台風ですね。当地でも朝からきつい雨、昼からの雨や風は相当なものになりそうな予測です。
みなさんお気をつけてお過ごしくださいね。
昨日の「まいまい京都」は、曇天ながら最後まで降らなくって本当にラッキーでした。
さて、「御土居でOh!」その2です。
ハシゴのような階段から住宅地に抜けました。

急な勾配の道。正面に見えるのは鷹ヶ峰。
右側(北側)が旧土居町。御土居の上に作られた住宅なので段々畑のように土台があります。
左側(南側)の住宅はごく普通の地面の上に立っている感じ。

「南旧土居町」となっているのは、広い町内なので自治会を分けてある、とのこと。
解説者が、地元の人たちに聞いたりして足で稼いだ知識だなとわかります。

この坂も街道沿いまであがっていけばなだらかで南北の差も感じられなくなります。

電柱に土地の記憶?

右側の電柱。御土居の名前がしっかりと。

左側の電柱。「足立」というのは地名や人名ではなく、このあたりの住宅開発をした会社名だとか。
左側(南側)の開発の方が御土居よりあとだったようです。

今歩いてきたのが5番の道。

街道に出たら、次の「史跡御土居」。

高札場(公営掲示板のようなもの?)ほ「火の用心」のあたり。髪結床は北側の角のあたり。
京都は街の入り口に髪結床があり、それが警察の役割も果たしていたんだそうです。
江戸では木戸番にあたるものだとか。
この中にも入ります。

7番のあたりまで入っていきます。

フェンスの中に入っていったらなだらかな草地。
右に見えるのは廃業した焼き肉屋さんの痕跡だそう。
御土居で焼き肉、と解説者さんは仲間内で盛り上がっていたそうです。
そう言えば昔「有明」という名の飲食店があったよね。

左手に御土居。

こんなクランク型の急な階段。

断崖絶壁。

うまく写ってないけれど、ここで御土居はほぼ直角に南に折れ曲がっています。
引き返してこちらの御土居の上にも登ってみました。

下から見たらそんなでもなかったけれど、高いです。

光悦堂がこんなに小さく見えます。
江戸時代初期に本阿弥光悦が御土居の外側に移住させられて
その旧宅が光悦死後に光悦寺というお寺になってこの地に残っています。
そこから名前をもらったのかな?
光悦町という地名はもっと坂道登って光悦寺の近辺です。
ここの名物御土居餅をもらって鷹峯街道を降りていきます。

さて、8番の道が鷹が峰街道。
道の東側には江戸の小石川薬草園と肩を並べる鷹ヶ峰御薬園があって、
江戸時代まで庶民派は入れない、開発もできない土地だったとか。
ちょうど、今のセブン―イレブンのあたり。
だから街道沿いに古い町家があるのは西側だけ。
坂下りていって薬草園がなくなったあたりから町家があります。

街道沿い、最近家がなくなって駐車場になったところも多いんですが、
そういったところの向こう側に竹が見える。それは御土居の痕跡。
御土居は江戸時代竹が植えられていて、その管理は民間に任せられていた。
角倉了以なんかも関係していたそうです。
京都は幕府直轄地で、
「行政(幕府)はお金を出さないけれど、御土居の竹などで儲けたお金を使って維持管理よろしく~」
今の行政は金は出さないのに口は出す、というのがあったりするし、
江戸幕府Good Job。
この竹藪、ずっと残っていたんですが、
1984年頃、ご近所のクレーム「蚊が発生する」とのことで切り倒されちゃったとか。
北木ノ畑町バス停あたりから西に入る。ちょうど市営住宅が取り壊し作業中。
その奥にまた「史跡御土居」。

このあたりは紙屋川の河岸段丘を利用してのもの。

よく氾濫する紙屋川が大きく蛇行しているのは
西野山撓曲の端っこが影響しているそうです。
降りていったら朝鮮初級学校跡地がありました。

昔、北木ノ畑町バス停で小学生が降りてたよね。
少子化の流れはあちこちに、
今は京都全体の初級学校が統合されて伏見に移転とのこと。
この道をそのまま降りていって仏教大学や市営住宅を抜けて千本北大路へ。
御土居は大きな構造物で江戸時代までは厳密に管理され、
広い土地として残ったため、大学が建ったり、京都駅になったり、
と広い土地が必要な施設が建っていったとのこと。
宣言の碑がありました!

「人の世に熱あれ、人間に光あれ」
の初代委員長南梅吉氏がこちらの出身だからか。
京都、岡崎公会堂で創立され、結成宣言が読み上げられたんですね。
学生の頃初めてこの言葉を知り、以後この言葉を聞くと、背中がゾクゾクします。
解説者は「じんかん」と読むとおっしゃってたけど、ウイキでは「にんげん」とルビ。
サークルやってたときも「にんげん」と読んでいたなあ。
最近の研究結果で読み方が変わったのかな。
千本北大路で解散となりました。