アメリカのオバマ大統領は、核開発が進むと見られるイランに対して軍事力を持ってこれを阻止すると演説していた。今年の秋の大統領選挙をにらんでいるのだろうが、あさはかとしか思えない。オバマ人気が落ちているのは、彼が支持者の期待したことに応えないからだ。アメリカも日本と同じねじれ国会で、野党を抱き込まなければ法案が通らないから、オバマ色はどんどん褪せていった。それに失望した支持者が離れるのは当然だろう。しかし、受けを狙うためにイランへの攻撃も辞さないとなれば、ブッシュ前大統領とどこに差があるのだろう。
そもそもイランが核を持つのはダメで、アメリカはなぜよいのか、そこが私には分からない。大学1年の時に高校の同級生が私に会いに来た。彼は共産党の青年組織に入っていて、私にも入れと言いに来たのだ。私が新聞部で予備校のようになっている高校を批判したり、生徒会で学校とぶつかったりしていたから、当然入会するだろうと思っていたようだ。私はアメリカのベトナム攻撃には反対だったし、その頃問題になっていたアメリカ原子力潜水艦の寄港にも反対だった。でも、彼が「武力には悪いものとよいものがある」と言い、「ピストルも悪人が使えば凶器だが、善人が使えば防衛になる」と言うのには合点ができなかった。「殺し合えば同じことだ」と言ったために口論になった。
「アメリカはベトナムを攻撃し、多くの人々を殺している。それは絶対に許されない。しかし、ソ連もハンガリーに進攻し、多くの人々を殺した。武力で人を押さえつける考えを否定できない反戦運動はインチキだ」。私がキリスト教会に通っていたことを彼は知らなかった。私は平等であること、公平であることを正しいと思っていた。愛が世界を変えると考えていた。神はなぜ戦争を許しているのかと疑問に思っていた。キリスト教の国アメリカはなぜ人殺しを是としているのかと憤っていた。私は、戦争はどんな理由でもダメだと考える原理主義者(そんな言葉はなかったけれど)だったのだ。
私をオルグに来た彼は、私に向かって「お前のようなトロツキストは我々が革命を成し遂げた時は絶対に処刑してやる」と捨てセリフを残して帰って行った。私は自分が世界革命主義者だとは思ってはいなかったし、他人からそう決め付けられるほど確固とした考えの持ち主でもなかった。私はずぅーと悩んでいた。キリストの言葉は正しいと思っていたが、しかしなぜ神は人々が傷つけ合うことを、そればかりか殺し合うようなことまでも許すのかと疑問を抱いていた。私は罪深く決してキリスト者には成りきれないと感じていた。高校時代はおとなしくて居たかどうかも分からなかったような同級生に、いきなり「殺してやる」と言われて私は動揺した。なぜ、そんな風に憎まれなければならないのかと思った。
けれども私の考えは変わらなかった。武力で平和が実現できるとは考えられなかったし、人の犠牲の上に成り立つ理想社会を認める気にはなれなかった。いつもマジョリティに属することは無かったけれど、間違っているとは思わなかった。今から思えば、キリスト者にはなれなかったのは私の考えが余りにもアナーキーだったからだろう。規則や決まりが無いところに自然と秩序は生まれてくる。そういう社会こそが自分の目指す社会だと思うのは余りにもアナーキーだった。無政府主義の国家は存在しないと誰かが言っていたけれど、国家そのものが無くなる社会なのだから当然のことだと私は思う。