外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

「ああここは占領地なのね!」と思うとき

2010-12-18 16:57:30 | パレスチナ
「占領されたパレスチナ」といえど、ここ東エルサレムのオリーブ山での暮らしは平穏無事で、自分からデモなどに出かけない限り、占領の事実をうっかり忘れそうになるほどだが、それでも「ああそうか、ここは占領地だった!」と思い出させる出来事がちらほら起こるのだった。

西岸地区から無許可で侵入した労働者の逮捕
大家さんのアパートに上がりこんで、子供部屋のタンスの衣替えを手伝っていたとき、外が急に騒がしくなった。奥さんが窓を開けてしばらく耳を澄ましたのち、説明してくれたところによると、西岸地区からエルサレムにこっそり入り込んだ無許可の労働者たちが逃げてきて、追いかけてきたイスラエル警察と揉めていたらしい。西岸地区に住むパレスチナ人は、公式な許可証を手に入れなければ、エルサレムやイスラエル領内に入ることができない。でも西岸地区には仕事があまりないので、こうやってこっそり入り込んで闇で働くパレスチナ人労働者は後を絶たないらしい。彼らはつかまったら牢屋行きである。
「ここは自分の国なのに!あの人たち自分の国で働いてるのに、許可がないからって逮捕されるのよ!」と奥さんは憤慨している。全くもってその通りである。

火事の原因
パレスチナの新聞(AL-QUDS)に載っていた、小さなローカル記事によると:
先週、西岸地区では火事がウン件発生した(何件だったか数字は忘れちゃった)。その主な原因は、不注意、電気のショート、子供の火遊び、そして入植者の放火、など。

カランディアのチェックポイント
エルサレムとラマッラー(西岸地区の主要都市、エルサレムの北に位置する)の間を行き来する人・車両は、必ずこのチェックポイントを通らないといけないので、この周辺はいつも混雑している。特にラマッラーからエルサレムに向かう場合のチェックが厳しく(西岸地区からの、イスラエルへの玄関なので)、時間がかかるのだ。バスで通る場合、私のような外国人はバスに乗ったままでよく、乗り込んでくる兵隊にパスポートを提示すればいいだけなのだが、パレスチナ人はバスを降りて徒歩で通過し、身分証のチェックを受けないといけない。バスはチェックポイントを越えた地点で待機して、彼らが再び乗り込んでくるのを待つのである。その間バスの運転手はタバコを吸ったりお茶を飲んだりし、私はぼんやりと窓の外を眺めて時間をつぶす。木曜日の夕方は特に混んでいて、この間などラマッラーのバスターミナルを出発して、このチェックポイントを通過して再び出発するまでに2時間かかった。チェックポイントからエルサレムまでは30分。ちなみにエルサレム・ラマッラー間の距離は約15kmである。ラマッラーからエルサレムに通勤・通学しているパレスチナ人は毎日2回ここを通っているのである。これが「占領」のあかしでなくてなんであろうか。

旧市街で発砲するイスラエル兵
ヘロデ門から旧市街に入って、入り組んだ細い路地をしばらく歩いたところに、私の行きつけのインターネット屋さんがある。ゲームする子供たちでいつも騒がしいが、他の店より少し安いのである。ある日、いつものように入り口脇の台に座ってメールを書くのに熱中していたら、間近で不吉な音が聞こえきた。顔を上げておもてを見ると、店の前の路地にイスラエル兵が数人いて、道の前方に向かって発砲しているではないですか!音から察するに実弾ではないようだったが。店の番台のお兄ちゃんは全然動じず、「THIS IS PALESTINE」と言いながら、慌てふためく私に笑いかけ、店の戸を閉めにかかる。でも全面ガラスの引き戸だし、そんなもん閉めたって危険なことに変わりないのでは・・・。別の男の子が、「子供が石を投げたのが原因。これはインティファーダだ。」と説明してくれた。店の奥のほうでは(といっても狭い店なので、たいして奥でもないが)、小学校低学年くらいの小さな男の子が、騒ぎにお構いなしにゲームに熱中している。
しばらくしたら銃声がやんで、兵隊たちは引き上げていった。投石した子供は上手く逃げおおせたのだろうか。だいたい子供が石を投げたくらいでこんな狭い路地で発砲するなんて、非常識にもほどがあるっちゅうねん、危ないやんか!ほんまにありえへん!と心の中で関西弁で毒づきながら、私はメール書きを再開するのだった(念のため奥の台に移ったが)。それにしても、突然の出来事に呆然として写真を撮りそこねた私は、ジャーナリストには一生なれないであろう。
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ナビー・サーレハのデモ~毎週金曜日の小さなインティファーダ~(2)

2010-12-15 15:31:42 | パレスチナ

すいません、誤字を修正してたら中身が消えちゃった…

 

 

*十数年の時を超えて、再現したので、こちらをご覧ください。

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ナビー・サーレハのデモ~毎週金曜日の小さなインティファーダ~(1)

2010-12-15 15:25:22 | パレスチナ


ビリン村のデモに参加した後、デモンストレーションの意義や(これ何の意味があるのん?)、非暴力の平和的デモにおいてパレスチナ人の子供が石を投げることの是非について(非暴力のデモで石を投げるのって反則なんちゃうん?)疑問を持つようになっていた私だが、その疑問はここナビー・サーレハですっきり解消した。

11月のよく晴れた金曜日(毎日晴れだったけど)に、ISM(パレスチナ支援の国際団体)の人達と連れ立って、ナビー・サーレハに向かった。初めて聞く地名だし、何があるのかもよく知らなかったけど、誘われるままついていったの。
ラマッラーからオレンジ色の乗り合いバスに乗ってやってきたが、町の入口をイスラエル軍が閉鎖していて入れない。しかたなく近辺で車を降りて、そのへんの農家の子供に案内してもらって、太陽の下、オリーブ畑のあいだの道なき道を30分ほど歩いて(公道を通るとイスラエル兵に見つかってつまみだされる可能性があるから)ようやく町の中心、モスク前の広場にたどり着く。最初から「占領されたパレスチナ」らしい展開である。

広場には仮設舞台が設置され、青い椅子が並べてあり、地元のおじさんたちが談笑し、子供たちがコーラスの練習をしている。女の人たちも座っておしゃべりしている。私は暑い中歩いたせいでへろへろ、デモの前に体力使い果たしちゃった、もう帰りたいなあ(弱虫)・・・などと考えながら日陰に腰をかける。

しばらくしたら「アラファト死去6周年記念会」なるものが始まった。おお、そんなイベントがあったとは。でもこのイベントは短かった。演説を予定していた政治家の大半が、イスラエル軍のせいで町に入れなかったからである。1人のおじさんが舞台でスピーチしている間に、子供たちが唐突にそばで行進を始め、その物音に負けじとおじさんが声を張り上げ・・・という感じで進行していった。子供達のコーラスも無事終了。子供たちはファタハのTシャツや、「I LOVE TAMIMI」というロゴの入ったおそろいのTシャツを着ている。後で分かったが、この町の人たちはほとんどみんな「タミーミ」という名字であるらしい。そういえば、ビリン村の人たちはみんな「アブー・ラフマ」であった。京都の私の田舎では「花田」と「大西」が多かったな、などと思い出す。田舎ってどこも同じですね。

記念会が終了し、いよいよデモ行進が始まる。始まる前から空気中にすでに催涙ガスのかぐわしい香りが漂っている。なんて不吉な・・・。
道路閉鎖のせいか外国人の姿は少ないが、地元の人は老若男女とりまぜて大勢参加している。若い女の子も大勢いるし、子供たちもその辺をうろうろしている。天気も良くてデモ日和である。でも暑い・・・ホントに今は11月なのだろうか・・・。

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ビリン村のデモ

2010-12-14 15:15:26 | パレスチナ
私が参加したビリン村のデモは毎回(3回行った)こんな感じだった:

金曜日の12時半くらいに村のモスクの前に集合、地元のパレスチナ人(若い男の子が中心)と共にイスラエル人の活動家や外国人たち(年齢、国籍さまざま、男女半々くらい)が旗をふり、「FREE FREE PALESTINE!」などと叫びながらぞろぞろと行進して、イスラエル兵たちが待ち構えているフェンスの入り口(入植地への入り口)のところまで行き、パレスチナの旗を立てる。そうこうしているうちに、一部のパレスチナ人の男の子たちがフェンスの向こうのイスラエル兵たちに向かって石を投げ始め、その報復としてイスラエル兵たちが催涙ガス弾を雨あられと降らせるので、デモ参加者が後退する。イスラエル兵の攻撃の手が緩むと、また行進を再開するが、すぐまた投石が始まり、ガス弾の雨がそれに続く。1時間くらいするとイスラエル兵もデモ参加者も引き上げて終了。

催涙ガスを吸うと、一瞬息が出来なくなり、目の前が真っ暗になり、涙が止まらなくなり、顔の皮膚全体が痛くなる。普通は少ししたら収まるのだが、吸いすぎた人は呼吸困難になって病院送り。最悪の場合は失明するらしい。おそろしいですね!涙がでても目をこすったり、水で洗ったりするのはご法度で、じっと我慢してやりすごすのが一番良い。アルコールや香水の匂いを嗅ぐのもいいらしい。デモではこの催涙ガス弾がそこいら中に降ってくる。

一度まわりがガスで真っ白になって視界がきかなくなったときに、パレスチナ人の男の子たちが「マッタータ、マッターター!」と叫んで走って逃げ始めたのでとてもこわかった。「マッタータ」とはゴム、つまりゴム弾のことですよ、あなた。ゴム弾に当たったら怪我しちゃうので私も必死で走って逃げた。イスラエル兵は普通外国人を狙わないけど、視界が利かなかったので当たるかもしれないと思って。
ちなみに催涙ガス弾には大きくてスピードの遅いやつと、小さくて速いやつの2種類ある。速いほうに当たると死ぬこともあるので(ビリン村で過去に一人死者が出ている)、国際法で使用が禁じられているが、イスラエルはいまだに使用している。使用期限のすぎたガス弾も使っているらしい。恐ろしい国である。

ビリン村のデモは、入植地とその周囲のフェンス建設により村の農地が取られ、自由に行き来できなくなったことに抗議するために6年前から毎週行われている。国際メディアでも大きく取り上げられ、取られた土地の一部が戻ってきたり、許可証なしでもフェンスの向こうの自分の農地に出入りできるようになったりと、デモの効果は大きかったようだが、村人もいいかげん疲れてきたのか、現在はマンネリにおちいっていると思う。デモのリーダー格のアブドゥッラー・アブー・ラフマが投獄されているせいもあるのかもしれない。ビリン村のデモを救うにはどうすればいいのだろうか?ついでに村おこしも兼ねて・・・。現在の鉄網のフェンスに代わる、コンクリートの壁を建設中らしいし、ビリン村の未来はどうなっていくのだろう。とても気がかりである。あの陽気でフレンドリーな村人たちの幸福を心から願っているが・・・。
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パレスチナでデモに参加するということ

2010-12-13 15:13:34 | パレスチナ
パレスチナ支援のために個人的にやってくる外国人の使命は次の2つにつきると思う。
(その1)デモンストレーションや、入植地に隣接した危険地域において、パレスチナ人のそばに存在することにより、入植者たちやイスラエル兵たちの、彼らに対する攻撃を和らげる。
(その2)写真やビデオを撮って状況を記録し、自国の人達に伝えて、パレスチナへの支援を呼びかける。

NGOや国際組織に属している人達は、医療や教育支援など、直接役に立つことが出来るだろうが、私のようになんの組織にも属さず、手に職もない人間(しかも怠け者)に出来ることは限られているのである。

そんな訳で、とりあえずデモンストレーションに参加してみることにした。西岸各地で毎週金曜日の午後(イスラムのお昼のお祈りのあと)に、壁やフェンスや入植地建設に抗議するデモ行進が行われているのである。私は団体行動が嫌いだし、催涙ガスもこわいけど、パレスチナまで来て一度もデモに参加しないわけには行かないんですもの。

私はビリンという村で3回、ナビー・サーレフ村で1回参加した。どちらもラマッラーから乗り合いバスで30分ほどのところにある。ビリン村のデモは6年前から毎週行われており、国際的にも有名なのだが、ナビー・サーレフは1年前の入植地建設をきっかけにデモを行うようになったので、まだ歴史も浅く、知名度も低が、ここのデモはすごかった。

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