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10月17日(土) 晴のち曇
実家の長兄・和義兄さんは、温和で義理人情に篤く、思いやり深く優しいひとであった。
口数が少なく、向き合って長い会話を交わした覚えは決して多くない。
けれど、あれは確か、関西国際空港が開港したときのことだった。
我が家の次男の結婚式が大阪第一ホテルで行われるのに併せて、見物がてら大阪に来られたので、案内かたがた同行させてもらったことがある。
その空港の人が溢れるトイレに、私は不覚にも抱えバッグを置き忘れ、すぐに取りに戻ったけれど、すでにバッグは消えていた。
慌ててクレジットカード会社に連絡を取り、無効の手続きはしたものの、改めて銀行やゆうちょのカードが届くまでには1週間ほどかかるという。
「家に帰れば、結婚式用のお金があるけれど、今日はお土産も買えないわ」と自嘲したあと、前を歩いておられた兄さまが、後ろ手に組んだ両手に何かを挟んでひらひらさせておられる。
急ぎ追いついて見たら1万円札で、「ほらっ、使えよ」と、背中で言っておられるようだ。
黙って指から抜き取った3万円を、この日ありがたく使わせていただいた。
帰宅してすぐに、現金封筒で兄の会社宛に、長いお礼の手紙とともにお返ししたことであった。
小学生のころ、テストの成績が100点でなかったことを父に叱られ、表の間でしくしく泣いているところへ帰宅された兄さまが、「バカやなぁ、親父は忙しいので上の1、2枚しか見ないんやから、悪かったテストは下の方に留めておけ」と言ってもらい、一気に気持ちが明るくなった。
雨の日は、きょうだいや近所のお友達を集めて「お店屋さんごっこ」をし、日本銀行券と書いた10円札や硬貨をたくさん作って、ご自分はふかし芋を糸で四角に切り分けてお皿に盛り付け、これがとても美味しくてあっという間に売れてしまい、そんなところにお友達が来られて兄さまが抜けると、お店屋さんごっこもあっという間に終わってしまうのだった。
兄さまは、尾鷲で電源開発の仕事に従事し、現場監督として式を執っておられたとき、径75センチのヒューム管を吊り上げたワイヤーが突然に切れて大きな土管が斜面を転がりだしたという。
土管の落ち行く先には、人夫さんが2人仕事をしておられた。
「危ないっ!」
兄さまは、叫びながら2人の人夫さんに体当たりして逃がし、ご自分は残った方秋をもぎ取られた。
共に働居ておられた周囲の皆さまが、着ていたシャツをてんでに脱いで腹部をきつくきつく縛り上げ、頭を下にして麓から運んだ雨戸に乗せて尾鷲市立病院に運び込んでくださった。
外科部長さんが、「当院始まって以来の重症患者です」おっしゃったとそうだ。
山中の現場で事故が起きた場合、日ごろから高圧的で思いやりに欠ける方が、適切な処置を受けられず、命を落とされる例も多々ある、と聞いた。
大腿部が付け根からもぎ取られた状態で、よくぞ助かったもの、と家族は驚きつつ安堵したけれど、兄さまは「2人を死なしたら、現場監督の責任は大きいよぉ」と笑っておられた。
責任感が病衣をまとって、ベッドに横たわっておられるようであった。
思い出す度に、ありがたいことがたくさんあって、私は心身ともにダンディなこの兄が大好きであった。
後年、11歳年上の夫に恋し、結婚してもらったのは、兄さまと同い年生まれのせいであったのかもしれない。
夫は来年2月に23回忌を迎え、兄さまは今日が13回忌。
きっと 亡夫や逝かれた恭子ねえさまと、同世代同士で楽しく過ごしておられるにちがいない。
私も、この世の思い出話をたくさん持って、次の世でこの家族たちに、早く会いたいと願う今日の午後である。
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兄さまの長男の英登くんは、亡兄が子どものころやんちゃで聞かん氣で、路面電車の前に立ちはだかって停車させ、父親が警察署で始末書を書いた事件など、親のDNAを色濃く受け継いでおられるから、彼もまたいたずらっ子エピソードには事欠かない。
高校教諭であった実家の妙子ねえさんが、英登くんに私立中学を受けさせようと、教え子さんに頼んで家庭教師に行ってもらったら、勉強よりも「先生、プロレスをやろう!」とうら若き女性を4の字固めで攻め立て、あっという間に家庭教師さんは来られなくなった。
やんちゃでガリ勉ではない彼が、私立高田学苑の6年コースに受かった年の1学期に、兄さまが父兄懇談会に参加したら、「お父さん、本人は勉強する気が無いし、この成績なら電車通学などしないで、地元の中学に戻ったほうが良いですよ」とアドバイスされたという。
そんな彼が、高校から入学されたるり子さんを見初めて、向学心に灯が点いた。
ストレス性の胃腸炎で入院を余儀なくされるほど、勉強に打ち込んだ日々…
結果、受験した東京大学理科Ⅱ類、早稲田大学理工学部、東京電機大学のすべてに現役合格され、6年後、兄さまの反対を押し切って農水省には行かず一般企業に就職された。
新入社の身で、戸建ての住宅を用意してもらい主任研究員の職責も与えられ、それらすべては、恋人と結婚するためであった。
「彼女を7年も待たせたから…」
結婚も親の反対を押し切り、両親の前で「るり子は良い娘です。最後まで反対されるなら、已むを得ないけれど、参列していただかなくて良いです」と言い切り、最後は兄さまも折れて地元のホテルで盛大な結婚式が挙行された。
英登くんを日々旦那さまと呼び慕い、一男一女の母になられたるり子さんは、穏やかで聡明で、優しい優しいひとであった。
…と、過去形で書くのがいたたまれないほどせつなくもったいない、甥の嫁であった。、
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実家の長兄・和義兄さんは、温和で義理人情に篤く、思いやり深く優しいひとであった。
口数が少なく、向き合って長い会話を交わした覚えは決して多くない。
けれど、あれは確か、関西国際空港が開港したときのことだった。
我が家の次男の結婚式が大阪第一ホテルで行われるのに併せて、見物がてら大阪に来られたので、案内かたがた同行させてもらったことがある。
その空港の人が溢れるトイレに、私は不覚にも抱えバッグを置き忘れ、すぐに取りに戻ったけれど、すでにバッグは消えていた。
慌ててクレジットカード会社に連絡を取り、無効の手続きはしたものの、改めて銀行やゆうちょのカードが届くまでには1週間ほどかかるという。
「家に帰れば、結婚式用のお金があるけれど、今日はお土産も買えないわ」と自嘲したあと、前を歩いておられた兄さまが、後ろ手に組んだ両手に何かを挟んでひらひらさせておられる。
急ぎ追いついて見たら1万円札で、「ほらっ、使えよ」と、背中で言っておられるようだ。
黙って指から抜き取った3万円を、この日ありがたく使わせていただいた。
帰宅してすぐに、現金封筒で兄の会社宛に、長いお礼の手紙とともにお返ししたことであった。
小学生のころ、テストの成績が100点でなかったことを父に叱られ、表の間でしくしく泣いているところへ帰宅された兄さまが、「バカやなぁ、親父は忙しいので上の1、2枚しか見ないんやから、悪かったテストは下の方に留めておけ」と言ってもらい、一気に気持ちが明るくなった。
雨の日は、きょうだいや近所のお友達を集めて「お店屋さんごっこ」をし、日本銀行券と書いた10円札や硬貨をたくさん作って、ご自分はふかし芋を糸で四角に切り分けてお皿に盛り付け、これがとても美味しくてあっという間に売れてしまい、そんなところにお友達が来られて兄さまが抜けると、お店屋さんごっこもあっという間に終わってしまうのだった。
兄さまは、尾鷲で電源開発の仕事に従事し、現場監督として式を執っておられたとき、径75センチのヒューム管を吊り上げたワイヤーが突然に切れて大きな土管が斜面を転がりだしたという。
土管の落ち行く先には、人夫さんが2人仕事をしておられた。
「危ないっ!」
兄さまは、叫びながら2人の人夫さんに体当たりして逃がし、ご自分は残った方秋をもぎ取られた。
共に働居ておられた周囲の皆さまが、着ていたシャツをてんでに脱いで腹部をきつくきつく縛り上げ、頭を下にして麓から運んだ雨戸に乗せて尾鷲市立病院に運び込んでくださった。
外科部長さんが、「当院始まって以来の重症患者です」おっしゃったとそうだ。
山中の現場で事故が起きた場合、日ごろから高圧的で思いやりに欠ける方が、適切な処置を受けられず、命を落とされる例も多々ある、と聞いた。
大腿部が付け根からもぎ取られた状態で、よくぞ助かったもの、と家族は驚きつつ安堵したけれど、兄さまは「2人を死なしたら、現場監督の責任は大きいよぉ」と笑っておられた。
責任感が病衣をまとって、ベッドに横たわっておられるようであった。
思い出す度に、ありがたいことがたくさんあって、私は心身ともにダンディなこの兄が大好きであった。
後年、11歳年上の夫に恋し、結婚してもらったのは、兄さまと同い年生まれのせいであったのかもしれない。
夫は来年2月に23回忌を迎え、兄さまは今日が13回忌。
きっと 亡夫や逝かれた恭子ねえさまと、同世代同士で楽しく過ごしておられるにちがいない。
私も、この世の思い出話をたくさん持って、次の世でこの家族たちに、早く会いたいと願う今日の午後である。
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兄さまの長男の英登くんは、亡兄が子どものころやんちゃで聞かん氣で、路面電車の前に立ちはだかって停車させ、父親が警察署で始末書を書いた事件など、親のDNAを色濃く受け継いでおられるから、彼もまたいたずらっ子エピソードには事欠かない。
高校教諭であった実家の妙子ねえさんが、英登くんに私立中学を受けさせようと、教え子さんに頼んで家庭教師に行ってもらったら、勉強よりも「先生、プロレスをやろう!」とうら若き女性を4の字固めで攻め立て、あっという間に家庭教師さんは来られなくなった。
やんちゃでガリ勉ではない彼が、私立高田学苑の6年コースに受かった年の1学期に、兄さまが父兄懇談会に参加したら、「お父さん、本人は勉強する気が無いし、この成績なら電車通学などしないで、地元の中学に戻ったほうが良いですよ」とアドバイスされたという。
そんな彼が、高校から入学されたるり子さんを見初めて、向学心に灯が点いた。
ストレス性の胃腸炎で入院を余儀なくされるほど、勉強に打ち込んだ日々…
結果、受験した東京大学理科Ⅱ類、早稲田大学理工学部、東京電機大学のすべてに現役合格され、6年後、兄さまの反対を押し切って農水省には行かず一般企業に就職された。
新入社の身で、戸建ての住宅を用意してもらい主任研究員の職責も与えられ、それらすべては、恋人と結婚するためであった。
「彼女を7年も待たせたから…」
結婚も親の反対を押し切り、両親の前で「るり子は良い娘です。最後まで反対されるなら、已むを得ないけれど、参列していただかなくて良いです」と言い切り、最後は兄さまも折れて地元のホテルで盛大な結婚式が挙行された。
英登くんを日々旦那さまと呼び慕い、一男一女の母になられたるり子さんは、穏やかで聡明で、優しい優しいひとであった。
…と、過去形で書くのがいたたまれないほどせつなくもったいない、甥の嫁であった。、
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