イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「無と意識の人類史」読了

2022年04月04日 | 2022読書
広井良典 「無と意識の人類史」読了

タイトルの通り、この本は、人類は、「無」という概念を意識の中に取り入れることによってその存在を認識してきたのではないかという論を著者の専門である公共政策、科学哲学の知識をもとに展開している。このふたつの言葉からしてこの人がどんな研究をしているのかというこが想像できないのである。

なかなか面白いタイトルの本だと思って借りてみたが、かなり難解な本だった。半部以上はわからないのでなんとなくこんな内容だったのではないかという想像で感想を書くしかない。

「無」というからにはそれは何もない世界である。物理的に考えると、空間も時間も、もちろん質量もない。だから、その概念といっても何を考えていいかわからない、なので、この本では、「無限」の「無」のように、「有限」なものとしての対比として考えを進めている。

冒頭は、シンギュラリティの世界が創り出す不老不死の世界から始まる。無=死というものであるという考えに拡張して、人間がどんな生死観を持ってきたかということを説明し、その究極として不老不死を求める生死観へとつなげてゆく。
それは宗教観というものともつながりがあるのだが、それはどういう時に形成されるかというと、生活活動が拡大期から停滞期(この本では、定常化と呼んでいる。)に入った時だという。いけいけドンドンのときには無限の可能性しか考えないが、それが安定してきたとき、すなわち、これ以上の成長は見込めず、世の中は有限であると悟ったとき、外に向かっていた意識が”内”へと反転し、アートや宗教が生まれたというのである。
そして、その大きな転換期は過去2回あったとしている。
ひとつは、人類が誕生して狩猟採集生活を始めてから農業が始まる前、洞窟の壁画が描かれた時代である。狩猟採集生活が安定してきた頃である。これが約5万年前。
ここではアニミズム的な思想が生まれた。これを「心のビッグバン」と名付ける。
次の大きな転換点は、農耕が始まり、都市が形成された頃である。都市生活は安定しているけれどもここでもこれ以上の拡大は望めなくなったときに現代にも続いている普遍的な宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)が生まれたのである。これを、「枢軸時代」または、「精神革命」と名付ける。
この時代に、人々は無という考えを得ることになる。それは、人類の歴史が永遠でないのであれば、その前とその後には一体何があるのか、もしくはあったのか・・?
それが「無」という考え方になったというのである。キリスト教では「永遠の命と得るという無限の時間」、仏教ではそれが「空」という思想として現れる。どちらにしても、現世というのは、永遠という海の上に浮かんでいる島のようなものなのであると例えられている。人は死ぬと、その島を抜け出し、永遠の世界へとその居場所を移すのだというのがそれぞれの宗教で語られる共通の認識である。

そして、工業社会が情報社会へと変わり、あらたな定常化の時代を迎えているのが現代であると著者は言う。そこにはシンギュラリティを味方につけ、「無」を受け入れることを拒否するような不老不死を実現しようとしている。
この時代、コミュニティのなかで共有されていた「死」という認識は、そこから独立しても生きてゆけるという近代的な強さを得ることにより却って死に向かい合う孤独や恐怖を増幅させる。
そのひとつの方向として、認知症という死の恐怖を忌避するための緩和策が与えられたのかもしれないとする。また、別の方向では先に書いたように不老不死を求めるテクノロジーが生まれつつあるのではないかというのである。

「無」と「死」の関係について、こんな感じというか、これくらいしか汲み取って理解することができなかったのであるが、こういった宗教観念と、著者の専門である科学史の知見をもとに量子論やビッグバンに共通する「無」の定義などが語られている。そういった部分というのは僕もなんとなく不思議さを感じており、以前にもブログに書いてみたことがある
だから、じつは、この本に書かれているものというのは、そんなに目新しい見解でもないのじゃないかとは思うのだが、実はその奥にはもっと重大な真実が隠されているのかもしれない。しかし、僕にはそれを発見することができなかった。
やはり哲学というのは難しすぎる。まずは哲学論によく使われる言葉の言い回しから勉強しなければならないのではないだろうかと痛感したのである。

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タラノメ採り4回目

2022年04月03日 | Weblog
先週、せっかく紀美野町まで遠征したのにまったくタラノメを確保できなかったので今日はもう一度行くことにした。雨模様だし船も出せそうにないので釣りもあきらめがつくというものだ。そして紀ノ川筋のポイントも最後に見ておきたいと思っているので先週とまったく同じルートになる。

昨夜は、少しだけ不機嫌から立ち直った紀州釣り用のリールをもっと調子よくしてやろうとクラッチのユニットをばらしていたら遅くなってしまい、朝起きるのが遅くなってしまった。
午前5時半ごろには人知れず紀美野町のポイントでタラノメを採ろうと思ったが出発時間が午前5時半になってしまった。

リールの方はというと、また不機嫌なリールに逆戻りしてしまった。クラッチシステムに使われている極小のバネが原因だというのはわかってきたが、あんまり曲げたり伸ばしたりして折ってしまうとそこで万事休すとなってしまう。しかし、あと1回だけは調整してみたい。あと数回の使用機会しかないと思うのだが、その間は快適に使いたいと考えているのだ。



道中、すっかり明るくなってしまっていたので紀美野町に行く前に今年の元旦にみつけたポイントを回ることにした。先週見たところではほとんどの木が枯れてしまっているようだったのであまり期待はできないが、来年以降のためにも様子は見ておかねばならない。
確かにいくつかの芽は出ていたが、やはり大半は枯れてしまっているようだ。そして、ここは寒い環境にあるのか、芽は小さい。まだ固く閉じでいるものもある。なんとか食べられそうなものを3個だけ採り紀美野町に向かう。



紀美野町のポイントでは先週、薄暗い中で木をみていたのだが、今日はすっかり明るくなってしまっている。採っているところはあまり人に見られたくはないのだが仕方がない。
そして、枝の先っちょには大きくなった芽が出ている。急いで、しかも取り残しのないように採ってゆく。幸いなことに小雨が降ってきたので人は少ない。
しかし、ここはさすがにコンペティターがいるらしく、下の方はいくらか盗られている。しかも、もったいないことに、木が根元近くから折られている。少し高い場所の芽を盗ろうと木を無理やり曲げたのだろう。こんな場所は地元の人しか採りに来ないとおもうのだが、地元の人でもこんなにひどい盗り方をするものだろうか・・。ここもそんなに長くは取り続けられないのかもしれない・・。



とにかく芽を採ることを優先したので写真は採ったあとになってしまった。

ここからは港を経由して紀ノ川筋のポイントまで行くのだが、桜を見ながら移動することにしていた。満開は過ぎているのかもしれないがそれなりに花見をすることができるだろう。一眼レフを荷台のボックスに入れてきたので雨が心配だ。
道中の桜はちょうど満開。



前回の田辺湾への釣行のとき、高速道路から古墳のような小高い丘に桜が一本咲いているのを見つけていた。なんだか映画の1シーンのようにも思えるような景色だったのでそれを見てみようと来た道とは別ルートで港へ向かうことにした。



この桜は大して見事だというものでもなかったが、道中、凄い規模のタラの木のコロニーを見つけた。



バイクで道を走っているときは大体、わき見運転をしながらタラの木はないだろうかとキョロキョロしている。第2ポイント以外はそうやってみつけたところばかりだ。今日もキョロキョロしていたが、こんな場所にタラの木は生えていないだろうというところにそれらしき木をみつけた。幹をみてみるがトゲは目立たない。これはタラの木だろうかと思うのだが、やはりどう見てもタラの木だ。近づいて試しにひとつ採ってみると間違いない。おそらく、木が大きくなりすぎてトゲが退化しているのだろう。それほどまでに大きい木になっている。芽を見てみてみても誰も盗った形跡がない。タラの木の成長速度はどのくらいなのかは知らないが、道路からはそれほど離れていない場所で十数年、もしくは2、30年という期間、誰にも発見されてこなかったということだろうか・・。これは奇跡に違いない。あの小高い丘の桜の木の精が導いてくれたに違いない。
残念ながら芽は相当大きくなってしまっていて全部を採ることはできなかったが、おそらく第2ポイントに匹敵するか、もしくはそれを凌駕するほどの分量を採れるのではないかと思える。いい場所を見つけた。
この感じだとこのポイントでのベストな採りごろは第2ポイントと同じ頃なのだと推測できる。



その後も、この道路沿いに2か所、数本ずつ程度だがタラの木を見つけた。



おそらくじっくり探せばもっとたくさんのタラの木を見つけることができるに違いない。ついでに大きなゼンマイの株もみつけた。



このルートは何もかもが大きい。僕はこのルートを、「タラノメゴールデンジャンボルート」と名付けることにした。
誰にも教えるわけにはいかないが、僕が死の床についたとき、このルートの詳細を書いた地図を枕の下に敷いてあの世に行くので、それを見つけた人にだけこの情報を遺すことにしようと思う。



港へ行き、長らく乗っていない船の異常がないことを確認し、紀ノ川筋のポイントへ。ここも大きくなっている。先週は白いトレーナーのインテリ野郎に僕の姿を見られたけれども、幸いにも奴が盗った形跡はない。すべての芽を僕のものとして和歌山城へ向かった。



田辺に行ったあの日だけ気温が上がり、あとはけっこう寒い日が続いたからだろうか、和歌山城の桜もほぼ満開状態を維持している。
今年はタイミングが悪くて満開の桜を見ることはできないだろうと思っていたけれどもきれいな桜を拝むことができた。



最後にまた、和歌浦に舞い戻り、御手洗池の桜を見てきたのだが、ここも満開で、しかも和歌山城ほど人はいない。章魚頭姿山の頂上まで登りきる体力がなくなった今、意外とここは穴場なのではないだろうかと思った。



これで春のミッションの約半分を終えたことになる。次はコゴミを採りに行ってそれからは生石山だ。山菜の季節は始まったばかりである。

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