前のブログ記事で私の両親が宗教的なものにはまったく興味がないと書いたが、嫁いだ家は毎朝欠かさずに神棚に手を合わせ、朝夕には仏壇の前でお経を唱えるという、実家とはまるで違った家だった。
神棚への朝のお参りは義父の日課、そして仏壇の担当は義母だった。
ちなみにお経をあげるのは義母だけで義父はお線香をあげるだけだったが、聞くところによると仏壇に毎日二回お経を唱える習慣は義母が嫁いできてから始まったようだ。
夫の家は、元々は神社を重視して神棚を大切に扱う家だったと聞いているが、子供の頃からずっとお寺のお手伝いをしてきた義母はお寺重視タイプで、義母が嫁いできてだんだんと力を持つようになると(笑)、お寺にたくさんの寄付をしたり、またお寺の行事にはお手伝いに行くなどして、夫の家はいつの間にか信心深い門徒の檀家になった。
義母は子供の頃から浄土真宗のお寺でお手伝いをしていたので、お経は全て暗記している。
お寺の住職さんから尼さんになって跡を継がないかと言われていたこともあったとかで、何十年と続けている朝夕のお勤めは義母にとって生活の一部になっている。
90歳になり認知症の症状が重くなってきたが、声を出して長いお経をあげることは義母の健康には役立っているのだろうと思う。
だが毎日の義母のお経が、もしかしたら外から様々なものを呼び寄せているのではないだろうかと思うことがある。
義母が毎日お勤めをする仏壇が置いてある部屋にはちょうど東北の方角に大きな窓がある。
東北というのは鬼門だが、そこから時々何かが入ってくると思うのは、ずっと前から感じていたことだった。
前に住んでいた家では鬼門から何かが入るという気配は感じたことが無かったことで、やはり義父母と同居して朝夕のお勤めが始まった頃から、そのようなことを感じるようになった。
ところで、仏壇のある部屋の問題の東北の窓から、まっすぐ進んだ場所の南西にあるのが私の寝室で、私は少し枕の位置をずらしているが、以前一度だけ東北の和室から来て、寝室へ入ってきた生きている人間ではない何者かがいた。
夢ではなかった。
ドアを開ける音がして誰かが近づいてきたと思ったら、いきなり左の腕をつかまれた。
入ってきたのが生きている人間ではなかったことは幸いだったが、やはり気持ちの良いものではない。
他にも仏壇のある和室の掃除をしていると視線を感じたり、和室の扉の前に誰かが立っているのを感じたり、そんなことが何年も続いた。
もちろん、他の家族は全くそのような気配は感じておらず、一度だけ腕をつかまれた以外は特に悪さをされることもなかったので、あまり気にもしていなかったのだが、同じことを書くようだが、やはり気持ちの良いものではなかった。
ところが、それが床供養を教えて頂いたことで、ほぼ毎日のように床供養をするようになったら、家の中での気配は消えた。
それでも義母のお経は毎日続いているので、ときどき何者かが入ってくることに変わりはない。
外から入って来ないようにすることもできるそうだが、床供養を知ったおかげで、入ってきたものを供養することができるので、私はそれでもかまわないと思っている。
最初、慣れない頃の床供養は、先祖供養とは違い何か得体のしれない物たちへの供養といった考えがあって、供養が終わると逃げるようにその場を離れていた。
しかし、今はその考え方もすっかり変わった。
信じられないかもしれないが、そのような誰にも供養されずにいるもの達が、今はとても愛おしく感じる。
以前は手を合わせながらも、何か嫌な感じがしたらすぐに逃げられるようにしていたが、今は落ち着いて心から成仏してくださいと祈ることができるようになった。
「自分の出したものは返ってくる」と聞くが、ここ最近では床供養をすると暖かなものが返って来る日もあると思えるのは気のせいだろうか・・・
さて、そのような訳でお経についてだが、義母が唱えるお経が良くないと言いたいのではない。
日本ではずっと昔に仏教が広まり、長い間、ほとんどの人は死んだらお経をあげてもらうものだと思い込んでいる。
だから亡くなってから救われたいモノ達が、お経に誘われてやってくることがあるのだろうと思う。
ただし家族や縁のある方からの心から成仏してほしいという想いがあって、お経を読むのは多少の効果はあるかもしれないが、何の関係もない他人にお金を払ってお経を読んでもらうことは、死者を成仏させることにはまったく効果がないと思う。
なぜそう思ったのか?
それは以前、義父の法事でお寺に行った時のことだった。
目の前で良い声のお坊さんが朗々と読経してくれているのも関わらず、その後ろで手を合わせていた私は何かに憑依を受けたことがある。
私は僧侶が読経する後ろで椅子に腰かけていたのだが、椅子から崩れ落ちそうになるほど、突然首から肩、腕全体が重たくなった。
あんなにはっきりと憑依されたと分かったのは、生まれて初めての事だった。
どうしようかな・・・と思いながら、一方で「お経、ぜんぜん効かないじゃん!」と思っていた。
とはいえ、父の葬儀でも読経していただいたように、日本ではまだまだ葬儀に僧侶とお経は欠かせないといった感がある。
うちの父も「死んだらお経をあげてもらうものだ」と思っているので、そのようにしてあげるのがベストであったと思うし、また、もしそうしなければ親戚からあれこれ尋ねられるのもめんどくさい。
ただ、これからは僧侶に読経をお願いすると言った葬儀のあり方も変わってくるのだろうなと思う。
なんだかとりとめもない文になってしまいましたが・・・おわり
神棚への朝のお参りは義父の日課、そして仏壇の担当は義母だった。
ちなみにお経をあげるのは義母だけで義父はお線香をあげるだけだったが、聞くところによると仏壇に毎日二回お経を唱える習慣は義母が嫁いできてから始まったようだ。
夫の家は、元々は神社を重視して神棚を大切に扱う家だったと聞いているが、子供の頃からずっとお寺のお手伝いをしてきた義母はお寺重視タイプで、義母が嫁いできてだんだんと力を持つようになると(笑)、お寺にたくさんの寄付をしたり、またお寺の行事にはお手伝いに行くなどして、夫の家はいつの間にか信心深い門徒の檀家になった。
義母は子供の頃から浄土真宗のお寺でお手伝いをしていたので、お経は全て暗記している。
お寺の住職さんから尼さんになって跡を継がないかと言われていたこともあったとかで、何十年と続けている朝夕のお勤めは義母にとって生活の一部になっている。
90歳になり認知症の症状が重くなってきたが、声を出して長いお経をあげることは義母の健康には役立っているのだろうと思う。
だが毎日の義母のお経が、もしかしたら外から様々なものを呼び寄せているのではないだろうかと思うことがある。
義母が毎日お勤めをする仏壇が置いてある部屋にはちょうど東北の方角に大きな窓がある。
東北というのは鬼門だが、そこから時々何かが入ってくると思うのは、ずっと前から感じていたことだった。
前に住んでいた家では鬼門から何かが入るという気配は感じたことが無かったことで、やはり義父母と同居して朝夕のお勤めが始まった頃から、そのようなことを感じるようになった。
ところで、仏壇のある部屋の問題の東北の窓から、まっすぐ進んだ場所の南西にあるのが私の寝室で、私は少し枕の位置をずらしているが、以前一度だけ東北の和室から来て、寝室へ入ってきた生きている人間ではない何者かがいた。
夢ではなかった。
ドアを開ける音がして誰かが近づいてきたと思ったら、いきなり左の腕をつかまれた。
入ってきたのが生きている人間ではなかったことは幸いだったが、やはり気持ちの良いものではない。
他にも仏壇のある和室の掃除をしていると視線を感じたり、和室の扉の前に誰かが立っているのを感じたり、そんなことが何年も続いた。
もちろん、他の家族は全くそのような気配は感じておらず、一度だけ腕をつかまれた以外は特に悪さをされることもなかったので、あまり気にもしていなかったのだが、同じことを書くようだが、やはり気持ちの良いものではなかった。
ところが、それが床供養を教えて頂いたことで、ほぼ毎日のように床供養をするようになったら、家の中での気配は消えた。
それでも義母のお経は毎日続いているので、ときどき何者かが入ってくることに変わりはない。
外から入って来ないようにすることもできるそうだが、床供養を知ったおかげで、入ってきたものを供養することができるので、私はそれでもかまわないと思っている。
最初、慣れない頃の床供養は、先祖供養とは違い何か得体のしれない物たちへの供養といった考えがあって、供養が終わると逃げるようにその場を離れていた。
しかし、今はその考え方もすっかり変わった。
信じられないかもしれないが、そのような誰にも供養されずにいるもの達が、今はとても愛おしく感じる。
以前は手を合わせながらも、何か嫌な感じがしたらすぐに逃げられるようにしていたが、今は落ち着いて心から成仏してくださいと祈ることができるようになった。
「自分の出したものは返ってくる」と聞くが、ここ最近では床供養をすると暖かなものが返って来る日もあると思えるのは気のせいだろうか・・・
さて、そのような訳でお経についてだが、義母が唱えるお経が良くないと言いたいのではない。
日本ではずっと昔に仏教が広まり、長い間、ほとんどの人は死んだらお経をあげてもらうものだと思い込んでいる。
だから亡くなってから救われたいモノ達が、お経に誘われてやってくることがあるのだろうと思う。
ただし家族や縁のある方からの心から成仏してほしいという想いがあって、お経を読むのは多少の効果はあるかもしれないが、何の関係もない他人にお金を払ってお経を読んでもらうことは、死者を成仏させることにはまったく効果がないと思う。
なぜそう思ったのか?
それは以前、義父の法事でお寺に行った時のことだった。
目の前で良い声のお坊さんが朗々と読経してくれているのも関わらず、その後ろで手を合わせていた私は何かに憑依を受けたことがある。
私は僧侶が読経する後ろで椅子に腰かけていたのだが、椅子から崩れ落ちそうになるほど、突然首から肩、腕全体が重たくなった。
あんなにはっきりと憑依されたと分かったのは、生まれて初めての事だった。
どうしようかな・・・と思いながら、一方で「お経、ぜんぜん効かないじゃん!」と思っていた。
とはいえ、父の葬儀でも読経していただいたように、日本ではまだまだ葬儀に僧侶とお経は欠かせないといった感がある。
うちの父も「死んだらお経をあげてもらうものだ」と思っているので、そのようにしてあげるのがベストであったと思うし、また、もしそうしなければ親戚からあれこれ尋ねられるのもめんどくさい。
ただ、これからは僧侶に読経をお願いすると言った葬儀のあり方も変わってくるのだろうなと思う。
なんだかとりとめもない文になってしまいましたが・・・おわり