友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

桜は女の美しさである

2009年03月31日 23時26分40秒 | Weblog
 桜はまだ満開にならない。今年の開花は早かったのに、一体どうしたことなのだろう。私は桜が好きだ。桜は妖艶な感じがする。桜は女性に通じるものがある。華やかであるし、満開ともなれば美の絶頂にあるように思うし、散り始めていく桜もまたきれいだ。4月から中学3年になる孫娘は「私はチビデブだからきれいじゃない」と言うけれど、いやいやどうして、最近では何気ない仕草の一つひとつに女らしさを感じる時がある。

 男性雑誌はもちろんのこと、女性雑誌にはヌードはないが、ほとんどの雑誌に女性のグラビアがある。男性の私にはどんな女性も美しい。女性は美しいかもっと美しいかの2通りだと思っている。いつだったか、80代の女性が着物姿で自転車に乗って来るのに出会った。風が吹いて着物の裾がチラッと捲り上がった。足袋と裾の間に白い足が見えた。なんでもないふくらはぎが見えただけなのに、見てしまった自分が恥ずかしかった。

 女性の美しさはどこにあるのだろう。それは曲線と柔らかさだろうと思っている。身体の線はどこもかしこも優雅な曲線を持っている。男にはない美しい曲線だ。その肌は滑らかで柔らかい。そっと触れたくなる柔らかさだ。触ってみたなら、安心できる気持ちよさを与えてくれるから、男たちは女性の肌を触りたがるのだろう。

 田口ランディさんという女流作家の『蝿男』を読んだ。かつて、新聞の対談を読んで、田口さんという作家に興味を持った。考えた方や価値観が似ていると思ったけれど、どうもそれは私の勝手な思い込みだと最近になって気が付いた。それでもブログの「お気に入り」に入れていて、時々日記を読ませていただいている。そのブログで、『蝿男』のことを「腐純愛小説」と自ら紹介していたので、どんな小説なのかと興味が湧いた。

 どうも田口さんは死後の世界に関心があるような気がする。「私の小説は、平安で充実した人生を送っている人には必要のないもので、(略)愛や平和やエコロジーを求めている人には向かない」と書いていた。どういう人が好きになる小説かというと、「わきの下の匂いとか、汚れた靴下の匂いをついくんくんしてしまうようなタイプの人」とあったから、余計に読んでみようと思った。

 「老いを意識している男にとって、その若い女との出会いは奇跡だった」という書き出しから、とても心惹かれた。もう女を抱くことはないとあきらめていた老人が、男運がわるいきれい女と偶然に出会い、そして二人はSEXする。ところが、男は女の身体に執着し、死後も「女の体に念として付着したのだ。つまり、男は女の体に残り地縛霊となってしまった」。女は男運のなさを悲観して首吊り自殺する。女の魂はその優雅な肉体から抜け出していくが、男はなおも女の肉体に執着し、やがて蛆虫となり羽化して蝿になるという奇妙な小説である。

 なるほどと思う反面で、その気味悪さがゾッと広がってきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピアノの発表会

2009年03月30日 16時54分08秒 | Weblog
 連弾でブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」を、個人ではシューベルトの「楽興の時」とショパンの「幻想即興曲」を弾いた。演奏は実に見事だった。以前から、水泳とピアノでは使う筋肉が違うのか、「肩が痛い」と嘆いていた。いや、本当は泣いていたかったのかもしれない。ピアノをやめたいのに、好きな「水泳をやめるならやめてもいいわよ」と母親から言われ、やめたくてもやめられない。

 私は水泳もピアノも、それを生涯の生活の土台にするわけではないのだから、ほどほどでいいのではと思っている。それに水泳は、中学2年生で150センチに満たない小さな身体では無理であるし、むしろ無理であるにもかかわらず、1日に5キロも泳ぎ続ける練習を毎日続けているのだから、身体はもう限界を超えていると思う。肩の痛みはその危険信号だと思うのだけれど、“やればできる”の体育会系人間には頭から拒否されてしまう。

 昨日のピアノ発表会では、ジジ馬鹿であるが孫娘の出来が一番よかった。一部にトチッたところがあったとしても全体のデキは最高だった。「それで、ママは何と言ってくれた?」と聞くと、「階段からずっこけるかと思ったんだって」と言う。ショパンの「幻想即興曲」はものすごくテンポが速い。指がとろけてしまうのではないかというくらいに動きっぱなしだ。それを最後まで弾き終えたのだからたいしたものだ。カミさんが「何でそんなことを言うのかね」と不思議がる。孫娘は「あの人は練習しているところを聞いたことも見たことないから」と言い放つ。

 確かに孫娘は1日に2時間は必ずピアノに向かっていた。水泳で5キロ泳ぎ、ピアノに2時間、学習塾は週2日だけだが2時間半、彼女に自由な時間がどれだけあるというのだろう。私ならとっくに音をあげているのに、実に彼女は根性がある。泣き言を言わない。やればできるし、やらなければ落ちる。そう信じて実行している。だからこそ、結果に対しては「よく頑張った」とほめて欲しかった。けれども、親はもっと上を望むものなのだろうか。

 身勝手と言えば、その後が大変だった。孫娘は午後6時半から学習塾で試験があるので、早く食事をさせなくてはならない。ピアノの発表会の後だから散らし寿司にしようと買い物をして家に帰った。長女から5回電話が入っていた。メールも1回届いていた。孫娘を迎えに来て欲しいというものだ。孫娘は長女が車で連れて行ったから、当然車で二人は帰って来ると思っていた。また、家族みんなで会場へ出かけていったのでケイタイは不要と家においてきた。ところが長女の思いは全く違っていた。

 長女は自分の知り合いが来てくれたので、その人を駅まで送っていくから、孫娘は私たちが連れて帰って欲しいと思っていたのだ。思っていたのなら、そのように伝えてくれればよかったのに、知らないから当然自分たちの計画で動くことになる。そういえば、長女はよくそうしたことがある。「今、ヒマ?」とだけ聞いてくるから「ヒマじゃないけど」と答える。本当はそうではなく、ちょっと迎えに来て欲しいとか、これを手伝って欲しいとか、やってほしいことがあるのだ。それをはっきり言わずに、こちらの都合だけを聞くから、心の行き違いが生まれてしまう。

 会話がヘタなのかも知れない。余りに相手のことを読みすぎて、結局うまく伝えられないのかもしれない。けれどもそういう時は、自分の思いとは違う結果なのでご機嫌が悪い。わがままな性格はどうも父親譲りのようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒さに負けず「夜桜の宴」

2009年03月29日 19時46分19秒 | Weblog
 寒さでなかなか桜も咲きません。昨夜の「夜桜の宴」はまるで冷蔵庫の中だった。それでも不思議なもので、風がなくなれば寒さは気にならない。バーベキューの代わりに、湯豆腐と素うどんのアイディアはよかった。ビールはほとんど飲まれなかったが、熱燗と焼酎のお湯割りがよく出た。この寒さだから、きっと早めに終わることになるだろうと予想していたけれど、午後5時から始めて3時間半、午後8時半に「じゃあー、お開きにしようか」となった。これでも例年よりは2時間ほど早い。

 初めて参加した『NPOおたすけ』の仲間が、「感謝!感謝!皆さんによろしく。雰囲気の素晴らしさに感激しました」と早速メールをくださった。「おたすけ」の最長老はご夫婦ともにお酒が好きというので、「じゃあ、来ませんか」と誘ったのだけれど、喜んでいただけて本当にうれしい。私は彼の奥さんの隣にいたけれど、その奥さんが「主人は日本語ができないの。家ではほとんどしゃべらないのに、今日はあんなにおしゃべりで、よく笑うし、ビックリしています」とおっしゃる。するとすぐに横から「それはねー、どこのダンナも一緒ですよ。一言しゃべれば5つも6つも返ってきますし、ましてや言うことといえば、グチばかりで、おまけに最後には『みんなあんたが悪い』と言われたんじゃーね。誰がしゃべれますか。そうでしょう」と絡んでくる。

 そういう、馬鹿げた話の中にもほぉーなるほどと思うことがいくつかあるのが酒宴の会話かもしれない。いや、もう、実際は会話のひとつひとつを覚えておく必要はないし、気にすることもない。流して聞くのが一番よいと思うほどだ。8時半までに来られなかった若い仲間から電話が入った。「今、仕事終わったから、次の席には行くよ」と言う。そこで帰路の途中にある中華料理店に行くことにした。35人の中から7人が残り、店で飲んでいると、小さな会社だが実質的に社長職をこなしている42歳になる彼が仕事着のまま入ってきた。

 「こうしてみんなと飲むのは久しぶり」と言うので、さらにテンションが上がった。聞くと毎晩帰りは11時過ぎると言う。「あのな、そんな生活しているとそのうちに奥さんが蒸発してしまうぞ」と先輩が言う。「蒸発?そうなんですか?」「欲求不満が爆発寸前であることは間違いないな」「ホントに?」「当たり前だろう。ちゃんとかまってるのか?」「そりゃーないですけど」「だろう。亭主は自分が忙しいから相手のことまで気にしていられないということだが、女房にしてみればいつも一人ぼっちで寂しいわけよ。そうなるとどうなる」「どうなるんですか?」「たまにはちゃんと抱いてやれ、それが一番、それ以外にない。先輩からの忠告だ」。酒飲みは他人のことになると妙に的を射たことを言う。

 夏の行事や旅行の話や家族のことや、次から次へと話が飛んでいく。この店は一人当たり1千円と安い。飲んでしゃべって笑って、気分もいいところで、今日もおしまい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜桜の宴

2009年03月28日 11時35分13秒 | Weblog
 朝7時に、今晩行なう「夜桜の宴」の場所取りに出かけた。ブルーシートを2枚敷き、「私たちは午後5時から使います。それまではご自由にお使いください」の張り紙をしておく。すると仲間が「それは必要ないと思うよ。今日、花見をするのは私たちくらいしかいないよ」と言う。桜はまだ寒さの中で花芽も小さく縮こまっている。間違って咲いてしまったものは1輪か2輪しかない。きっと今晩はもっと寒いだろう。

 夜桜を楽しむ時はいつも満開の桜の下でも花冷えがするが、今年のように開花前は初めてだ。毎年行ってきた「夜桜の宴」の場所も、すぐ近くに新しく家が建ってきて、もうバーベキューは出来ない。公園には「飲食・火気を使うことは禁ずる」と張り紙がしてある。こういうところが役所だなと思う。日本人は江戸時代から夜桜を楽しんできた。宴は庶民の楽しみだった。公園以外でやれというより、公園を使ってよいが「後片付けをきちんとするように」という張り紙の方がどんなに気持ちよいかと思う。

 この寒さの中で、綾小路きみまろさんの舌演を聞きにわざわざ金沢まで出かけていった人もいる。「高速道路が1千円で走れる」につられて、今日は交通量も多くて大変ではないだろうか。それでもきみまろさんから「賞味期限が切れていると騒いでいる本人の賞味期限が切れている」などと言われて、大笑いしているのだろう。笑いはいい。孫娘が言う。「人生終わりがけだといいね。楽しそうだね。私も早くそうなりたい」。

 近頃の彼女はなかなか哲学的なことを言う。「人生は後悔することばっかり。どっちの道を行っても後悔は付きまとう」。「女はつらいよ。だからため息ばっかりついている。生きていることはつらいことなんだ」。「女はダイエットする根性がある。戻れるなら、分かれ道だったところへ戻りたいんだ」。「生まれ変われるなら、完璧な人間になる」。まだまだ続く孫娘語録。

 昨日、NHKテレビで『アンジェラ・アキと2000通の手紙』という番組があった。中学生の女の子たちは随分悩みを抱えているのだなと思った。男の子が1人も登場しなかったのはなぜなのだろう。中学時代は女の子の方が男の子よりもものごとを深く感じ考えているということなのだろうか。垣間見ていると、孫娘とダブって見えてくる。

 中学・高校からの友だちがブログに「過去を振り返るのは自分の生きた証を確かめるためであり、全て余分なものや嫌なものを削ぎ落とした後に残った、いわば昇華された過去を愛おしく、懐かしんでいるだけだ」と書いていた。私たちの年齢になると、毎日を楽しく過ごすだけの生活になる。彼もブログで「未来とは、今日とさして変わらない明日があって、いくら、そんな今日と明日を積み重ねていっても、もう確固たる未来や希望があるとはどうしても思えなくなってくる」と書いている。

 孫娘たちから見れば、「人から強いられることもなくていいね」と言うことだろうけれど、それは誠に寂しいということを彼女が知るようになるのはもっと遠い先のことだ。友だちは過去に拘り、昇華された過去に自分の生きてきた意味を見出そうとするが、私は彼の女友だちが「もっと将来の希望のあることを考えましょう」と言ってくれたことに託したいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校野球を観戦しながら思うこと

2009年03月27日 18時05分31秒 | Weblog
 孫娘と二人でお昼を食べて、そのまま高校野球をテレビで観ていた。「ねえ、野球は誰が考えたの?」と言う。誰が考えたものなのか、私は知らない。「野球とかサッカーとかラグビーのような集団のスポーツは、遊びの中から生まれてきたんじゃないかな。やっているうちに段々とルールが決まり、今のようになったんだろうね」。自信はないけれど、多分そんなものだろう。

 陸上競技とか水泳競技のように古代からあったスポーツは、自分の体力や技術で競うことができる。集団の競技はいつから生まれたのだろう。選手一人ひとりの能力も大事だが、チームワークとそのための技術と戦術がより勝敗を決めることになる。かつて高齢者の間でゲートボールが盛んに行なわれたが、いつの間にか下火になった。その理由を尋ねると、「高齢者は集団プレーができない」ということだった。

 ゲートボールはチームワークを必要とする。自らを犠牲にしなくてはならない時があるのにそれを嫌がったり、負けたりすると他の人のせいにしたり、監督の指示を無視したり、内輪もめが絶えない。これでは競技にならないし、やっていても面白くない。だから個人技のグランドゴルフが主流になっていったという。高齢者はチームプレーができないのか、なるほどと私は合点してしまった。

 いつも人に気を遣って生きてきて、自由の身になったと思ったのに、今更また人に気兼ねできるのかと思ってしまうのかもしれない。いやそんなことはない。高齢者だって、野球やラグビーのチームがあると反論もあるだろう。けれどもそういうチームはずっーと長い間、プレーを共にしてきている。還暦を過ぎてから、ご近所の皆さんでやりましょうというには、自己犠牲を強いらず、他人を非難したりせず、無理なくできるルールのものの方が向いているのだろう。

 集団競技となると人はどうしてもエキサイトしてしまう。今日の高校野球を見ていても、1点差の9回のウラ2アウトで走者が2・3塁となると、勝っている方を応援していれば絶対に押さえよと思うし、負けている方を応援していればここで一発大逆転せよと期待する。集団競技は勝敗を求めるから、どちらかが勝ちどちらかが負ける。精一杯にプレーできればそれでよしとすべきだと私は思うが、どうしてあんなに非難の応酬になるのだろう。

 あのWBCの試合でも、日本の選手はダブルプレーを阻止するためにセカンドの選手に体当たりしている。本人も「意識してやった」と言っていたし、解説も「ガッツのあるプレーで勝利を引き込んだ」と賞賛していたが、私は少しもフェアなプレーと思えない。集団競技にはこうしたプレーがよく見られる。それをチームのためによくやったと言うが、私は嫌いだ。私の精神が軟弱なのだと思うけれど、とても受け入れられないプレーだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒さが振り返す

2009年03月26日 17時59分26秒 | Weblog
 また寒さがやってきた。3月でありながら5月中旬の暖かさが続いた後だけに、今日の冷たい風が身に凍みる。何だか心まで冷える。自然が気まぐれなのか、人間がもたらした異常気象なのか。でも昔、こんな底冷えの日に試験を受けた記憶がある。大学受験はこの日1回しかない。高校1年の時に母が亡くなり、高校3年の1月に父が亡くなった。私はもう誰かのために生きるという必要がないと思った。これからどうするか、とりあえず東京へ出て、それから考えようか、そんないい加減な気持ちでいた。

 「大学へは行かない」と言う私に、兄が「国立なら授業料は安い。入学金は払ってやる。家から通えばいいじゃないか」と言ってくれた。授業料を免除してもらい、奨学金をもらったから、アルバイトをすればお金は何とかなった。我が家は材木屋であったけれど、私が大学2年の時に破産し、兄夫婦は離婚、兄は失踪した。私は大学の先生の家で家庭教師兼書生として住み込ませてもらった。先のことを不安に思うことは一度もなかった。また自分を不運な境遇にあるとも一度も考えたことがなかった。

 小説を地で行くような人生だと喜んでいた。この先には何があるのか、他人事のように期待していた。けれども振り返ってみれば何のことはない。止むを得ず職業は転々としたけれど、そのために家族は大変な目に遭ったけれど、私は自分ができることを楽しんでやってきて自己満足している。不満を抱いたことも、人を妬み恨んだことも、不運だと思ったこともたくさんある。けれどもそれが自分の人生と今は思うことができる。自分勝手だけれど、充分に幸せな人生である。

 ゴルフに夢中のカミさんは明日も早くから出かける計画だ。遊びに行くのによくそんなに早くから出かけられるものだと思うけれど、ゴルフ好きに言わせれば「遊びだからできる」のだそうだ。夢中になるものがあるのはいい。仕事とかお金とか世間とかに関係なく、自分がのめり込めるものがある人は活き活きとしている。私はぼんやりと寒々とした北の空を眺めている。机の上には読みかけの新書が3冊も置かれている。集中心を欠いている証拠だ。孫娘はもう2時間もピアノの練習を続けているのに。

 日記でも書こうか、そらまた心がどこかへ行こうとしている。困ったものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一郎氏の記者会見

2009年03月25日 21時49分43秒 | Weblog
 イチロー選手は最高の場面で最高の働きをして見せてくれたけれど、民主党の小沢一郎党首の記者会見は「居直り」としか思えなかった。これで民主党の躍進はなくなったと思う。自民党はカネにまみれているけれど、やっぱり民主党もそうだったのかと多くの国民が思ったであろう。政治家には汚いカネが付きまとっていると思い込んでいる国民は多いだろう。「自分たちは市民派だからそんなことはない」と潔白を主張しても疑いの心を一掃することは困難だ。

 小沢さんは「法に基づいて、きちんとやっているので何の問題もない」と言うけれど、自民党の二階さんも同じことを言っている。わざわざ法を犯すような行為を誰もしない。「政治団体からの寄付は認められているので、正確に記載したのだから間違ってはいない」と言うが、その政治団体がどのような団体かについては「知らない」とは、誰が見たっておかしなことだ。公設秘書は、その政治団体が建設会社であることを認めたと報道している。便宜を図らなければ贈収賄にならないと思っているのだろうか。

 小沢さんは自民党政治に見切りをつけて飛び出したと言い、本当の議会制民主主義を確立することが自分の夢だと語っていた。議員とカネの問題を解決せずに、制度をどんなになぶってみても「本当の議会制民主主義」を実現することはできないだろう。「本当の議会制民主主義」とは何かが議論されない限り同じことだと思う。小沢さんの政治手法は自民党と全く変わらないし、資金集めの手法も全く同じだ。これでは民主党に新しいイメージを求めよと言っても無理だろう。

 旗の色が変わっていても、そこにいる政治家が同じ体質ならば、何も変わらないことくらいは国民だってわかる。だから馬鹿にするなとソッポをむくことになるが、政治そのものに「あきらめ」感が充満していくことが怖い気がする。ヒットラーの独裁も日本の東條内閣も国会の承認を得て成立しているし、むしろ国民が期待を寄せていた。挙国一致はヒットラーや東條を頭とする国民の声であった。人は集団に身を置くことで自己の安全を保とうとする性質がある。

 イチロー選手がポロリと言っていたけれど、決勝戦の10回ツーアウト2・3塁のあの場面で打てて本当によかった。もしあれがヒットでなかったなら、マスコミはイチローに非難を集中させたであろう。注目される事件やイベントには「神への捧げ物」を人は欲しがる。人は自分のささやかな幸せだけでは満足できなくて、もっと大きなものを欲しがるけれど、そのためには韓国チームのような「神への捧げ物」を必要とするようだ。だから、幸せの反対側にあるものに感謝しなくてはならない。

 それにしてもあの「サムライJapan」というネーミングはいやだな。侍は官職を護衛するとともに軍人でもあったわけだから、いわば殺し役だ。武士道などと言うけれど軍人としての心構えではないか。スポーツマンは体力とか気力とか戦術とかあるいはチームワークで戦うけれど、そこには勝敗は在っても殺しはない。フェアで戦うことを一番大事にしているはずだから、サムライはよいネーミングとは思えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

WBCで日本チーム2連覇

2009年03月24日 19時07分26秒 | Weblog
 第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本チームは2連覇を達成した。今日はおたすけの理事会の日だが、会議が1時間ほど経ったところで落ち着かない人がいて、早めに終了することになった。私はひとりでテレビ観戦をしていたが、息詰まる展開にどっと疲れてしまった。

 野球通の友人は「日本が勝つから」と言い切っていたが、私はイチローが打てないことが心配だった。「そりゃー、あれだけ警戒されてはさすがのイチローも打てませんよ」と野球通は言うけれど、警戒された投球なのかがよくわからなかった。けれど今日は、初打席からヒットが出ていたから、なんとなくやってくれそうな気持ちを抱くことができた。

 さすがに決勝戦にふさわしい試合だった。韓国チームは一発のある強力打線で、誰が打席に立ってもホームランを打ちそうな雰囲気がある。日本チームはどこからでも確実に打ち返す、堅実だが地味な打線だ。投手力では日本が優れているが、日本チームも打線がつながりがなければ点に結びつかない。これまで、肝心なところでイチローが打てなかったので、名前ばかりが先行していると思っていたが、今日は「さすが、イチロー」だった。

 日本チームには、このまちと隣りまちから2名の選手が出ている。合併話が実現していたなら、市から2人の選手が生まれたと話題になっても不思議ではなかった。イチロー選手と稲葉篤紀選手である。小・中学校は違ったけれど、少年野球で活躍していた2人だった。2人は同じバッティングセンターに通っていたという。中学でイチローを教えたことのある友人に聞くと、イチローはちょっと変わった生徒だったようだ。

 稲葉はこのまちの出身だから後援会もあったが、ヤクルトから放出された際に彼の方から後援会を解散したいと申し出があった。その最後のパーティーで少し話したことがあったけれど、驕りのない普通の人という印象だった。日本ハムそしてWBCと、ここぞという時に活躍できる芯の強い選手となり、ただ同じまちというだけでうれしくなってしまう。コンプレックスはエネルギーとなると言うが、エネルギーに変えられる人は大きな仕事ができる。

 孫娘が中学2年の終了式を終えて帰ってきた。「どうだった?」と聞くと、「ウン、上がった」と淡々と答える。4が5に2つも変わったのだからもっと喜ぶのかと思っていたが、「頑張ったのだから当たり前」といった雰囲気だ。「日本チームも勝ったから、次はあなたの番?」と茶化すと、「まあね」と素っ気ない。「日本だけなの?こんなに子どもに勉強させるの」と言うから、「いやそんなことはないよ。韓国や中国もかなり子どもに勉強させるみたいだよ」と答える。

 「勉強することは子どもの義務ではなくて権利なんだよ」と言うと、「権利?」と聞くから、「そうさ、昔は子どもだって働かされていた。それでは人間としてよくないのではないか。子どもたちが勉強する権利を大人は保障しなくてはならないと決めたんだ。それでもまだ、世界中には勉強させてもらえない子どもがたくさんいる。あなたはどっちがいい?」。孫娘は黙ってうなずいていた。

 イチローや稲葉のようにならなくてもいいが、あのガッツは学んでもいいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「おくりびと」を観る

2009年03月23日 23時43分21秒 | Weblog
 近頃、孫娘は不機嫌である。なんとなくイライラしている。今朝は些細なことでカチンと来たので口もきかないでいた。なんとなくイライラしているのは自分の方かもしれないと、後になって思った。「何かやる気がしない」と孫娘は言う。そういう時は誰にでもある。「気合を入れないと!」と彼女は自分に言い聞かせている。「そうだね」と言う私の方が本当は気合を入れなくてはいけないのかもしれないなと思う。

 孫娘の両親が仲たがいをしたのは4年ほど前だ。父親は家を出て行ってしまった。そして母親はこの春から新しい人生を歩き出した。父親も母親もいなくなった家で彼女は暮らしている。母親はもちろんのこと、実父も継父も彼女のことをとても気にかけてくれている。もう、子どもではないから、逆にそのことが彼女に現実の重さになっているのかもしれない。実父も継父も私から見ると、とてもよい男に思える。よく働くし、よく気がつくし、思いやりがある。私は自分の子どもで男の子が生まれるのはいやだったけれど、婿という息子の存在はうれしかった。

 二人だけになると、何を話してよいのかわからなくて困ったが、息子として頼りに思っていたし、実際に私のためによく付き合ってくれた。だから大事に思っていたから、彼が好きだというコーヒーを毎朝届けたりしていた。「あのね、そういうおせっかいがパパには苦痛だったのよ」と孫娘から言われるまで気が付かなかった。思い込みと思い違いが人間にとって一番の不運だ。わかっているつもりが、わかっていなかったのだ。

 孫娘の憂鬱が私にも広がりそうだったので、気分転換に映画『おくりびと』を観てきた。どうしてこの作品がアカデミー賞なのか、正直よくわからなかった。カンヌ映画祭で評価の高かった『もがりの森』の方が私には内容があるように思われた。アメリカ人の評価とヨーロッパ人の評価では映画の見方が違いのかもしれない。『もがりの森』は人生は不可解と考えさせられるが、『おくりびと』は人生はそういうものだと納得させられる。

 主人公が何十年も会っていない父親の死に立会い、「たった一つのダンボール箱しかない。この人の人生は何だったのだろう」と言うセリフがある。人生はそんなものだろうと思う。これが何億円とか仮に何兆円であっても同じことだ。何を残したからといったところで、死んでいった者にとってはどうでもよいことに過ぎない。人は何かを残すために生きているわけでは決してない。形にあるものは何もなくても、また逆にどんなに多くのものを残そうと、そこにどれだけの差があるのだろう。

 人はきっと、どれだけ人を愛したか、どれだけ人に愛されたか、それだけが人生の宝だと思う。もっと言えば、どれだけ愛したであろうか、その自己満足だけで充分なのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花はどうして美しいのだろう

2009年03月22日 18時26分56秒 | Weblog
 朝から雨降りである。少し肌寒いような気もする。5月中旬並みの暖かさが続くと、ホンの少し気温が下がっただけでも随分寒く感じるように思ってしまう。3月下旬だというのに、春の花が一斉に咲き始めた。梅はもう散ってしまったと思っていたら、近所の白梅が今を盛りに咲いている。紅梅なのかスモモなのかはっきりわからないが、ピンクの花もよく咲いている。マンサクやユキヤナギも見事に咲いている。

 街路樹にもなっているのはコブシなのかハクモクレンなのか。調べてみると、花の下に小さな葉をつけていればコブシだとわかった。私が子どもの頃にはあまり見かけなかったような気がするが、いつごろからか街中で目に付くようになった。ハクモクレンが満開になるとまるで白い鳥がいっぱい木に止まっているように見える。

 小学校の時の中庭に大きな木蓮が1本あった。小学校5年の教室の南にあったと思う。大きな葉と大きな花びらが記憶にあるが、あれは外側が赤かったから木蓮に間違いない。花の名前などに余り関心がなかったけれど、最近では「あれは何という花なのだろう」と思うことがある。初夏に瀬戸の丘陵地へ行くとニセアカシアの白い花を見かける。アカシアは黄色い花で咲く時期も違うのに、どうしてニセアカシアなどという名がついたのだろう。瀬戸から多治見への丘陵地にはナンジャモンジャという妙な名前の樹木もあるが、花が咲く時は雪を被ったように見える。

 可児の花フェスタ公園のハンカチノキというのも珍しい。本当にハンカチがぶら下がっているようだ。花は、草や樹もそれぞれに、自己主張が強い。受粉をして実をつけるための工夫だろうけれど、そうした智恵はどのようにして生まれたのだろう。厳密に言えば植物に知恵などないのかもしれないが、花の開花やその彩や仕組みにはどうみても智恵が備わっているように思えてならない。神は地上に何かの偶然で生き物を作られた。その偶然から初めに植物が生まれ、そしてまた次に偶然から動物が誕生した。ならば、生き物は共に生きる智恵を有しているのではないのだろうか。

 花はどうして美しいのだろう。男たちは女性の美しさを花にたとえてきたけれど、確かに男である私からすると女性は花のように美しいと思うけれど、女性もまた花を美しいと言うから、美しいと感じる基準のようなものに男女の違いはないのだろう。けれども男を花のように美しいとたとえることはないのはどうしてなのだろう。

 3月28日は『夜桜の宴』を計画している。雨降りでなければよいが‥。するとすぐに晴れ男から「雨はありませんよ」と言われてしまいそうな気がした。いつも前向きにしか決して考えない晴れ男である。花にたとえるなら「サクラ」かな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする