箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

回り道にも意味がある

2019年07月17日 06時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 私は最初の校長を務めた中学校で、教頭の時、拒食症の女子生徒に出会いました。
 
 ちょうど10年前の今頃のことでした。
 
その生徒は心の悩みが重なり、3年生の夏休み前には、ものが食べれずかなりやせ細っていました。
 
 学級担任から相談を受け、1学期末の三者懇談にも同席しました。 
 
その子の悩みは深く、一度ぐらいの懇談で、解決できるような課題ではなく、時間がかかりました。 
 
卒業式後の花道を送り出すときは、手を握って「しっかりと進んでいきなさい」と伝えたことを覚えています。
 
その後、高校生の時に再会する機会がありました。それは中学校区で行っていた「校区クッキング」の場でした。 
 
保幼小中の子どもたちが集まり、お正月のおせち料理を大人と一緒に作るイベントでしたが、その場に彼女が来ていました。 
 
聞くと、その生徒は高校卒業後、栄養学科のある大学へ進学する予定だということでした。 
 
「私は中学校の頃、食べられなくて悩みました。こんな私だから、将来は栄養士になって食を人々に提供する仕事に就きたいのです」。 
 
彼女はこのように語っていました。 私は、その言葉を聞いて、どれほどうれしく、どれほど励まされたことだったでしょうか。 
 
このことから思うこと。
 
中学時代の経験は、彼女にとってはたしかに長い回り道だったことでしょう。
でも、回り道に無駄なことは一つもないのです。
 
 
この生徒の場合は拒食症でしたが、学校に来にくい不登校の生徒の場合も、回り道に無駄なことはないと私は考えます。 
 
いつの日か、あのつらい日があったから、いまのわたしがあると思える時がくると思うのです。 
 
当事者の子にもそういう思いで、難局を切り開き、歩んでほしいと願いますが、それができるためには、教師の役割も求められます。 
 
子どもは成長する。いつかこの経験がこの子の宝になると信じて、寄り添い、かかわり続け、子どもを支える覚悟と態度が教師には必要です。 
 
 
 
 

全力を尽くすことを教えたい

2019年07月16日 08時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
少し前のことです。
 
01で負けていたサッカーポーランド戦の終盤、西野監督が率いる日本は勝利を目ざすことよりも、パス回しをして試合を終えました。
 
コロンビアがセネガルに勝ったことで、日本は2大会ぶりに決勝トーナメントへ進出できたのですが、西野監督の判断について賛否両論が起きました。
 
 
私は、このことについてコメントする立場ではありません。
 
 スポーツは、たとえ追加点を入れられようとも、正々堂々と戦うべきだ。
 
いや、国を代表して出場しているチームが決勝トーナメントに出るか出ないかは大きなことだ。
 
大人には、大人の事情がありますし、現場で指揮官が必要だと判断した戦術です。
 
その判断について、とやかく言うものではありません。
 
 
 
ただし、もし選手が中学生だったならどうかと思う点はあります。
 
 
私は校長在任中に、臨時顧問として、剣道の大会に生徒を引率したことがあります。
 
聞いたところでは、国内の小学生剣道団体戦では、勝つためには手段を選ばないこともあるそうです。
 
剣道の団体戦は5人ずつで行い、先鋒、次鋒、中堅、副将、大将と続きます。
 
先に3勝したら勝ちですが、最初三人が引き分け狙いで戦い、あとの強い二人でチームの勝ちにかかる指導者もいると聞きます。
 
引き分けにするため、故意に床に倒れると時間が稼げます。
 
指導者なら、すべての子に全力を尽くすようにと伝え、試合に出すべきです。
 
ごく一部の少年剣道の話かもしれませんが、勝つことよりも全力を尽くすことを教えるのが教育としての剣道だと思うのです。
 
 

空を見上げる

2019年07月15日 07時22分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 
みなさんは、時々でも空を見上げていますか。
 
パソコンやスマートフォンを見続ける人は、前かがみに画面を見ることが多く、首や肩がこります。
 
いわゆる「スマホ首」です。
 
私も、ブログはたいていスマホで作っていますので、首や肩がこります。
 
そのため、意識的に顎に手をあて、首を後ろにグッと押して整体をしています。
 
 
さて、上を向いた姿勢は、こりをほぐすだけでなく、気持ちを前向きにする効果があると、脳科学でも言われています。
 
上を向くと、イライラ感や怒りという感情が軽減されるとも聞きます。
 
 
 
くわえて、空を見上げると、1日として同じ空はありません。
 
季節でも違います。見る時刻によっても違います。
 
地球が大宇宙の中で、自転し公転しつづけているからこそ、変化する空を見ることができるのです。
 
人が空を見上げれば、自身と宇宙がつながっていることに気がつきます。
 
いそがしく、張り詰めた気持ちのときでも、空を見上げると、この広い大宇宙の中で、自分の感情など、とるにたらない小さなことであると思うこともあるのです。
 
ときには、鮮やかな夕焼けの空もあります。
 
またときには、変わった形の雲が見えたりします。
 
私は、幼少期から自然豊かな環境で空を見ていたから、よけいにそう思うのかもしれません。
 
でも、都会でも空を見ることはできます。それはまぎれもない自然の風景です。
 
それらをみて、美しいと思い、湧き上がってくる感情は、日常生活のしがらみから、自身を解放してくれます。
 
空を見上げることを、日常生活にとりいれていくと、不思議と心が満ちていきます。

信頼する子育て

2019年07月14日 09時31分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
親御さん自身が、毎日の生活を楽しんでいますか。
 
親が楽しく生活して、周りの人からも認められて適度な評価をもらっていれば、わか子を育てるのも楽しく、わが子をほめることもできます。
 
子育ては真剣に子どもと向き合って行うものですが、深刻になる必要はありません。
 
「子どもが一番大事です」と子どもを最優先して子育てをすると、疲れてしまいます。
 
子育てをあまりにがんばるものと考えると、うまくいかないものです。
 
自分が子どもだった頃を思い出してみてください。
 
あなたは自分の親に「子育てをがんばってほしい」と思っていたでしょうか。
 
それよりも、親が笑っていてくれることだけを望んでいたのではないですか。
 
子どもにとっては、「わたしのためにがんばる親」は、重苦しさと息苦しさ感じます。
 
親が、ありのままで過ごすのが、子どもにとっては、一番なのです。
 
笑顔で過ごしている親が横にいる家庭の子は健やかに成長します。
 
だから、親はがんばりすぎないほうがいいのですが、たった一つだけ親ががんばらなければならないことがあるとするなら、それはわが子を信頼することです。
 
子どもには可能性があると信頼するからこそ、「待つ」ことができるのです。
 
教師も子どもを信じますが、最後、ほんとうの最後まで子どもを信じることができるのは、親です。
 
わたしも、わが子を信じて見守り続けたいと思っています。
 
もし理想の子育てがあるとするならば、それは子どもを信頼する子育てです。

三者懇談に想う

2019年07月13日 07時49分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
中学校では、いま1学期末の三者懇談を午後に行っています。
 
1学期の子どもの生活状況や学習状況をふりかえり、できたことや課題を、家庭と学校で話し合うのが、懇談の目的です。
 
親御さんもお忙しいなか、やりくりをして学校にきてもらえるのです。
 
その意味で、まずご足労くださったことに、ねぎらいとお礼の言葉を伝えることから懇談が始まるのです。
 
このことを、私は一昨日、初めて学級担任をして、初めて三者懇談をする教員に話していました。
 
 
親も子も来てよかったと思える三者懇談になればいいと願っています。
 
私自身も何度も懇談してきて、いまこういう立場になり、三者懇談について、あらためて思うことがあります。
 
 
保護者の方と相談しながら、子どもの将来像を描き、子どもの自立を見通して、こんな人になってくれればいいですね・・・。
 
こんな会話ができる人が、教師としての仕事でないか。
 
その地域で暮らす子どもがいて、家族がいて、笑いがあり涙もある。
 
そんな人間的な暮らしのある家庭の子を育むのに役立ちたいと思うのが教師であるべきです。
 
たんに授業で子どもを教え、学力をつけることをこえて、子どもの人生の幸せをつくる仕事にまい進してほしい。
 
こう思います。

こころで見つめる四行詩

2019年07月12日 06時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
木が
 
風に 揺られて 音を立てる
 
自然の 楽器を あやつる風は
 
気ままな音楽家
 
 
箕面市内の中学1年生が国語の時間に作った「こころで見つめる四行詩」です。
 
表現技法に擬人法と隠喩を使っています。
 
 
 
 
こんな四行詩もあります。
 
 
 
みんな中学生
 
みんなシャーペンを 使いだす
 
うわ気される えん筆
 
えん筆が 悔し涙を流す
 
 
こちらの作品には、体言止めと反復、さらに擬人法が使われています。
 
 
四行詩は、国語の教科書にでてきました。
 
それを学習したあと、自分も四行詩を作ってみるということで、チャレンジしました。
 
 
 これらの作品が、学年廊下に掲示されていました。
 
私は、ふと立ち止まり、生徒の着眼点の豊かさにハッとしました。
 
ふだんのなにげない風景から、新しい驚きをみつけ、それをひしています。
 
さらに、廊下に掲示することで、友だちの作品を読むことができます。
 
学校だからこそ、作品が陽の目を浴びることができます。
 
本人はたんに学習した知識を身につけるだけでなく、自分流に活用して、オリジナル作品を自分の宝物にできます。
 
作者の生徒は知識とその活用力を身につけ、学力を高めていきます。
 
そして、言葉豊かに成長していきます。
 
学校での教科学習の意義が、こんなところに見いだせます。
 

これもできる、あれもできる

2019年07月11日 07時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
お子さんが中学生になった頃、親は今までの子育てをふりかえることがあります。
 
順調に育ってきたと思えればいいのですが、そうも思えない場合もあるでしょう。
 
 
言われないと自分からは学習に向かわない。
 
あるいは、言ってもなかなか学習をしない。
 
自分から進んでものごとをやろうとする覇気にかける。
 
自分では決めることができず、人任せである。
 
もっと積極性や自発主性がほしい。
 
 
 
こう思うとき、今までの子育てをふりかえり、
 
親が何でも先回りをして育ててきたからだろうか。
 
または、親がかまいすぎたからかもしれない。
 
何でも親が与えすぎたのだろうか。
 
・・・・・・・
 
ほんとうに、親の悩みは尽きません。
 
 
しかし、親御さんのなかて、なにか心当たりがあるならば、そのようにしてきた自分の気持ちや感情に目を向けてみたらどうでしょうか。
 
わが子を大切に思うからこそ、将来苦労させたくない。可能性を伸ばして、豊かな人生を送ってほしい。
こう思ってきたのです。
 
これは、親の愛情です。
 
愛情があればこその親の行動だったのです。
 
それほどまでに強い気持ちの愛情だったのだと思えばいいのであり、わが子にそれだけの気持ちを向けることができたのはすばらしいことなのです。
 
ただ、その気持ちや思いの出し方が適切でなかっただけです。
 
 
 
また、考えてみると、「わたしの子育てはこれでよかったのだ」と自信をもって自分の子育てを語れる人がどれほどいるでしょうか。
 
みんなが迷いながら、悩みながら、「これでよいのだろうか、よかったのだろうか」と思いながらいるのです。
 
 
 
 
私も迷ったことがありました。
 
でもわが子が成人した今では、私はできないことよりも、できることの方に目を向けることができます。
 
行動力があるなとか、しっかりとした考えができるとか感じるようになりました。
 
車で迎えに行ったら、降りるときに必ず「ありがとう」と言ってくれる。
 
このように思えることが増えてくると、逆に子どもに任そうと思えることが増えてくるから、不思議です。
 
みなさん、お子さんが中学生でも、わが子が「できないこと」よりも、「できること」を考えてみてください。
 
けっして少なくはないはずです。
これもできる。あれもできる。
 
そうすると、「うん、この子は大丈夫」と思えるようになります。
そう思うことができる親御さんは、私から言います。
 
「あなたの子育ては大丈夫です」と。
 
 
 

心ときめくから

2019年07月10日 09時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
私が教師になって、初めて出した学級通信の名前は「ときめき」でした。
 
子どもの心は動いています。
 
わたしはこれに惹かれるとか、これが楽しいとか、「やってみたい」という心の動きが、「ときめき」です。
 
 
さて、私が最後に校長を務めた中学校の生徒は、小さい頃から習いごとをしてきた生徒が、けっこう多くいました。
 
なかには、高校進学にむけて書く調査書には、書道、ピアノ、暗算などの特技や資格を複数個記入してある生徒がいました。
 
親御さんがご家庭の経済事情を踏まえた上で、お金をかけて習いごとにお子さんを通わせた結果だと思います。
 
 
一例をあげると、ピアノを弾く子は、合唱祭にむけ、クラス合唱の伴奏を引き受けます。
 
そして、練習を重ね、すばらしい伴奏をしてくれます。
 
親御さんは「いろいろなことができる子に」という願いでお金を出し、子どもは特技や資格を身につけてきたのです。
 
ただ、私も習いごとをしましたが、私の場合は、剣道、習字、そろばんなど、どれも中途半端でした。
 
だから、私は生徒がひたむきに、上手にピアノを弾く姿に接して感心することが多かったのです。
 
そこで、この子と私はどう違っていたのかを考えていました。
 
それは、習いごとに、その子の心がときめいていたのかどうかだと考えます。
 
親も習わせたい、子どもも求めている。そして習いごとをしている子どもの心がときめいたとき、成果か出て上達するのだろうと考えます。
 
やっていて、その子の心が動いた「ときめき」は、子どもか喜んでいるあかしであり、技能や特技習得の最大のモチベーションです。
 

意欲は命令・指示からは生まれない

2019年07月09日 08時40分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 学校に勤める教職員は、高いモチベーションを保つれべきです。 
 
とくに、「悩むのが仕事」と言われるぐらい、思春期の中学生の悩みは多く、尽きないのです。 
 
だから、その生徒たちと向き合う教職員には、高いモチベーションが求められます。  
 
ところで、モチベーションとは、命令や指示で生み出せるものではありません。 
 
学校も一つの組織です。校長や教育委員会の命令や指示を軽く考えてはいけないのはもちろんです。 
 
しかし、命令・指示が出ていないときにこそ、教職員のやりがいはあるのです。
 
自分が前向きに、意欲的に「こうしたい」「こうするのだ」と自己決定して生徒に向き合っていく。
 
 そのときのきめては、「生徒のために」という一途な思いです。 
 
「生徒のために、自分はこうしたい」と自発的に、主体的に行動します。 そのとき、教職員は高いモチベーションで教職に臨むことができます。  

ありのままを認めるとは

2019年07月08日 06時52分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
よく、「子どもをありのままを受け入れる」「子どもの存在をまるごと認める」という言葉を、学校でなら教職員が言います。
 
家庭でなら、「わが子がいてくれるだけで、ありがとう」と親が言います。
 
ところで、これらの「まるごと認める」とか「いてくれるだけで」という言葉が表す、子どもの「存在」とはどういう意味なのかが、わかったようでわかりにくいものです。
 
 
4年間箕面三中の校長を務めた私が、数回だけ三中生に言った言葉があります。
 
それは、
「あなたは、大事な、大事な三中の生徒です」
という言葉です。
 
学校生活上の悩みを抱えたり、困難に直面して、立ちすくんでいる生徒に、私が使った「奥の手」とも言える言葉です。
 
 
臨床心理学に、ときどき登場する3つの用語があります。
 
having
「いいケータイをお待ちですね」
 →その人がもっている持ち物をほめています。ただし、その人をほめているのではなく、モノをほめています。
 
doing
「お忙しいのに、来てくださったのですね」
 →その人の「来てくれた」という行為を評価しています。
人そのものではないですが、その人の「したこと」を評価しています。
 
being
冒頭の言葉「ここにいるのは、三中のの大切な生徒です」
 →一切条件をつけません。無条件で、その子が学校にいてくれるだけで素晴らしいというニュアンスをもつ言葉です。
 
 
 ③に関して、
たとえば、「教室に行きたくない」と渋って、自分の思いを教師に伝えている生徒に対して、
 
即座に
「そんなこと言わずに、せっかく登校したのだから」とか「みんなが待ってるから行こうよ」と教師が返すのは「being」ではないのです。
 
大切なのは、「教室へ行きたくないという思いの生徒を認める」ということです。
 
「今は、教室へ行くことがしんどいんやね」と、生徒の気持ちをいったん受け止める、一度その気持ちにOKを示すことです。
 
そのあとは、成り行き次第です。「行きなさい。途中までついていくから」なのか「じゃあ、教室へ今日は行かなくていい。ここに私といなさい」となるのかは、その場の状況しだいです。
 
大事なことは、その子の思いを一度は認めたかどうかです。いったんは、教室に行きたいないという私をわかってくれたかどうかです。
 
(写真と本文の内容は、無関係です。)

友だちとは

2019年07月07日 08時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
わたしは、教職という仕事を通じて、多くの生徒や親御さん、地域の人たちと出会ってきました。
 
しかし、地球上に生きている全体の人の数からすれば、ほんの一握りの人たちにすぎません。
 
人間が一生の間に、出会いつきあうことのできる人の数は限られているのです。
 
 
いまの時代の中学生が「友だち」というとき、その捉え方は、人それぞれかもしれません。
 
いまの中学生は、SNSでつながっている人を含めて、たくさんの友だちをもっていることがいいと考える価値感をもっている子もいます。
 
そのことが、友だちの少ない子には圧力になることもあります。
 
しかし、「1000人の友をもつ者は、一人の友もいないのと同じ」という言葉があります。
 
心を許しあえる友だちが一人でもいれば、その人の人生は豊かになると、私は思います。
 
友だちの数を自慢して話す子がいても、浅いつきあいの友だちが多いとするならば、その子にとっても、またその子の友だちにとっても、得るものは少ないのだと思います。
 
あまり友だちができないと、悩む必要はありません。

水のごとく

2019年07月06日 07時58分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
どんなに時代が変わろうと、昭和であろうが、平成であろうが、令和になってとも、生徒が先生に望む第一は、「えこひいきをしない」です。
 
どの生徒に対しても、公平に接することが常に教師には求められます。
 
もちろん教師も人間ですから、ソリの合う生徒も合わない生徒もいます。
 
しかし、そうだとしても、どの生徒にも公平にするのは、教師として最低条件です。
 
 
 
では、教師はどのように公平に生徒に接するのがいいのでしょうか。
 
それは、どの生徒に対しても、淡々とした接し方がいいのです。
 
中国の格言に、次の言葉かあります。
 
「君子の交わりは淡きこと水のごとし。小人の交わりは甘きこと醴(れい)のごとし。」
 
これは、君子が人と関係をもつのは淡々としていて水のようである。でも、ふつうの人がもつ関係は甘酒のようにドロドロしているという意味です。
 
教師と生徒の関係は濃すぎてはいけない。淡々としていて、どの生徒にも水のように、どの生徒にも同じように接するのが基本である。
 
淡々としていると聞けば、あっさりとしすぎでよくないのではという印象をもつ人もいるでしょう。
 
もちろん、手のかかる生徒には醴のごとく、濃く関わるのですが、多くの生徒がいる場面では、どの生徒にも水のごとく接するのがいいのです。
 
 
 

愛されようと思うな、愛しなさい

2019年07月05日 11時37分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
最近のアスリートがよく口にする言葉が、
 
「応援してくれた人に感謝します。恩返しをしたい」
 
です。
 
 
いい言葉だと思います。
わたしもときどき、中学生にいっていました。
 
 
「与えて恩を願わず、受けて恩を忘れず」
 
 
この言葉は、もとは大隈重信の言葉です。
 
自分が人にしてあげた恩で見返りを求めるものではない。しかし、自分が人からしてもらったことの恩を忘れてはならない
 
こういう意味で、箕面三中の生徒を諭していました。
 
 
 
感謝や恩ということについて、日本を代表する経営者・稲盛和夫さんは、さらに深いことをおっしゃっています。
 
 
 
 
「何かをしてもらったことに感謝するのは、ある意味で当然です。
 
それよりも大切なことは、何もしてもらわなくても感謝の気持ちを持つことです
 
みなさんは、自分が礼を尽くしたのに、お客さまから無視されたり、横柄な態度をとられたりしたこともあるでしょう。
 
しかし、それでも、お客さまを心の底から大切にして感謝するのが本当の感謝です」
 
 
 
 
この言葉は、JALの再建にかかわり、CAの人たちとの座談会の席上で、稲盛さんが言ったものです。
 
 
 
その言葉は続きました。
 
 
 
 
「『お客さまから愛されるCAになりたい』と話した人がいましたね。それよりも、お客さまを愛することのできるCAを目指しましょう。
 
愛されようとして、サービスをするのではなく、家族に対する愛情と同じような愛情をもって、お客さまと接することのほうが大事です」
 
 
 
わたしは、その言葉をお借りして、学校の先生に伝えます。
 
 
「子どもから愛される教師を目指すのではありません。
 
子どもを愛することのできる教師を目指しましょう。
 
愛されようとして、教育をするのではなく、家族に対する愛情と同じような愛情をもって、子どもたちと接することのほうが大事です」
 
 
 
ここまで書いて、わたしは以前、教員に言った言葉を思い出しました。
 
 
「子どもから好かれようと思うな。子どもを好きになれ」
 
稲盛和夫さんの言葉は、企業経営であれ教育であれ、人の生き方として真実をついているので、様々な分野での普遍性をもつのだと思います。

 好きなだけ「自分の時間」を過ごす

2019年07月03日 07時42分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 先日、私の孫と娘が、里帰りで帰ってきました。 
 
孫のために、ブロック遊びのおもちゃを買っておきました。 
 
その子はブロック遊びがすっかり気に入り、ブロックで作ったおうちに入ってご満悦でした。 
 
そのおうちには扉もついていて、扉を開けては閉め、開けては閉めしていました。 
 
それを見て私は、子どもが自分で「自分の時間」を過ごせることの大切さをあらためて感じました。 
 
親が、子どもに有効・有益といわれる習いごとに通わせる、親子で遊ぶイベントに子どもを連れていき、遊ばせたりすることが、いまの若い親御さんに人気があります。 
 
小さいときから習いごとに通わせてもらっている子は、習いごとへ行くのをいやがったり、渋った子もいるでしょう。 
 
習いごとも、イベント参加も、お金を出して体験を買っていることになります。 
 
でも、お金を出さなくても、子どもが家で好きなことをしたいときに、好きなだけ遊べることも大切だと、私は思うのです。 
 
ですから、子どもが小さいとき、あまり外へ連れて行って遊ばせなかったとか習いごとにも通わせてやれなかったとすまなく思ったり、気にする必要はありません。 
 
家にいて、自分の時間を思う存分、好きなことで過ごせた子は大切な経験を積んでいるこです。
 
子どもが、思う存分、自分の好きなことで、自分の時間を過ごすことができていれば、子どもの将来は充実したものとなるでしょう。
 
 
 

中学生のテンポに合わす

2019年07月02日 09時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
中学生と大人が話すときのポイントは、話すテンポを大人と話すときよりも、速くすることです。
 
 
一般的に言って、高齢の人は会話のテンポが遅く、反応も遅くなる傾向があります。
 
 
私が中学校での授業を参観していて思うのは、テンポよく話す教師の授業には、子どもがついていきやすいということです。
 
話すテンポは、子どもの思考にも関係します。
 
説明を聞いて、「ではこれは?」と生徒が感じるときに、次の説明がかぶさってくる。
 
つまり、話し方のスピードが生徒の思考のスピードと合致すると、歯切れのいい授業になります。
 
ベテランで授業経験の豊かな先生は、このテンポを体得しています。
 
そういう先生は、年配者でも若々しく見えます。
 
しかし、若い人でも授業経験の少ない人は、話のスピードが生徒にミスマッチすることがあり、ギクシャクした授業になります。
 
バラエティ番組では、出演者のボケと司会者のツッコミがテンポよく続き、さすがだと思います。
 
授業だけでなく、中学生との日常会話でも同様です。
 
「先生、今度、勉強を教えてください」
 
「うん、じゃ明日の放課後!」
 
 
このように、即座に反応して返事します。
 
ゆっくり考えるのも必要でしょうが、「うーん、いつにしようかな・・・」では、軽やかさに欠けます。
 
中学生と接していると、教師は自然と気持ちまで若々しくなるのです。
 
私自身は、中学生と話していると、10代の若い子のエネルギーを体に吸い込んで、自分に活力が注ぎこまれることを自覚しています。
 
とくに全校生徒を前にして話すときに感じる活気には、大きな力があります。