日本人は恥を知る国民だと言われてきた。地位の高い人は、結果が悪ければ、責任を取って自害したりした。そんな風に聴いてきたけれど、実際はどうだったのだろう。戦国時代では、負けた方の大将は部下を助けるために腹を切って死んだ。土壇場になって、逃げ出したりするのは恥ずかしいことだと私は教えられた。忠臣蔵の吉良上野介は地元の西尾では立派な殿様として称えられている。けれども映画などでは、悪役にしなければならないから、女装して逃げ、倉庫に隠れている。逃げることは卑怯者のすることだからだ。そうかと思うと、城には攻め込まれた時に逃げ出す秘密の抜け道があった。いったい、潔く死を選ぶことを重んじたのか、逃げることは恥ではないと思っていたのか、どちらが本当だったのだろう。
私が子どもの頃に一番不思議に思ったのは、終戦を迎えて誰も自害していないことだった。実際は何人かが自害しているようだけれど、戦争を遂行した人々は、昔の大将のように「責任を取って」自害しようとはしていない。戦地の現場で、自害した将校はいたようだけれど、作戦を立てて何十万人もの人々を死に追いやり、さらに多くの人々の生活を破壊してしまった人々は、自ら責任も取っていない。なぜ、天皇は自害しなかったのだろう。天皇と共に御前会議で戦争を進めてきた人たちは、天皇と共に死を持って責任を取る道を選らばなかったのだろう。
東京電力の福島原発の事故が起きて一年が過ぎた。避難区域の見直しが行われているが、生活が全く変わってしまったのに、誰も責任を取る人はいない。菅直人前首相だけが、脱原発を政府の方針にしようとして職から追放された。東電の役員たちも、原子力安全・保安院も原子力安全委員会も、誰も責任を取っていない。組織が変わるまでは「責任を持って勤める」と言うけれど、それは自己保身でしかない。「爆発は起こらない」と言い切った原子力安全委員会の斑目委員長は、「疲れたから辞める」と言い、「みんながやめないでくれと言うから辞めない」と発言を撤回する。これは責任ある人の態度ではない。
テレビニュースを見ていたら、顧客から預かった巨額の年金資産を消失させたAIJ投資顧問の淺川社長が国会に参考人として出席していた。損失が生まれていたのに水増しした運用利回りの数字を見せていたのに、「だますつもりは全くなかった」と言っていた。年収が7千万円であることを問われると「働いたのだから当然である」と答えていた。東電の、あるいはオリンパスの、AIJの、社長らは会社の責任をどう考えているのだろう。社長としての自らの責任はどこに存在するのだろう。
中日新聞のコラムに面白い記事があった。「消費税を上げ、医療費を引き上げ、定率減税を引き下げ、風邪から治りかけていた日本経済を肺炎にしてしまった。同じことを繰り返そうとしているんでしょうか」という発言を記載し、これは2005年の衆議院本会議で、当時の小泉首相を前に野党時代の野田首相が展開した増税批判だとあった。同じ野田さんが首相になったら、全く違うことを言う。しかも、なぜ消費税増税かの根本にかかわる説明はなく、「繰り返し説明してきた。政治生命をかけている」とばかり言っている。
日本人は本当に恥を知る国民なのか。自らが責任を取らないことを恥じる心はどこにいったのか。いやそもそも日本人は、恥じる心などは持ち合わせないのだろうか。誠に恥ずかしい気がする。