化論では、下等な生物からの流れで今の人類が存在していることが証明され、人間と動物が同じであれば、知性があり、痛みも感じる動物を大切に扱おうという考えに変わってきた。
対して、日本ではすべてのものに神が宿り、その神に生かされているという考えがあり、生きる糧も神様から分けていただいているというスタンスで動物を捕獲する。動物も人間も自然を構成する一部として対等である。だから相手を敬いながら生きる糧とする。
考え方には大きな隔たりがある。

シーシェパードが派生する前身となったグリーンピースは1971年ロバート・ハンターの手によって設立された。当初はアリューシャン列島のアムチトカ島での地下核実験に反対するという目的のために設立されたが、その後クジラの保護など環境保護団体としての色を濃くしてゆく。
彼らがこれほどまでに世界的に影響力のある環境保護団体になれたのにはひとつの戦略があった。当事者に抗議をすることに重きを置くのではなく、抗議(というにはあまりにも過激で一方的な)のシーンを映像に残しそれを全世界に配信し、世論を味方につけ感情に訴えるという戦術だ。1970年代というとインターネットは存在しない時代であったがロバート・ハンターと後にシーシェパードの創設者となるポール・ワトソンがロシアの捕鯨船の前に立ちふさがるシーンは強烈なインパクトを与え間もなくクジラを守るという行為がステイタスを持つようになる。寄付金も集まるようになってくる。以後は同じような手法を使い組織は巨大化してゆき2015年時点のシーシェパードが集めた寄付は423億円にものぼったそうである。
そういった組織の作った「ザ・コーブ」を観て著者は違和感を感じる。湾が血で赤く染まる光景をクローズアップしてセンセーショナルに描いているがそこには地元の人々たちの意見や考えはひとつも取材されていない。
何が何でも捕鯨を悪と決めつける態度に対して太地の人々は何も声を上げない。問題の映画を観ることすらしていない。もっと自分たちの考えを発信すべきだ。欧米に対して英語で発信された地元民の意見はほぼ皆無だ。それならずっと悪者になり続けるしかない。著者はそれでは不公正だと考え、中立な立場でドキュメンタリーを作りたいと太地へやってきた。地元の漁民を説得し、唯一取材を許されるが、東北沖地震での中断や地震が中国の犬肉食の現実を見て自分が感じたこと、固定観念の恐ろしさを実感し、どこまで中立なものを作れるかを迷う。
そんな中でも、シーシェパードを批判したり太地への応援を声高に訴える外国人などに背中を押されてドキュメンタリーの制作を続けるのだ。
2015年に映画は完成し、韓国の映画祭で上映させるが、そのときはじめて太地町町長、捕鯨関係者が外国記者の前で話をする機会を作った。著者は、それはひとつの前進であり映画を作ってよかったとそのときに思うのである。


僕もクジラの肉は好きだ。熊野の方へ行くと必ず太地の漁協スーパーに行ってクジラの肉を物色する。たまたま生の肉が陳列されていると今日はラッキーと思う方だが、イルカの肉と書かれていると二の足を踏む。これはきっと、イルカは知的な生物で、水族館でイルカショーをやってるし、それを殺して食べるというのはどうかという考えがよぎっているからかもしれない。ましてやこれをわざわざ食べなくても飢えることはなく、ぼくは一族の伝統的な習慣としてクジラやイルカを食べてきたわけではない。だから、「ザ・コーブ」を観たことはないが、もし観たとしたらそんな気持ちがもっと強くなるかもしれない。
しかし、報道されているような極端な活動をしている輩を見ると憤りを感じるし、そんなやつらが反対をしているというのならかえって捕鯨を肯定したくもなってくる。
こうなると、自然保護や動物愛護じゃなくてまったく別の感情が捕鯨に賛成という根拠になってしまう。
そう考えると、シーシェパードのメンバーたちも、自然保護や動物愛護ということからはすでに別の根拠で捕鯨に反対しているのではないかといぶかしくなる。
そして、赤の他人から、「あなたのやっていることは野蛮だからそっこく止めるべきだ。」と一方的に言われてしまえば、「何を言っているんだと何が何でも反発せずにはいられなくなる。」ひとは確かに感情で動く動物でもあるのだ。
そして、クジラやイルカ、それも映画で取り上げられた太地の捕鯨をターゲットに据えて活動をすることが寄付金を集めるという意味では一番効果があるという理由で世界中から叩かれているというのでは太地の人たちがあまりにも気の毒だ。“太地”という言葉は反捕鯨活動の世界ではブランドであるというのである。
だから、この映画がどれほどの数の人に観られているのかは知らないが、何か新しい動きにつながってくれれば僕も堂々とクジラの肉を食べられるというものだ。

一方で、二階俊博がいなければ太地の捕鯨はここまで維持することができただろうか。2019年には日本はIWCを脱退したが、これもひとつの日本(というか太地町としての)意思表明だったのだろうけれども、この人がいなければ日本人はだれもそんなことをする勇気はなかっただろう。なんだか悪人面した人だけれども、じつはこんな人がいないと分かり合えない人たちと戦うことができないというのが人の世界ということなのだろうか。

分かり合えないというと、ここ数冊の本を読んでいる間、「風の谷のナウシカ」の漫画版を並行して読んでいた。



つい最近も新聞の記事に取り上げられたり、歌舞伎の公演がテレビで放送されていたりしていたが、マスクが欠かせなくなった今、これはナウシカの世界とそっくりではないかというのは誰もが直感的にも感じることだし、僕もこれまで何回かこのブログにも書いてきた。
そして、この漫画のもうひとつのテーマは、大国(といってもこの世界ではそれはみんな衰退に向かっているのだが。)同士の対立である。ナウシカの世界では資源の奪い合いと民族の支配、独裁者による権力の奪い、合いそんなことが繰り返されている。
今、コロナの世界で覇権争いを繰り広げているアメリカと中国を予言しているかのようだ。
100年以上生きたある国の王は、最初は土民の平案を心から願っていた。だが、それも最初の20年だけで、やがていつまでも愚かな土民を憎むようになったという設定だ。
自粛を要請しても言うことを聞かない国民に対して、スガさんも同じことを思っているのかもしれない。ここも宮崎駿が懸念したとおりになっている。
では、この先には独裁者の誕生ということが起るのであろうか。
『独裁者が誕生するのは、民衆が面倒くさいことを押し付けることができる超人なり聖者なりがどこからか現れて、全部一人で背負い込んでくれるのを待っていたからだ。』という。
まさに今の時代を言い当てているとは言えないだろうか
感染者が一向に減らないのは政治家や行政が悪いのだと言っている人たちはまさに面倒くさいことを他人に丸投げしている人たちではないのだろうか。先ほどの言葉の続きだが、『独裁者は出現させる側により多くの責任がある。積極的に支持しなくても、黙って見ていれば同罪だ。』自粛するにしても町へ出るにしても自分が状況を判断した結果として行動すべきなのだ。規制をしてもらわないと秩序が保てない民衆はきっと独裁者が生まれる隙を作ってしまうような気がする。
そして、分裂した人々をひとつにまとめるには奇跡を見せるしかない。奇跡を見せられた人はキリストのようにその奇跡を起こしたひとの足元に集まる。
ナウシカも数々の奇跡をおこし人々をひとつにまとめた。
1986年に制作された、「スタートレック」の映画版の4作目は、未来の世界で絶滅したザトウクジラをタイムワープを使って過去から連れてくることで未知の文明体から地球を守るという話であったが、これもクジラ保護のプロパガンダであったのだろうか。それとも、
人間を分断からそして地球の危機から救う奇跡を起こしてくれるのはクジラなのだという予言だったのであろうか・・・。
じゃあ、やっぱり食べたらいかんかな~。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加太沖釣行

2021年05月04日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:小潮 7:43干潮
潮流:7:19 下り1.3ノット最強 11:10転流
釣果:マアジ 6匹

次の休みは5日だと思っていたら今日が休みだった。昨日の夕方に気がついてとりあえず釣りに行こうと決めた。今回は迷わず加太だ。昨日のSNSのメンバーたちはマアジをたくさん釣っていたので今日は朝一サビキでアジを狙って潮流が最強になる頃に高仕掛けで真鯛を狙ってみようと考えた。

終始下り潮なのでこれも迷わず大和堆ポイントと決めた。
しかし、ポイントに到着してみるとあまりにも寂しい。船は1艘だけだ。



しかし、そこは自分の勘を信じて仕掛けを降ろす。今日の仕掛けは、この冬そこそこ実績を作ったプロトタイプのサビキ仕掛けの前に作ったプロトタイプのプロトタイプだ。この仕掛けは3号の糸を使っているのでアジだけ狙うのならこっちの方がいいだろうという判断だ。鉤もビニールの長さもかなり小さくしている。

仕掛けを降ろして間もなくアタリ。小さいがマアジだ。とりあえず仕掛けはこれでも大丈夫だ。少しホッとする。しかし、今日は小潮で潮流も遅いはずなのだがなぜだか速い。じっとっしているとあっという間に仕掛けが斜めを向く。今日は釣りをしている間はずっとギアを前進に入れていなければならない状態であった。それもこの潮、上っているのか下っているのかそれとも風で流されているのかさっぱりわからない。仕掛けが流れていく方向にとりあえずは舳先を向けるというだけだ。それが悪かったのかその後はアタリが続かない。
そうしているうちにコイヅキに船団ができはじめていた。ここで粘るか、まだ潮は速いがコイヅキに移動するか・・・。このサイズのアジなら無理して粘っても仕方がないと考えて移動を決断。

コイヅキへ向かう途中、変なところに数隻の船が集まっていた。僕が知る限りでは、もう少し東の辺りではいつも船団ができているが、こんな場所ではあまり釣りをしている船を見たことがない。僕の船は運転中は魚探を見ることができないのだが一瞬覗いた視線に反応が出ていた。釣れるかどうかはわからないが試しにここで仕掛けを降ろしてみるとアタリがあった。船はすぐに流れるので同じ場所を行ったり来たりしながら4匹を釣り上げた。一番大きいアジを釣ったときは間違いなく2匹付いていたのだが途中で1匹外れてしまった。これはもったいない・・。

ここでもアタリは長続きせず今度こそコイヅキへ。



ポイントに到着したものの、今日のコイヅキは濁っている。海面を見てみるとスラッジがどっさり流れているのだ。しかし船がかなり集まっているところを考えるときっと釣れるのだろうけれども立て続けに仕掛けを2本根掛かりで失ってしまってはここで釣りを続ける意味はなくなった。朝に釣れた場所に戻ることを決断。
そっち方面に向かうと、朝の場所から少し離れた第2大和堆ポイントに船団ができている。



僕もそこに向かう。2、3回流してアタリがなければ撤退だ。
そしてやっぱりアタリがない。さて撤退だと仕掛けを回収していると魚探に反応が出てきた。ダメ元で仕掛けを降ろすとうまくアタリを捉えて40センチ余りのマアジをゲット。おまけにしてはうれしい魚だ。
これで本当に午前9時半に撤退。
なんとも素早い終了になってしまった。

朝一はそれなりに少し寒気があったけれども、港に戻る頃にはかなり気温も高くなってきていた。養翠園の木々の中からはなんとセミの声が聞こえている。もう春も終わってしまったのかもしれない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「文学はおいしい。」読了

2021年05月02日 | 2021読書
小山鉄郎/著 ハルノ宵子/画 「文学はおいしい。」読了

この本は、『和食がユネスコの無形文化遺産に登録され、さらに注目が集まる日本の食の姿を、文学を入り口にして考えてみたい。』という趣旨で書かれている。
ひとつの料理をそれが取り上げられている作品とともに見開き2ページでハルノ宵子の絵とともに紹介されている。料理の解説は料理法などではなく、ほとんどがその発祥について書かれている。そしてその発祥については書かれた書物とともに紹介するというのがその構成である。

全国の地方紙に連載されていたエッセイをまとめたものだそうだ。(地方の新聞社に共通に配信されているものがあるというのを初めて知った。)著者はどんな人か知らないのだが、絵を描いているひとは吉本隆明の娘さんであり吉本バナナのお姉さんだ。そのためか、最初は吉本バナナの作品で始まり最後は吉本隆明の作品で終わっている。

100の作品が取り上げれているが、作家の名前も作品もほとんどが初めてみるものであった。9割以上がおそらく昭和40年代以前のものであるようだが、そういうことを加味しても自分の無知に驚かされる。
読んだことがある本はたった4冊である。それもすべて内容は記憶の中から消えている。
作品の紹介としては、料理が登場する場面と少しだけのあらすじについて書かれているだけなので作品全体についてのことがわからないのではあるが、かえってそれが妙な先入観を抱かずにすむというのがいいのかもしれない。2ページという制約を逆手にとってうまく書かれているというところだろうか。

天武四年(675年)天武天皇が最初の食肉禁止令を出してから、明治五年(1872年)にその禁が解かれるまで日本では魚が料理の中心であったと著者はところどころで書いているが、それが多彩な日本食のもとになったのだとあらためて思うわけだ。肉が中心だと素材のバリエーションが少なすぎる。とくに読みたいと思う本はなかったけれども、そのことだけが 頭の中に残った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水軒沖釣行

2021年05月01日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 8:10満潮
釣果:ボウズ

今回の緊急事態宣言では仕事場は休業しているのだが僕たちの勤務には休業日というのをもらえない。去年の今頃は週休4日というような時もあったのでこれはこれで楽しくない。ちなみに図書館の貸し出し期間も去年は4週間に伸びたのが今年は2週間のままで、週刊誌の閲覧も規制されていない。
結局のところ会社に行っても暇なので1日有給休暇を取ってみた。今日と明日は連休だ。
両日の天気予報を見てみると、唯一今日の午前中、それも午前9時くらいまでが釣りに行けるような天気だ。田ノ浦ではカタクチイワシがサビキで釣れているという話を聞いたが、僕はどうもこの釣りが苦手だ。サビキなんて初歩中の初歩の釣りと思われているけれども、ほとんど釣ったためしがない。結局アミエビを大量に投棄して帰って来るはめになるのだ。それに加えて、釣れなかった時の心のダメージが大きすぎる。釣ったイワシでオイルサーディンを作りたいと思うのだが、今日も船に乗ってどこに行こうかと思案するのである。
本当は紀ノ川河口でスズキを狙ってみたいところなのだが、昨日、通勤電車の中から見た六十谷の堰の水は泥濁りがすごくて河口に入っても釣りにはならないだろう。

ということで今のところの課題である100均ジグの改造版に期待を込めて水軒一文字の沖に行ってみた。



港内を走行中、突然エンジンがストールしそうになった。これは何かをスクリューが拾ったなと思ってエンジンを引き起こすと、これは大人用の紙おむつのパッケージなのだろうか、ビニールゴミが巻き付いていた。



スーパーの袋ならともかく、どうして紙おむつのパッケージを海に捨てる必要があるのだ。理解に苦しむ。こんなことをしているから買い物袋が有料になってしまうのだ。

渡船で渡っているルアーマンを避けて新々波止まで行こうと思ったけれども、沖の一文字の方にもひとりだけしかいない。釣れるということにはほぼ期待をしていないのでできるだけ近いところでやるのが得策だ。そのルアーマンからかなり距離を置いて投錨。100均ジグを投げてみるがやはりアタリはない。辺りが明るくなってきてひとりのルアーマンが僕の船のすぐそばに現れたがかれにもアタリはないようだ。



しかし、すぐそこに船が泊まっているのだからもっと離れればいいのにと思うけれどもどうなんだろう。

テトラの向こうから朝日が顔を出してきたので今日はこれで終了。



港に戻って渡船屋の船頭に聞いてみると、ここ数日、ぱったりと釣れなくなってしまったそうだ。百戦錬磨のルアーマンたちが空振りでは僕に釣れるわけがなく、今日もお散歩代わりの釣りになってしまった。

あと数時間で大荒れの天気になるというのだが、この時刻の海はいたって穏やか。



本当に荒れてくるのだろうかと思っていたら予報通りに午前10時には強烈な南風が吹いてきた。
お昼前に車にのって図書館に行ったのだが、背の高い僕の車は風にあおられてハンドルを取られるような状態であった。
予報を信じて近場で済ませておいてよかった。

午前6時半には港に戻っていたので、こんな時はいつもの「わかやま〇しぇ」。
前回買った冷凍パン種は感動ものだった。2時間ほど放っておくと2倍くらいに膨れてきてふっくらなパンが焼き上がる。これが5個入って税抜き100円なのだ。今日は新型のミニクロワッサンというのもあったので買ってみた。
恒例無料謎の調味料、今日は塩だれのパック。鶏肉を焼いて絡めると1品できそうだ。
これかしばらくはこのパターンが続きそうで冷凍庫がパンクしそうになる・・。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする