お正月を前にして、離れて暮らしていた家族が帰って来た。
家にいる間くらい美味しくて栄養のあるものを食べさせたいと、毎日料理作りに明け暮れている。
日頃の野菜不足を補うように、野菜中心の献立にしているが、お正月用の料理作りも加わると徐々に疲れが出て来た。
そんな時、家族に「映画でも観に行かない?」と言われた。
いつもなら「まだ家事が残っているから行かない」と断ることが多かったのだが、今回は「行く行く」と答えた。
クイーンのファンではなかったが、話題になっている映画「ボヘミアンラプソディ」を観たいと思っていた。
やるべき家事はまだ残っていたが、家事と映画のどちらを選びたいのかと自問したら、迷うことなく「映画」に軍配があがった。
映画はもちろん面白かったし、昼食に食べたハンバーガーとフライドオニオンとコーラが美味しかった。
ハンバーガーはめったに食べないけど、たまに食べると美味しい。
特にフライドオニオンはもっと食べたいくらいに美味しかった。
家事ではなく、映画を選んで大正解だった。
最近になって、常に「今、自分がやりたいことは何か?」を自分自身に問うようになった。
けっして大それたことではなく、ほんとうに些細なことばかりで、例えば「今トイレ掃除をしたいのか?玄関の掃除をしたいのか?」とか「散歩に行きたいのか?それともピアノを弾きたいのか?」とか・・・
つまらないことだが、こうして意識してみると、日常生活の中で私たちは「どちらにするべきか?」という選択を迫られていることが多い。
もちろん真っ先にやらなければいけない事というのもあるが、それは私の中では「(真っ先に)やりたいこと」になる。
たまに「どうしようかなぁ。やりたい気持ちはあるけれど、なんとなくやりたくない気持ちがする」ということもある。
このような時、なんとなくやりたくないという気持ちを無視して強行した場合、大抵あとから「やっぱりやらなければよかった」と思うことになる。
これは何度も実験してみた結果、そうなる確率が高かったので、今は少しでも「やりたくないなぁ」と思う時は取りやめたり、「やりたい」と思う時間にずらしたりするようにしている。
こうして自分が「やりたい」ことを優先するようにしたら、自分がいつもうきうきとした気分でいられるようになった。
昔、好きで何度も読んだ茨木のりこさんの詩集の中に「自分の機嫌くらい自分で取れよ、ばかものめ」という一節があって、その頃、落ち込んだりするといつも頭に浮かんでいたのだが、先日読み返したら、間違って覚えていたことが判明した。
自分の機嫌くらいではなくて、自分の感受性くらいの間違いだった。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
今読み返すと、茨木さんの自分自身に対するいら立ちのようなものが伝わってくる。
当時の私もやはり自分自身に対していら立ちがあったのかもしれない。
だから、この詩は私の心に響いた。
今あらためて読み返してみて、自分の心に変化があったように、この詩に対する想いも変わった。
そんなに肩に力を入れなくてもいいんだよ。
自分の好きな事、やりたいことを選べばいいんだよ。
当時の私にそう言ってあげたい。
今年も一年、拙いブログ記事を読んで頂きましてありがとうございました。
皆様にとって、来年が良い年になりますように。
家にいる間くらい美味しくて栄養のあるものを食べさせたいと、毎日料理作りに明け暮れている。
日頃の野菜不足を補うように、野菜中心の献立にしているが、お正月用の料理作りも加わると徐々に疲れが出て来た。
そんな時、家族に「映画でも観に行かない?」と言われた。
いつもなら「まだ家事が残っているから行かない」と断ることが多かったのだが、今回は「行く行く」と答えた。
クイーンのファンではなかったが、話題になっている映画「ボヘミアンラプソディ」を観たいと思っていた。
やるべき家事はまだ残っていたが、家事と映画のどちらを選びたいのかと自問したら、迷うことなく「映画」に軍配があがった。
映画はもちろん面白かったし、昼食に食べたハンバーガーとフライドオニオンとコーラが美味しかった。
ハンバーガーはめったに食べないけど、たまに食べると美味しい。
特にフライドオニオンはもっと食べたいくらいに美味しかった。
家事ではなく、映画を選んで大正解だった。
最近になって、常に「今、自分がやりたいことは何か?」を自分自身に問うようになった。
けっして大それたことではなく、ほんとうに些細なことばかりで、例えば「今トイレ掃除をしたいのか?玄関の掃除をしたいのか?」とか「散歩に行きたいのか?それともピアノを弾きたいのか?」とか・・・
つまらないことだが、こうして意識してみると、日常生活の中で私たちは「どちらにするべきか?」という選択を迫られていることが多い。
もちろん真っ先にやらなければいけない事というのもあるが、それは私の中では「(真っ先に)やりたいこと」になる。
たまに「どうしようかなぁ。やりたい気持ちはあるけれど、なんとなくやりたくない気持ちがする」ということもある。
このような時、なんとなくやりたくないという気持ちを無視して強行した場合、大抵あとから「やっぱりやらなければよかった」と思うことになる。
これは何度も実験してみた結果、そうなる確率が高かったので、今は少しでも「やりたくないなぁ」と思う時は取りやめたり、「やりたい」と思う時間にずらしたりするようにしている。
こうして自分が「やりたい」ことを優先するようにしたら、自分がいつもうきうきとした気分でいられるようになった。
昔、好きで何度も読んだ茨木のりこさんの詩集の中に「自分の機嫌くらい自分で取れよ、ばかものめ」という一節があって、その頃、落ち込んだりするといつも頭に浮かんでいたのだが、先日読み返したら、間違って覚えていたことが判明した。
自分の機嫌くらいではなくて、自分の感受性くらいの間違いだった。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
今読み返すと、茨木さんの自分自身に対するいら立ちのようなものが伝わってくる。
当時の私もやはり自分自身に対していら立ちがあったのかもしれない。
だから、この詩は私の心に響いた。
今あらためて読み返してみて、自分の心に変化があったように、この詩に対する想いも変わった。
そんなに肩に力を入れなくてもいいんだよ。
自分の好きな事、やりたいことを選べばいいんだよ。
当時の私にそう言ってあげたい。
今年も一年、拙いブログ記事を読んで頂きましてありがとうございました。
皆様にとって、来年が良い年になりますように。