友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

先のことは誰にも分からない

2024年05月31日 18時01分45秒 | Weblog

 ふたりの男の子を連れてやって来た孫娘と、話す機会があった。男の子は今年、4歳になる子と1歳になる子だが、大人しく母親の言うことをよく聞いて、手間がかかることは無い。それでも我が家に居ても、寝ている時間以外は気が抜けない。

 子育てはこんなにも大変だったのだと、思い知らされた。3人目を妊娠すればさらに育休がもらえるが、どうしようかと迷っているようだ。孫娘のダンナの会社も育休制度があるが、子どもを産んで育てるばかりで40歳近くになってしまうことが悩みでもあるようだ。

 孫娘は看護師の仕事をしているが、「県外に出たかったけど、ダメだったし、ママが私学の費用を全部持ってくれたから資格も取れた」と言う。孫娘から見ると、私は好き勝手に生きているように思うかも知れないが、そんなことは無かった話をした。

 誰もが、こうなりたいと思った職業に就いている訳では無いこと、与えられた仕事と向き合っていくうちに、遣り甲斐も出てくると話した。嫌で仕方が無いのに我慢することも無いので、ダンナや親とも話し合って道を見つけるという手もある。

 家庭を持った身としては、何よりも家族と暮らしていけることが大事だ。「家のローンも残っている」とも言う。孫娘を見ていると、堅実な道を選んでくれると思う。誰もが時々、自分の置かれた立場を愚痴りたくなるものだ。そんな時、聞いてくれる友だちもいるようなので安心した。

 自分だけが恵まれないとか、自分だけが悲劇の主人公と思ってしまう人は、気楽に話せる友だちがいないようだ。今日の午後、「80歳の集い」の幹事が集まって、収支報告やあの時の写真などを見ながら、ワイワイと話し合った。

 写真を見ていたひとりが「みんな歳取ったねえ」と零す。「それを言っちゃーお終いよ」とチャチャが入る。大笑いだった。いい仲間に巡り合えて、本当に幸せ者だ。来年のことはどうなるか分からないが、みんな元気ならまたやることになるだろう。みんな元気なら‥。

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バラ園でいろんな人生模様が見られた

2024年05月30日 18時23分49秒 | Weblog

 昨日はとてもよく晴れた行楽日和だった。風はまだ少し吹いていたけれど、気になるほどではなかった。小牧の「木曽路」のサービス券があるから、使わなくてはもったいないと寄り道した。店に入ると隣りの席に、同じマンションの女性が3人で来ていた。

 可児のローズガーデンには結構人がいた。車イスの祖母を、娘さんと孫娘が案内しながら回っている。西口から入ると目の前に赤いバラが一面に見える(写真1)。けれど、前の日の嵐のような風雨のせいで、花弁は痛んでいるし、大量の花弁が落ちている。

 小牧「市民の森」のバラ園を見た時、手入れが行き届いていないと思ったが、可児のローズガーデンも同じだった。ここはたくさんの人が働いているが、とても全部を回り切れないようだった。バラ園を維持していくことは、大変なお金と労力が要るようだ。

 それでも可児のバラ園は、早咲きのグループから順次、観て回りることが出来るように工夫されている。丁度満開になっているコーナーもあり、楽しみながら歩くことが出来た(写真2)。小牧「市民の森」のアジサイはまだこれからだったが、ここは見事に花開いていた。

 バラは感激するほどでは無かったが、コスプレと言うのか奇妙なフッションの女性たちがいた。また、モデルのような格好の女性をバラの前に立たせて、何枚も写真を撮っている男性もいた。車イスの祖母を真ん中にして、スマホで撮っては祖母に見せていた。

 バラ園の中にあるカフェでコーヒーを飲むことにした。カミさんはバラのクリームがのった3段重ねのパンケーキを注文した。女性客の多くがこのパンケーキを食べていたから、人気のメニューのようだ。テラス席から眺めていると、バラ園でいろんな人生模様が見られた(写真3)。

 バラはもう終わりになる。次は何が見ごろになるのだろう。今日は孫娘が子どもふたりを連れてやって来たので、とても忙しい。それにしても子どもの成長は早く、ビックリさせられる。孫娘は年寄りの「見守り」のために来ていると言うが‥。

その1

その2

その3

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地域新聞と共にあった10年間

2024年05月29日 19時04分42秒 | Weblog

 6月で廃刊となる地域新聞の現編集長と、創刊の苦労や楽しかったことなどをいっぱい話した。私が地域新聞の発行を思い立ったのは1985年で、創刊号の趣意書に、「この街に住み、この街を愛する人々の生活にスポットを当て、その素晴らしい生き方、生活の喜びを報道いたします」と記した。

 さらに、「地域住民の討論の広場として、あるいは作品発表の場として、地域の人々に奉仕します」と宣言した。「ゴロツキ新聞にするな」との発起人の言葉を守り、スーツに白いワイシャツとネクタイという、教員の時とは全く違う服装で地域を回った。「どこの銀行の人?」と言われたこともあった。

 それでも初めは警戒され、「おたくに話すことは何もない」と取材を拒否されたこともあった。第2号・第3号が出ると、広告を載せたいと電話が入り、広告蘭は増え続けた。「こんな人がいるよ」とか「こんなことをするから来て」との連絡も入り、創刊から5年間はとにかく忙しかった。広告主から「集金に来て」と言われているのに、その時間が無かった。これではダメだと思い、友だちに頼んで集金する人を雇った。

 また、広告会社に勤めていた女性も雇うことになった。彼女が現編集長で、彼女の入社で新聞の活動の幅が一気に広がった。名芸大と連携し大学公開講座を開き、世界チャンピオンの畑中清の祝勝会を開催し、バス旅行を企画し、地域雑誌を発行していった。相変わらず忙しかったが充実した期間だった。

 地域新聞の歴史を語るのか、発行の苦労話をするのか、編集長が何を期待していたのか分からないが、後は彼女の料理に任せる他ない。「お昼をどこかで」と言ってくれたが、今日は水曜日なのでデートの日。またいつか、「地域新聞に原稿を書いてくれた仲間の皆さんと打ち上げ会をやろう」と言って別れた。ご苦労様でした。

 午後、デートで可児市のローズガーデンへ行った。明日のブログは、その報告にします。

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平安時代は大らかだった

2024年05月28日 17時07分40秒 | Weblog

 線状降水帯の覆われたのか、雨が降り続いている。こんなに雨が降っているのに、明日は晴れると予報されているのも不思議だ。気象予報士の説明によれば、雨を降らせている雲は次第に東へと移動しているらしい。目に見えない先のことまで見通せるようになったのは、コンピューターの計算能力が高まったからだと言う。

 こんな時に、なぜか『枕草子』の書き出し、「春はあけぼの」を思い出した。NHK大河ドラマ『光る君へ』を観ていて、いよいよ清少納言が表舞台に出て来たからだ。高校の古典の授業でチラッと学んだ気がするが、こんな古文など勉強して何が面白いのかと思っていた。

 国語の先生は、『源氏物語』の研究者と言われていたベテランの女教諭だったのに、なぜか私はヘソ曲がりだった。日本人の美意識が醸成されている平安時代、もっと関心を持っていればよかったと悔やまれる。日本史の中で平安時代は独特な時代である。女性を「産む存在」と見ていたのは、子孫が増えなければ、生産も家系も衰えていくしかないからだ。

 宮中の女性が皆、漢詩が読めたり漢文が書けたり出来た訳では無いだろうが、清少納言や紫式部のような知識の豊富な女性がいたことは、現物が残っているのだから確かである。女性たちが集まって、和歌を披露し鑑賞し合う場はあったはずだ。気に入った和歌を綴って本にし、回し読みもしていたことだろう。

 清少納言は仕えた中宮の定子から貴重な紙をもらい、『枕草子』を書き始めたとドラマは描いていた。うろ覚えだが、枕草子には桜や藤よりも梅の花が一番評価されていた気がする。華やかなものよりも可憐なものに心惹かれたのだろうか。桜を愛でるようになったのは、江戸時代で庶民の酒盛りの場であったと聞いた。

 『枕草子』の中に、高貴な殿方の牛舎が家の前で止まったようでドキドキするという個所を口語訳で読み、夜這いは女も楽しみにしていたと知った。大らかな時代だった。

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これが幻想で無いことを願っている

2024年05月27日 17時09分11秒 | Weblog

 東京都知事選に、立憲民主党の蓮舫参院議員(56)が立候補を表明した。現職の小池百合子知事(71)は3選を目指して無所属で出馬する意向を固めており、自民党や公明党が支援する意向だ。日本維新の会も対抗馬を立てる方針のほか、広島県安芸高田市の石丸伸二市長(41)ら20人以上が出馬表明している。大混戦は必至で、面白い選挙になると予想されている。

 『憲法9条ネットワーク』に、こんな投稿が載っていた。「(野党が共闘出来ず)それぞれが候補者を立てれば、自民党に負ける。そんな愚かな選択はしたらいけない。自民を倒すことが最優先なのに」。これが多くの人の素直な気持ちかも知れない。裏金問題を起こしながら、抜け穴ばかりの法案を提出し、幕を閉じようとしているのだから。

 でも、と合点はいかない。自民党を倒すことが目的であるような、思考が拡がることには懸念がある。政治の世界は多数決である。多数を取ることばかりが目的になり、議論は後回しされた。いや、議論する場を設けることもなく、議論できる政治家も誕生させてこなかった。

 政権交代が実現できれば、全てが解決するは幻想でしかない。いろんな候補者が、いろんな政党が、それぞれに裏金問題の原因とその解決策を論じ、そうした議論する体質が新たな政治の世界を築くのではないのか。和気藹々を美徳としてきたから、マズイと思っても目を瞑ってきた。その結果が現状だと私は思う。

 批判は出来ても、新たな政策提案が出来ない、これでは何も解決しない。政党はまず、内部から議論を始めて欲しい。議論する政党を創り出して欲しい。立候補する人はその先頭に立って欲しい。これが幻想でないことを願っている。

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強い力士がいない大相撲は面白くない

2024年05月26日 18時09分08秒 | Weblog

 友だちが「鹿児島の芋焼酎だいやめの小瓶を買って来て欲しい」とメールしてきたので、近くの酒屋へ行き、店員さんに探してもらった。1,375円だった。それを持って友だちの家に届けに行って来た。

 友だちのカミさんが、「これ飲んでください」と日本酒の小瓶を差し出す。「えっ、それでは焼酎の代金はもらえません」と言うと、「手間賃だと思って収めて」と笑う。焼酎は鹿児島の人から、「美味しいから飲んでみて」と勧められたものらしい。

 金賞が3つも付いていたから、焼酎の世界では名のあるものかも知れない。家に帰ってカミさんに「焼酎を届けたら、日本酒をもらっちゃった」と見せると、嬉しそうな顔をしたのに、「少しずつしか飲ませませんからね」と釘を刺された。

 友だちのカミさんは「庭で、星空を眺めながら、皆さんでお酒が飲めるといいですね」と言う。コロナ禍もあって、そういう機会がすっかり遠くなっていた。友だちのところも、夫婦ふたりだけの生活だから、ワイワイやりながら酒を飲む機会は無いようだ。

 「息子や娘の家族が集まると、賑やかな会食になるけれど、ふたりだけでは話すことも少なく、静かなものよ」と言う。我が家も同じで、テレビが点いていなければ無言の会食になっている。関心事も違うし、それを合わせようとすれば、ストレスを溜めることになる。

 カミさんはお昼、ゴルフ仲間とランチ。私はいつもの喫茶店に行くかと迷いながら、家でフレンチトーストとサラダを作り、「NHKのど自慢」を観ながら食べた。食べてしまってから、カミさんがいつもするように、写真を撮り娘や孫に送ればよかったと後悔した。

 今、テレビを観ていたカミさんが、「大の里が優勝したわよ」と呼び掛けてくれた。大学を出て入門する力士が多くなってしまった中で、大の里は横綱になれる器と私は思っていただけに嬉しい。強い力士がいない大相撲は面白くない。頑張ってくれ、大の里!

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それはそれでいいのだ

2024年05月25日 17時48分35秒 | Weblog

 マンションの同じ組の女性と、エレベーターの前で出逢った。別の棟に住む両親のところへ「お昼の食事を届けて来た」と言う。「部屋の整理もしたいけど、『しなくていい』と言うので帰ってきたけど、どうしてあんなに我がままなんでしょう」と零す。

 「ご本人の望むようにしてあげればいいと思いますよ」と答える。彼女のところは孫が生まれたばかりなので、「孫は可愛いでしょう」と聞くと、「どうしてこんなに可愛いのと思うくらい」と言う。「子どもの時は毎日が精いっぱいだったけど、孫は余裕を持って接していられるからかな」と話す。

 「スズキさんは幾つになられたんですか?」と訊かれ、「4月で80歳になりました」と答えると、「えっ、ウソ、そんな歳にはみえない」と驚いてくれる。「何か心掛けていることがあります?」と尋ねられ、「そうだね、『明日のことを思い煩うな』(マタイ伝6章34節)かな」と答えた。

 彼女は牧師の娘で、クリスチャンである。「でもね、神はどうして戦争を止めさせないのだろう。人間の歴史はズーと戦争の繰り返しだもの。これもまた、神のご意思なのだろうね」と続けると、「今もあちこちで戦争が続いていますものね」と考え込む。

 彼女と別れてから、「80歳の集い」で引用した杉田玄白の言葉を思い出した。そして、仏教でも同じような言葉があったことに気付いた。釈迦も過去に拘らず、明日のことを思い悩むことはないと「即得往生」を説いた。キリストは釈迦の思想を伝え聞いていたのかも知れない。

 民衆に仏教を分かりやすく説いた親鸞は、「即得往生」を死んでから浄土へ往くということでは無いと教え、「自力を捨て去り、他力に任せることが出来るようになれば、浄土に生まれる」と、人生に意義と希望を持って生きることだと説いた。

 私は悟りなどとは無縁に生きて来たが、「なるようになる」と思うし、たとえ「ならなくても」、それはそれでいいのだと思うようになった。

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新緑の公園を散歩する

2024年05月24日 17時06分13秒 | Weblog

 「予定が無くなった」とカミさんが言うので、来週のつもりだった『小牧市民の森』へ出かけた。「木曽路」でランチを食べて行く計画だったが、満席でダメだった。大丈夫、『小牧市民の森』への道中にいくらでもあると言い聞かせた。

 既に前から、『小牧市民の森』への地図や公園の案内図もプリントしておいた。万全の備えが出来ていたはずなのに、肝心のプリントを忘れ、しかもカミさんはスマホを持って来ていないと言う。「以前にも行ったことがあるから大丈夫」と出発したが、『市民の森』なのか『四季の森』なのかが定かでないので、ナビに打ち込むことも出来ない。

 方向としてはこの辺りだろうと車を走らせ、何とか公園に辿り着いた。確か、孫娘を連れて来た覚えだが、20年は前のことなのでハッキリしない。公園は随分と整備されていて、今日もどこかの幼稚園か保育園の遠足のようで、たくさんの親子連れで賑わっていた。最近は両親共に参加するように要請されているのか、「パパ」「ママ」と子どもたちが呼ぶ声がする。

 ポニーやヤギのいる子ども動物園や、ジャンボ滑り台のある子ども広場が人気のようだ。壁から噴水のように水が流れ出て来る池の中で、子どもたちは全身ビショヌレになって大騒ぎしている。暑かったから子どもたちは大喜びだが、親は大変そうだった(写真1)。そこを抜けて行くと、バラ園があった(写真2)(写真3)。

 期待していただけに、ちょっとガッカリだった。どこのバラ園も咲き終わったバラの花弁を摘み取っていたが、ここは人手不足なのか枯れた花弁が残っている。市民ボランティアを募って、もっとしっかり手入れしないとバラを見に来る人が減ってしまうだろう。

 バラとアジサイが同時に見られる公園のはずだったが、アジサイはまだまだ先のようだ。でも、花を眺めながら公園を散策するには適している。機会があればまた来よう。昼食にありつけないまま公園を後にし、帰路の途中にあった「サガミ」で、私は本マグロの刺身盛り合わせを食べた。お店は年寄り夫婦が多かった。

写真1

写真2

写真3 

 

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まだ生きていかないと

2024年05月23日 18時21分27秒 | Weblog

 卒業生から電話がかかってきた。卒業生と言っても、私が23歳の時に高校へ入学してきたから歳はそんなに違わない。彼は1年生で留年し、2年目の1年を私が担任した。私が下宿していた長屋が彼の家への帰り道にあったので、よく来ていて食事をしていったこともある。

 私も彼の家に行き、彼の漫画本を読み、漫画の世界を知ることが出来た。電話は、私が脳梗塞になったことを伝え聞き、「大丈夫?」と心配するものだった。「大丈夫、死ぬまでは生きている」と答える。それから彼の近況を聴いた。

 「新幹線で東京へ行き、東北新幹線に乗り換えて福島へ行って来た」と言う。「凄いじゃないか」と驚き、「それはまた、どうして」と尋ねる。娘さんのダンナが福島県の人で、諸橋近代美術館へ連れて行ってくれたそうだ。諸橋美術館はダリの蒐集では日本一である。

 彼はひとりでは旅行は出来ない身体だから、誰かのサポートが要る。私なんかよりもボロボロの身体なのに、障がい者手帖は発行されていない。国の基準がどうなっているのか知らないが、あんな身体で障がい者扱いでないとは気の毒な気がした。

 彼が高校生の時、私の下宿に来て、私の書物をよく読んでいた。私がダリを高く評価していたことを覚えていてくれたのだろうか。諸橋美術館についてはテレビで見たことがある。一度は行ってみたいと思っていたが、先を越されてしまった。

 私が好きなもうひとりの画家、アンドリュ―・ワイエスの作品を集めた『丸沼芸術の森』が埼玉県朝霞市にある。アンドリューもダリも写実を基本に描いている。この2つの美術館をぜひ回ってみたいと思っていたが、半分諦めていたが彼の話を聞いて、再び行きたい気持ちが湧いて来た。

 まだ生きていかないとなと思う。

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美の世界を堪能する

2024年05月22日 18時18分56秒 | Weblog

 友だちから『菰野ピアノ歴史館』の招待券をもらったので、いつ行こうかと思案していると、カミさんが新聞広告にあった『細川護熙 美の世界展』を見せて、「このパラミタミュージアムって、同じ菰野町じゃーない」と言う。調べてみると、同じ街道沿いにあった。

 29日の水曜日を予定していたが、廃刊になる地域新聞の編集長との対談が入ってきた。ならば、「今日、行こう」と提案すると、カミさんが「近くにモスバーガーがないか、調べてみて」と言う。娘から「母の日のプレゼントで来たメールを使いたい」と言う。

 名2環を利用して、新名神高速で菰野インターまで行くつもりだった。ところが私の車のナビは古いので、新名神高速が地図に出てこない。スタモンダしたけれど、何とか菰野町へ着くことが出来た。まずはモスバーガーで昼食し、パラミタミュージアムへと向かった。

 駐車場からは想像できない立派な美術館で、中は広く大きかった(写真1)。庭も素敵な空間だった。詩人で映画監督もした池田満寿夫さんの『般若心経作陶』が目に飛び込んでくる。立体曼荼羅と命名した作品が大小、独特の世界を創り出している(写真2)。

 2階に上がると、細川護熙さんの陶器や書、水墨画や油絵などが展示されていた。何にでも興味が湧くのか、才能の豊富な人は何でも成し遂げることが出来るようだ。竜安寺に奉納した「龍」など、誠に見事だった。

 書や絵の花押を見ると、どうしても護熙とは読めない。係りの女性にそのことを訪ねると、三蔵法師の「東には帰らない」を印にしたものと教えてくれた。この施設の名称の「パラミタミュージアム」もよく分からなかったが、経典の「マカハンニャパラミタ」の「パラミタ」らしい。

 次に「ピアノ歴史館」へ。ピアノの歴史がよく分かり、ピアノに関心のある人にはたまらない施設だ。談話コーナーに置かれていたピアノの歴史を綴った本が欲しかったけれど、売り物ではないと断られてしまった。帰路は菰野のコーヒー店に寄り、東名阪高速で順調に帰ることが出来た。

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