友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

夏に向けて

2008年06月30日 22時07分23秒 | Weblog
 朝早くからカミさんはゴルフに出かけて行った。昨夜はお酒を飲みすぎて、「気持ちが悪い」と言っていたが、朝になればケロリとしているのだから不思議だ。私は怠け者だから、遊びに行くのにわざわざ早く起きて行く気にならない。仕事なら仕方ないから早起きもするが、遊びならゆっくりしたい。

 一人だからぼんやりしていても誰からも文句は言われないのに、朝食の後すぐにルーフガーデンに出て掃除をする。鉢の並びを変えたり、雑草を取り除いたり、花や葉で痛んだものはないか見て回る。それから座り込んで、種から育てたサルビアを大き目のポットに移植する。

 大きくなったサルビアを100鉢ほどより分け、台車に載せて管理事務所へ持って行った。昨年も種から育ててみたけれど、我が家では植えられないほどたくさんのサルビアが育った。そこで管理事務所へ持って行き、「どなたでも欲しい人にあげてください」とお願いしたところ、「すぐなくなってしまいましたよ」と言われた。

 そんな風に喜んでもらえるならと今年も200鉢ほど育てた。多分、種から育ったものは300本くらいあったのではないか。本当は芽が出てきたところで間引きをしてやると良いのだが、そこが素人というか、貧乏症というか、かわいそうな気がして捨てられない。なかなか大きくなれないのは間引きしていないためだとやっと気がついたのに、未だに思い切れない。

 鉢を動かすとミミズのまだ形になっていない白い5ミリくらいのものが結構出てくる。こんなところにいたのでは生きていけないぞ、そう思うとこの小さなミミズの赤ちゃんを何とか土に返そうと、そんなことに時間を費やしてしまう。ミミズも魚もたくさん生まれても結局は生き残れない。生き残るのは本当にわずかな確率なのだろう。人間は大事に育てられ、尊い命を授かっているのに、その人間が他の人間を殺している。

 バラは2度目の花を咲かせている。アジサイは今が一番見ごろかな。ランタナはどんどん花を咲かせている。庭の草花や樹木も緑がいっそう濃くなってきた。夏は庭が一番きれいな季節だ。
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後悔はしない

2008年06月29日 21時49分52秒 | Weblog
 強い雨が降り続いている。子どもの頃の梅雨の印象は、雨がシトシトと降り続く日々だったように思う。これも最近の異常気象のせいなのか、シトシトではなくドサッと降るか、そうでなければ雨のない空梅雨が多いような気がする。雨はじとじとして嫌いだという人もいるけれど、雨に打たれているアジサイをぼんやり眺めているのもいいものだ。

 孫娘たちは、火曜日から始まる野外教育(キャンプ)の準備とかで出かけた。カミさんはこの雨の中で、ゴルフの研修会だ。一人でコーヒーを飲みながら、昨日のNPOの設立総会で指摘された箇所を手直しする。我が家の上のその上の夫人がやってきて、我が家の上、彼女の家の下、つまり奥さんを亡くされて一人暮らしをしている方から「電話があったので、一緒に行ってくれませんか」と言う。

 一人暮らしだけれど部屋はきれいに片付いている。肺にガンが見つかったと診断されてから、少し弱気になられたのか、どこそこが痛いと強く訴えられた。「今からでも病院へ出かけましょうか」と声をかけると、娘さんがお昼に、さらに北海道の妹さんが今晩、「来ることになっているし、どうせ今日は病院は休みだから何もしてくれない」と言う。強気の男も病気の一人暮らしで弱気になっているのがよくわかった。

 しばらく話していて、「何かあればすぐに連絡してください」と言って帰ってきたが、その直後に娘さんが来てくれたようで、お孫さんの声が聞こえてきた。いつもなら、娘さんには嫌味の一つも言ってしまうお父さんだが、今頃は娘さんに甘えていることだろう。父親はなかなか素直に娘に甘えることなどできないものだ。娘さんの方も、頑固でわがままで気が利かないと思っているから、なかなか優しい言葉をかけることができないみたいだ。父娘とはそんなものだろう。

 私は娘たちの世話にはなりたくない。世話などならずに逝きたいものだが、そう思っていると往々にしてそうならないことが多いから、決して口には出さない。老いを目の前で見ていると、実に悲しい。もちろん何の悔いもなく、まるで天使のようになっていく人もいる。けれども、自分の老いに気付く人は「どうしてこうなってしまったのか」と悔やむのだ。嘆いたところで仕方ない、前だけ向いて生きていく方が幸せだと思うけれど、そうできないところが人間のようだ。

 木村拓也総理大臣に彼の母親が「後になって、後悔することだけはいかんよ」と諭していた。そのとおりだと思うけれど、そのとおりに生きてきた人は、実は罪深いのかも知れない。
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特定非営利活動法人の設立総会

2008年06月28日 21時44分41秒 | Weblog
 昨日から、特定非営利活動法人おたすけの設立総会の準備に追われた。設立総会を今朝の10時から行なうに当たって、その議案書を準備するためだ。あらかじめ、これまでみんなで論議してきたことに踏まえて、おおよその議案は仕上げておいたけれど、実際に第何号議案というように書き込んでいくと、不都合な部分が出てきたりして、体裁を整えるのに時間がかかってしまった。

 最大のピンチは印刷用紙が残り少なくなってきたことだった。500枚の紙が足りないくらいに議案は相当の紙数に膨れ上がった。それだけでも大変だったのに、予算書を書き上げていたら、数字が間違っていることに気がつき、このために何度もやり直したことが痛かった。どうも私は数字を大雑把に見るクセがあるようで、これで良しと思って印刷してから、計算間違いに気付き、印刷をやり直したりもした。

 それでも何とかやり遂げ、最後の印刷を行なっていると、ピリンターが停止してしまった。画面を見ると「インクがありません」とある。インクの予備はない。万事休すである。途中で止まってしまった方は残りをコピーすることにし、数字の間違いがある方は1枚1枚手で直して持って行った。なんとまあ、情けない事務方なのかとわれながら落ち込む。

 設立総会は、いつも使わせてもらっている喫茶店の2階で行なった。事前に議案書を読んで置いてくださいとお願いした甲斐あって、議事は誠にスムースに進んだ。さすがに議長は最年長だけのことはあったし、法人の代表を務める議案の提案者も何一つ迷うことなく説明できた。むしろ私の心配は杞憂であった。

 これで、いよいよNPOとして活動できるのかというとそう簡単にいかない。設立総会で決議していただいた議案に基づいて、申請書類を県に提出し、書類審査と指導を受け、2ヶ月の縦覧を経て初めて許可が下りるという。「早くて、10月ですね」と県職員の方が言う。「それまでは必ず『申請中』と表記してください」と。NPOが会社の設立よりも厳しい審査を受けるのは、ボランティアが作る会社だからだと思う。

 ボランティアの名を借りて、悪いことを企む連中がいるということなのだろう。私たちはお金を儲けようという気持ちはないけれど、お金を稼がなければNPOは存続できないし、多分持ち出しで事業を行うことになるだろう。私自身はそれでも良いような気がするが、NPO全体のことを考えれば、そんなことをしていれば「ただ働き」の使いやすい組織となってしまう。商品の値段の決まり方のところでも書いたけれど、需要と供給のバランスで価格が決まるのではなく、商品を提供する側が生きていられる報いで決めていくことがあってもいいのではないかと思う。

 みんなが幸せになりたいと願うけれど、幸せの形も質も人それぞれだとみんなが思えば、どんな幸せもみな幸せとなる。ある人が私に「幸せって顔している」と冷やかす。ああ、私は幸せな毎日を過ごしている。申し訳ないことに、それは私の心の中のことだから、人から見れば許せないことであるかも知れない。どんな風に人は生きていくのか、その人の生涯が幸せなのか不幸なのか、他人がどうこう言えないのが真実ではないかと思う。
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試験が終わった孫娘

2008年06月26日 23時56分12秒 | Weblog
 試験が終わった孫娘は、溜まっていたビデオを夢中で見ていたらしい。晩御飯の時も、「ちょっといい?」と言って、『花だんのスペシャル』なんとかという番組を見ていた。私には彼女の好きな井上真央のよさが少しもわからないが、彼女は「真央ちゃん、可愛い!」を連発している。

 中学2年生なのだから、こんな風に夢中になる人がいても良いのかも知れない。私自身は現実の世界以外の人にあこがれたりしなかったように思ったが、思い返せば、雑誌の表紙を飾っていた鰐淵晴子という少女にはあこがれたし、高校生になってからだと思うけれど、小悪魔と称されたフランスの女優、ブリジッド・バルドーには魅了された。マリリン・モンローは胸がでかいだけで魅力はないとすら思っていた。

 大人になってから、初めてマリリン・モンローの映画を観て、「可愛い人なんだ」と思った。純真な人だとも感じた。ブリジッド・バルドーは妖艶な感じがしていて、エロチックそのものだと思っていたのだ。それでも、映画を観ても俳優はあまり覚える方ではなかった。むしろストーリーとか、何よりも関心があったのは撮影の方法だったように思う。カメラのアングルとか色使いとか、そんなことばかりに気をとられ、誰が出ていたのか覚えていないこともあった。

 それにしても、子どものセリフは気が利いていて、孫娘がテレビ関係の仕事をしたいと言った時、「男も子どももいらないね」と言うのには驚いた。私が孫娘の母親が家にも帰らずに忙しく仕事に没頭していることを皮肉って、「ママは充実した毎日で幸せだね」と言うと、「あの目を見てわからんの。幸せとは程遠いじゃん」と言った時もビックリした。

 彼女はこの期末試験に向けて、ほぼ12時近くまで起きていて、それでいて朝4時に起きる毎日だった。父親代わりの私もそこまでは付き合えなかったけれど、できるだけ同じような時間帯で過ごしてきたから、とにかく毎日眠い。明日のためには早く眠りたいのだが、『ラスト・フレンズ』の番外編が放映されるから見るといいよと言われ、しばらく見ていたけれど、番外編というよりも総集編のようなので、パソコンに向かうことにした。

 明日はまた、孫娘と二人だけの晩御飯になるのだが、彼女がどんな話をするのか楽しみだ。
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資本主義社会から次へ

2008年06月25日 22時43分26秒 | Weblog
 ガソリンの値段が上がっているばかりか、農作物も値上りしている。原油価格の高騰に抗議して、ヨーロッパでもインドネシアでも韓国でも暴動に近い動きがあり、そして日本でもイカ釣り業の漁師たちが行動を起こしている。商品の価格は需要と供給のバランスによって決定されるという市場原理は幻となり、今日では需要と供給以外の要素が大きなウエートを占めてきている。

 人間はものを作って売ってきた。この時、生活に必要な費用に少し上乗せして価格を設定した。しかし、実際の価格は欲しい人が多ければ上がるし、品物を提供する人が多ければ下がる。これが資本主義社会の根本だった。私は知らなかったけれど、イスラム教では利子を設ける考えはなかったと聞く。そもそも商品でもないお金が動くとなぜ利子が生まれるのか、私はズーと不思議に思ってきた。

 イスラム教のように、お金に利子がつかなければ、お金が商品のように動くことはないのではないか。売り買いもしていないのに、商品は動いてもいないのに、お金だけが動くのはおかしいのではないだろうか。お金があったならば利益を生むのだから、お金に利子がつくのは当然ではないか、と言う人もいる。けれども、商品が動くとなぜ利益が生まれるのか、私には理解できない。

 今日の世界は、商品の売買で利益を生み出すのではなく、商品は動かないけれどお金が動いて利益あるいは損失が生まれる社会を構築している。資本主義社会とは異なる経済社会へ向かっている。商品を作っても売れない資本主義社会の最高の時点から、資本の余剰が生産と消費に関係のないマネーゲームといわれる資本主義ではない経済社会へ向かっているのだと私は思っている。

 それが人間社会にプラスに作用するのか、マイナスになるのか、私にはわからないが、人間がこの世界に存在し続けられる日まで、人間は社会を変革し続けるだろう。人間は自分たちに都合の良いように世界を変えてきたけれど、社会の形を変えることはできたけれど、人間自身を変えることはできなかった。確かに、封建社会と現代社会は違うから、人間は自分たちの社会の仕組みも変えてきたといえる。

 この先の人間社会に似合った社会の仕組みや価値観やその生き方は、いつも社会の変革の後を追っているように思う。しかし実際は逆で、私たち人間の中身が少しずつ変わってきたことが、社会を変えてきたのかもしれない。いずれにしても、人類がこの世に存在する限り、人間はこの連鎖から解き放たれることはないように思う。そして、変えてきた世界から最後通告を突きつけられる時がいつか来るだろう。
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アジサイ

2008年06月24日 22時55分21秒 | Weblog
 アジサイの花言葉は移り気である。子どもの頃の我が家の一角にもアジサイが咲いていた。今の我が家はマンション暮らしだが、アジサイは5株鉢植えで持っている。いずれも赤からピンクまでが交じり合っていて、私にしてみれば、これはアジサイではないような気がしてならない。

 アジサイはもともと日本が原産で、間違っているかもしれないが、シーボルトがヨーロッパにアジサイを持ち帰って、西洋アジサイが生まれたように記憶している。私が好きなアジサイは我が家で咲いていた青い色のガクアジサイだ。アジサイと言えば、雨の中で咲く青い色のガクアジサイしか記憶になかったのに、最近ではものすごく多い種類のアジサイをよく見る。

 日本の土壌は酸性だから、青い色のアジサイが日本人が愛してきたアジサイである。ところがヨーロッパは土壌がアルカリ性だから、青いアジサイも自然に赤っぽくなってしまった。もともとハッキリとした華やかさを好んだ西洋人は、しっとりと可憐に咲くアジサイを優雅でより大きく華やかなアジサイに変えてしまった。赤やピンクの西洋アジサイといわれる大柄なアジサイがいろんなところで見られるようになったのはこのためだろう。

 私は西洋にあこがれていたのに、感覚は日本人の域を出ないようで、雨の中でひっそりと咲く青いアジサイが好きだ。冒頭で、アジサイの花言葉は移り気と書いたが、これはアジサイがその土壌によって花の色を変えることから来るのだろうが、私はむしろアジサイをいとおしく思う。花嫁が白い衣服を身に着けるように、どうぞあなたの色で私を染めてくださいと言っているのではないか、そんな気がするのだ。

 愛する人の色に染まるというと、なんとまあ主体性のない人かと思うかもしれないが、私はむしろ積極的な「愛」のように思う。それはキリストが「右の頬を打たれたなら、左の頬を出しなさい」と言ったことに共通している。アジアの思想は自然に己を任せ、無となって生きなさいという。移り変わる自然との対話の中で悟った思想だと私は解釈している。しかし、キリストはより積極的に生きることを主張する。

 人は求めることをやめない。人はそういう存在なのだ。しかし、神は与える。求めるものには与えなさい。神がしたように、いやそれ以上に、与えることが神の意思を行なうことだとキリストは説いていると私は思っている。

 家に帰ると、我が家のアジサイが首を垂れている。ランタナも元気がない。一昨日まで、かなり強い雨降りだったので、水遣りは必要ないと思っていたが、今日一日良い日が続いただけで、もう水不足になっているのだ。水不足は愛情不足。できるだけたっぷりと水を注いだが、明日は元気になっているだろうか。
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秋葉原の犯人

2008年06月23日 23時11分05秒 | Weblog
 秋葉原の事件は大きな波紋を呼んだ。一過性の事件なのか、時代が生んだ事件なのか、その原因を探ろうとマスコミは躍起になっている。どうしてあのような残虐な事件を起こしてしまったのか、本当のところはわからないが、事件の犯人の気持ちを推測することはできる。

 彼は死にたかったのだから、あれだけ鋭いナイフを手に入れていたのだったら、自分で自分を刺し殺すこともできたはずだ。ナイフを使うのが怖いというなら、電車への飛込みだって、ビルの屋上からの飛込みだって、いくらでも方法はあったはずだ。しかし、いずれも「怖くて」実行できなかった。それだけでは、この事件はやはり解決できない。

 彼は死にたかったけれど、自分をそこまで追い込んだ社会へ復習もしたかった。どうせ死ぬのだから、これまで全く無視されてきた自分の存在を知らしめてから死ぬという価値を見出したのだと思う。誰でもよかったと言うように、人の死、つまり人の生きている意味など全く彼は考えていない。死ぬ自分しかない。彼自身が言うように、人を一度も愛したことがない悲劇だと思う。

 人をたくさん殺せば確実に死刑になれる。できるだけ多くの人を殺せば、マスコミは確実に取り上げる。小中学校時代は成績優秀で、両親も誇りに思い、ちやほやされたに違いない。それが進学で有名な高校へ入学したことで、そのこと事態は親の期待に報いたことであったはずなのに、現実の厳しさに打ちのめされ、自分で自分を「負け犬」にしてしまった。

 そういう人はいくらでもいるはずだ。彼のように、だからといって人殺しをしようと考え付く人は余りいない。余りいないというのも、ネットの社会では、犯人の彼を「よくやった」と英雄に祭り上げる人たちがいると週刊誌が報じていたから同類はいる。なるほど、自分では人殺しなどできないが、やってしまいたいという彼の気持ちと共通するものがある人たちだ。

 確かに自分は負け犬で、どうしようもないくらいつらいし、これから先だってどうやって生きていったらよいのかもわからない。人はどんなふうに生きているのか、もっと他の人の生き方に関心を持ってみることだと思う。みんながみんな、幸せに満足した生活を送っているわけではないことを知るなら、人の幸せも人の苦しみも五十歩百歩、たいして差がないことを知るだろう。

 世の中、そんなに面白いわけはない。けれど、面白いか面白くないか、幸せか不幸せかも生きてみなければ結論なんか出せない。愛する人ができても、一生涯愛し続けることができるか、それもわからない。わかっているのは、死ぬときになってしか、出せない結論ばかりだということではないだろうか。生きてみる、それから考えてみようと私は言いたい。
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愛は独占なのか?

2008年06月22日 21時02分41秒 | Weblog
 今朝の新聞に「児童文学作家が知人殴り死なす」という小さな記事があった。この作家は66歳、死亡した知人は62歳、20年来の友人で、前日から作家の家で酒を飲んでいたとある。翌朝、作家が起きたところ、妻(新聞によっては同居中の女性とある)と友人が雑談しているのを見て激高し、殴りかかったという。なかなか勇ましいご主人である。

 妻をあるいは恋人を自分の支配下におき、他の男性との接触を嫌う男は多い。前に書いた『ラスト・フレンズ』のソウスケのタイプだ。自分の好きな人が他の人と楽しそうにしているだけで気に入らないのだ。この作家は、友人と妻が「浮気をしている」と思い殴りかかったそうだ。人はそれほどに妻を愛していたのだと言うかもしれないが、私は独占欲が強いだけじゃーないのと思ってしまう。

 私だって欲深いが、自分が愛する人がみんなからもてはやされるのを気に入らないと思ったことはない。自分だけを見ていて欲しいとは思うけれど、自分は負けないという勝手な思い込みの方が強い。初恋の人はチャーミングだったから、男たちの気を引いた。彼女に言い寄る男もいたが、私が一方的に好きだというだけで、彼女を独占してよいはずもない。

 結婚したならば、自分の妻にあるいは自分の夫に、他の人が好意を抱くのは許されないと言う人もいる。私は、人の心までは独占できないと思う。だから逆に、そんなにもモテる妻あるいは夫を誇らしく思った方がよいと考える。夫婦は共同体であるけれど、相手は自分のもので自分の意思のとおりに動くという関係ではない。独立した人間が共同生活をするのだから、互いを尊重する気持ちがなければやっていけない。ましてや愛されたいと言うことであれば、相手以上に愛さなくてはならない。

 結婚したのに、相手を束縛という愛で縛ることができないのか、縛ることも愛することではないか、そう言う人はいる。けれども、そうではない人もいるのだ。岡本太郎の父、岡本一平は妻であるかの子の恋人を自分の家に入れ、二人の性的関係も許した。谷崎潤一郎は妻を佐藤春夫に譲った。男性ばかりか根尾のうすずみ桜の恩人でもある宇野千代は何人もの男性との性的遍歴を行なっている。

 妻が友人と楽しく語らっているくらいで、仮にたとえ性的な関係が二人の間にあったとしても、激高するとは余りに大人気ないように思う。児童文学作家といえども「人」をテーマに取り組んでいる者だ。情けないと私は思った。私は私の友だちのように「時空を超えた愛の存在を信じようとする」ほど純真な心を持っていないが、愛されたいならもっと愛することだと思っている。愛が足りないのは相手ではなく自分なのだと。神以外に完璧な愛は存在しないのだから。
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蔵王温泉の旅

2008年06月21日 22時27分06秒 | Weblog
 蔵王温泉へ出かけた。1泊2日の旅行だが、飛行機代と宿泊代それにレンタカー代とさくらんぼ狩り代を含めて2万9千円という格安の旅行プランだ。新聞広告で探してきたカミさんは、「これって絶対にお得よね」と言う。どうしてANAがこんな値段でやっていけるのか不思議だが、JTBの九州温泉2泊3日の旅のこともあるから、ホテルが悪いか料理が悪いのではなかろうか、そう思っていた。ところが今回は充分に満足できるプランだった。

 バス旅行と違って、レンタカーで行く旅行はそれぞれが自分のペースで回ることができる。これはうまいアイディアである。ガソリン代や高速利用料金は自分持ちだが、自分たちで計画し、行きたいところへ行けるという旅行プランは面白い。蔵王温泉の湯巡りは九州黒川温泉ほどの規模はないけれど、それなりに温泉を楽しむことができる。どこへ行っても硫黄の臭いばかりだと言う方には申し訳ないが、美肌に効果があるとなれば、女性はそれだけで満足なのだ。

 さくらんぼ狩りは始めての体験だったけれど、案内のお兄ちゃんは親切に私の話し相手を努めてくれた。さくらんぼがどのようにして山形に生まれたのか、若い樹よりも20年30年経た熟年の樹の方が味の良いさくらんぼを実らせることも彼から教わった。カミさんは脚立に上って、よく実ったさくらんぼを次々と口に入れていたが、私はいくつか食べたら、もうお腹が一杯になってしまって、食べる気がしなくなってしまった。

 それにしても、佐藤錦は甘く美味しいが、実際に値段も高い。農家の人たちの手間ひまと1年に1回しか収穫できないことを考えれば、やはり当然の値段なのかも知れない。ものの値段は需要と供給のバランスで決まるというけれど、もっと根本的な、生きていくために必要な値から決まることはないのだろうか。そんなことをふと思った。

 井上真央ファンの孫娘は「テレビの仕事に就けば、真央ちゃんに会えるかな」と言うから、「そりゃー会えるでしょう」と答えると、「でもなー、テレビで話すのはできないなー」と言う。「何もアナウンサーにならなくても、番組を企画する人になればいいじゃーない」とアドバイスをすると、「そうか、それはいいね。そうなると男も子どももいらんね!」と、恐ろしく現実的なことを言う。なるほど、孫娘も彼女らしく、自分の価値観を作り上げてきているのだと、実感した。

 私自身はいいころ加減の人生を生きているが、それは結果であって、私はいつも全力投球で生きているつもりだ。友だちが好きな女性に「そんな先のことをくよくよ考えたって、意味ないわよ。二人で会ってる時は、今日一日をどう楽しむか、そのことだけを考えてよ。」と言われたそうだが、私は彼女の意見に賛成だ。
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「ラスト・フレンズ」

2008年06月18日 23時32分19秒 | Weblog
 孫娘が見るテレビドラマは、必然的に私も見ることになる。そんな中で興味深かったのは、「ラスト・フレンズ」と「バッテリー」だった。「ラスト・フレンズ」は明日が最終回のようだけれど、実際に私が見たのはその中の4~5回ぐらいなのだろうか。それでも、このドラマは現代を象徴しているようでおもしろいと思った。

 ミチルとソウスケがどこで知り合い愛し合うようになったのか、わからないけれど、ソウスケはミチルにぞっこんだ。ぞっこんだからこそ、その愛の表現は異常に見える。もしも、ミチルがソウスケを本当に愛しているなら、ソウスケの愛い仕方を理解し、普通の男女のあり方に戻していけばよいのにと思うけれど、そうしないことでドラマはハラハラドキドキさせているのだ。

 ルカという女の子はミチルが好きで、ミチルに対してはまるで男の子になったような振る舞いをしてしまう。これも多分、ルカを好きなタケルが、もっと積極的に女としてのルカを愛していけば、ルカは女になっていくだろうと私は思う。タケルは優しいから、ミチルの境遇に我慢できない。自分の正義をとおそうとすることが、かえってソウスケから憎悪を受けることになるし、ルカはタケルがミチルを好きなのだと勘違いするようになる。

 孫娘は「ソウスケは怖い」と言うが、いや孫娘の直感は正しいと思う。ソウスケのような愛い仕方しかできない男は以外に多いように思う。ソウスケはミチルを愛するが故に暴力で押さえ込もうとする。恋人あるいは夫からのDVである。ソウスケはミチルが自分の思うようになっていれば満足している馬鹿な男だ。愛することがどういうことかは彼は全くわかっていない。ソウスケはミチルと肉体的な交わりも持たない。彼が求めているのは、彼女を培養器の中に閉じ込めておきたいだけなのだ。

 こういう愛い仕方の男を私は馬鹿だと思う反面で同情もする。自分が愛すことと同じように自分を愛して欲しいと、相手に求める男も女も多い。私は、自分は愛するけれど、相手が自分を愛するかどうかは別のことではないかと思っている。尽くすことは愛だけれど求めることは愛ではないと思っている。相手が自分以外の人とお酒を飲んだとかデートをしたとか、それで非難し合うカップルもいる。ソウスケは相手を独占したいという典型的な男だ。ソウスケは相手のために料理も作るし気も遣う。しかし、彼には包容力がない。自分だけが絶対なのだ。

 ソウスケみたいな男でないと、愛された気がしない女もいる。男と女の愛い仕方には100組のカップルがあれば100通りの表現があるのだろう。究極は当の二人が納得できれば良いのだろうが、そういかないところに男女の愛の難しさがある。さて、明日が最終回ということだが、どういう結末になるのだろう。

 私は明日から東北へ旅行に行くので、このドラマを見ることはないのかも知れない。明日と明後日、ブログを掲載できないが、ご勘弁いただきたい。
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