東北地震、阪神大震災からだいぶ時間が経過して、当時子どもだった人が、大人になったり、中学生や高校生になっている子もいます。
自然災害や大規模な事故、先日の京都アニメーションの火事で、親しい人を失ったこと、または学校生活や友達関係での大きな挫折など、深く傷つくような悲しいことが起きたとき、よく人は「悲しみを乗り越えて」と言います。
しかし、心がつぶれてしまうような悲しみは乗り越えていくことなどできないと、私は思います。
そんなに人間は強くないのです。
私は、「悲しみとつきあっていく」ことしかできないと思うのです。
大きな悲しみに出会ったとき、人は打ちひしがれ、何もできなくなります。茫然としてしまいます。
しかし、絶望の淵に立ちつくしていた人が、その悲しみをひきすりながらも、また歩き出すようになれる。
忘れることなんてできないけど、その悲しみとつきあいながら、つらいなかにありながらも、歯をくいしばって先を見れるようになることしかできない。
でも、そのエネルギーは「生きること」に確実に向かい出しているのです。
今までも、わたしはブログで何回かこの歌詞を取り上げていますが・・・。
それほどこの歌詞はメッセージ性をもっているので。
「この変わり果てた 大地の空白に 言葉を失って立ちつくしていた。何から先に手をつければいい 絶望の中に光を探す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
記憶の傷口はかさぶたになって 痛みの中にやさしさを生むんだ
それでもわたしは 一歩歩き出す 人と人が求めあっている
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今日という日が そう つらい一日でも、できることを はじめようか。」
(秋元康作詞 「風は吹いている」より)