今日は広島に原爆が投下された日。
犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈り申し上げます。
さて、今日がそのような特別な日だということもあり、今日の仕事で伺った80代の男性から戦争当時のお話を聞く事ができた。
男性は15歳の時に兵隊に志願して戦争に行かれたそうだ。
時は終戦の前年。
行き先も知らないまま、北海道の小さな村から連れて行かれた先は広島県だったそうだ。
田舎しか知らずに育ったので、ずいぶん大きな街だと驚いたのが広島の第一印象だったとか。
その後、船で食料を運搬する任務に就く。
香港、台湾、中国などまで行ったそうだ。
そして翌年8月、中国の揚子江へ荷物を運んだ帰りの船の中で、広島に原爆が落とされたことを聞いたそうだ。
九州の門司に船が着いた時は長崎にも原爆が落とされた後で、長崎から避難してきた多くの人々を見て驚いたそうだ。
みんなひどい火傷を負い、服もボロボロ。そのような人々が港におおぜい集まっていたそうだ。
港に船を着けると乗り込んできてしまうということから、船は港から離れた沖に停泊していた。
ところが終戦になり、船の中で今後どうするか隊長以下乗組員で話し合ったそうだ。
とりあえず中国から積んできた米や砂糖がたくさんあったので、それを港で売ることにしたそうだ。
食料が圧倒的に不足していた時代、米も砂糖もあっという間に売れてしまう。
売上金を分け合い、すこし残しておいた米でおにぎりを作って船を下りた。
とにかく家に帰ろうと北へ向かう汽車にのる。
途中で広島に停まったが、あの大きな街が何も無くなっていたことに衝撃を受けたそうだ。
その後、広島からさらに進み、大阪で降りたそうだ。
当時、大阪駅には大人も子供も浮浪者が大勢いたそうだ。
大阪駅で毛布をかぶっておにぎりを食べていると、みんな指をくわえてじっと見ている。
子供が可哀そうだったので、すこし分けてあげると、周囲の大勢の人々が駆け寄ってくる。
とにかく誰も彼も、当時はみんなお腹を空かせていたそうだ。
ここまで話を聞いただけでも、胸がつぶれるような思いがする。
私は子供と動物のかわいそうな話にはめっぽう弱いときているので、お腹を空かせた子供たちの事を想像しただけで涙が出そうになる。
掃除用の雑巾を持ったまま、ついつい男性の話に引き込まれていたが、時計を見て慌てた!
ややや、もうこんな時間。
業務は一時間なので、残りの仕事を済ませなければ・・・
「じゃあ、続きは次に来た時に聞かせてくださいね」
そういって切り上げようとしたが、「いや、まだ続きがあるんだ。今日は掃除はいいから話を聞け」と言われ、また座りなおす。
さて、その後その男性はさらに青森まで行く。
青森からはもう北海道が見えていた。
「津軽海峡を渡れば家に帰れる」
ところが、青森の港には大勢のアメリカの憲兵がいて、船に乗る乗客を一人ずつ調べていた。
兵士だったことが分かれば捕まってしまうと思い、同じ故郷へ帰る仲間と共に軍の物資を売って作ったお金で小さな船を借り、夜中に見つからないように出航したそうだ。
そして、函館にもアメリカ軍が居た為、誰もいない陸に船をつけてもらったとか。
そうやってなんとか故郷の村に辿りついた男性が、最初に目にしたのは、小旗をふって出迎える大勢の村の人々だったそうだ。
この時が、お話をしてくれた男性の顔が初めて笑顔になった瞬間だった。
当たり前だけれど、もう二度と戦争は起してはいけない。
年数が経ち、戦争を経験した世代が少なくなってきたが、やはりこういう話は語り継いでいかなければいけないとあらためて思った。
今日の仕事の報告書には「よいお話を聞かせて頂いた」と書いておこうかな。。。
犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈り申し上げます。
さて、今日がそのような特別な日だということもあり、今日の仕事で伺った80代の男性から戦争当時のお話を聞く事ができた。
男性は15歳の時に兵隊に志願して戦争に行かれたそうだ。
時は終戦の前年。
行き先も知らないまま、北海道の小さな村から連れて行かれた先は広島県だったそうだ。
田舎しか知らずに育ったので、ずいぶん大きな街だと驚いたのが広島の第一印象だったとか。
その後、船で食料を運搬する任務に就く。
香港、台湾、中国などまで行ったそうだ。
そして翌年8月、中国の揚子江へ荷物を運んだ帰りの船の中で、広島に原爆が落とされたことを聞いたそうだ。
九州の門司に船が着いた時は長崎にも原爆が落とされた後で、長崎から避難してきた多くの人々を見て驚いたそうだ。
みんなひどい火傷を負い、服もボロボロ。そのような人々が港におおぜい集まっていたそうだ。
港に船を着けると乗り込んできてしまうということから、船は港から離れた沖に停泊していた。
ところが終戦になり、船の中で今後どうするか隊長以下乗組員で話し合ったそうだ。
とりあえず中国から積んできた米や砂糖がたくさんあったので、それを港で売ることにしたそうだ。
食料が圧倒的に不足していた時代、米も砂糖もあっという間に売れてしまう。
売上金を分け合い、すこし残しておいた米でおにぎりを作って船を下りた。
とにかく家に帰ろうと北へ向かう汽車にのる。
途中で広島に停まったが、あの大きな街が何も無くなっていたことに衝撃を受けたそうだ。
その後、広島からさらに進み、大阪で降りたそうだ。
当時、大阪駅には大人も子供も浮浪者が大勢いたそうだ。
大阪駅で毛布をかぶっておにぎりを食べていると、みんな指をくわえてじっと見ている。
子供が可哀そうだったので、すこし分けてあげると、周囲の大勢の人々が駆け寄ってくる。
とにかく誰も彼も、当時はみんなお腹を空かせていたそうだ。
ここまで話を聞いただけでも、胸がつぶれるような思いがする。
私は子供と動物のかわいそうな話にはめっぽう弱いときているので、お腹を空かせた子供たちの事を想像しただけで涙が出そうになる。
掃除用の雑巾を持ったまま、ついつい男性の話に引き込まれていたが、時計を見て慌てた!
ややや、もうこんな時間。
業務は一時間なので、残りの仕事を済ませなければ・・・
「じゃあ、続きは次に来た時に聞かせてくださいね」
そういって切り上げようとしたが、「いや、まだ続きがあるんだ。今日は掃除はいいから話を聞け」と言われ、また座りなおす。
さて、その後その男性はさらに青森まで行く。
青森からはもう北海道が見えていた。
「津軽海峡を渡れば家に帰れる」
ところが、青森の港には大勢のアメリカの憲兵がいて、船に乗る乗客を一人ずつ調べていた。
兵士だったことが分かれば捕まってしまうと思い、同じ故郷へ帰る仲間と共に軍の物資を売って作ったお金で小さな船を借り、夜中に見つからないように出航したそうだ。
そして、函館にもアメリカ軍が居た為、誰もいない陸に船をつけてもらったとか。
そうやってなんとか故郷の村に辿りついた男性が、最初に目にしたのは、小旗をふって出迎える大勢の村の人々だったそうだ。
この時が、お話をしてくれた男性の顔が初めて笑顔になった瞬間だった。
当たり前だけれど、もう二度と戦争は起してはいけない。
年数が経ち、戦争を経験した世代が少なくなってきたが、やはりこういう話は語り継いでいかなければいけないとあらためて思った。
今日の仕事の報告書には「よいお話を聞かせて頂いた」と書いておこうかな。。。