友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

母に捧げるラストバラード

2008年08月18日 23時01分49秒 | Weblog
 御園座の観劇券をいただいた。武田鉄矢主演の『母に捧げるラストバラード』である。結論から言えば、よく泣きよく笑わせてもらった。芝居の後で武田が「母はあんなふうでした」と言うから、よほど面白い人だったのだろう。いつも前向きで、くよくよすることはなく、ドーンと肝っ玉が据わっている人だったのだろう。おそらく武田の母親も私の母親と同じ、明治の終わり頃に生まれ、大正、昭和と生き抜いてきたのだろう。同時代の人というのはなんとなく似たところがあるように思う。

 武田鉄矢は1949年生まれだから、私よりも5歳年下の団塊世代だ。舞台は昭和35年の福岡で、武田家の家族構成が面白おかしく紹介されるところから始まる。5人の子どもたちの一番下が本当は生みたくなかった鉄矢である。物まねがうまくお調子者の彼が、芸能界で名を上げるようになり、鉄矢の母は「5人も産んどきゃーひとりくらいは当たる者もあるわ」と言っているから、自慢の息子には違いない。

 昭和35年は、「60年安保」の年でもある。武田が言うようにあんなに貧しかったのかな?と思う。私は高校1年生だが、日本はもうかなりの勢いで経済復興に向かっていた。確かにまだ、豊かさを実感できるものではなかったが、貧しいと思うほどではなかったような気がする。食べ物は充分にあったし、テレビもラジオもあった。電気釜もあったのではないか。我が家はまだ朝食はご飯と味噌汁であったように思うけれど、姉の家や友だちの家でもパンに目玉焼きにハムにミルクだった。急速に西洋化していく時代だった。

 私も武田と同じように、1週間に2回は映画館へひとりで映画を見に行っていた。書店を回っては好きな本、ほとんどが新書版の小説だったけれど、自分の小遣いで買い求めることが出来た。終戦を迎え、日本は新しい国に生まれ変わる、漠然とそのように思い込んでいた。けれども自分の周りを見ても、祖父は家長制度がそのまま残っているような人であったし、政治家を見ても、戦前からそのまま居ついているような人ばかりで、戦争への反省は見られなかった。日本は新しい国に生まれ変わることは幻想だったのか、次第にそんな思いが強くなっていった。

 『母に捧げるラストバラード』を見て、国が変わるというよりも、一生懸命に生きる人がいることが国が変わっていくことなのではないかと思った。貧乏の中にありながら、一生懸命に前向きに生きていくことが、人の和の大切さが、やがては社会の仕組みを変えていくものかもしれない。

 武田鉄矢の母は実に面白いことを言う。母の語録集は膨大なものなのだろうが、私が芝居の中で覚えているのは、「夫婦はあきないだ。足したり引いたり割ったり掛けたりしながら、収まるもんや」とか「お父ちゃんが死んでから夫婦仲がよくなった」とか、笑わせておいて、なるほどと思わせてくれる。休憩を含めて4時間は長いと思ったけれど、終わってみればアッという間だった。

 『母に捧げるラストバラード』は、8月24日まで御園座で上演されている。
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