友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人には本能がなく欲望しかない

2012年07月31日 19時35分54秒 | Weblog

 人は森の中を歩いたり、小鳥のさえずりを聞いたり、花たちを眺めたりすると心が癒される。せせらぎや雨音を聞くだけでも、あるいは大平原や雄大な山脈や大海原を眺めていても幸せな気分になる。女の人はどうなのか知らないが、男たちは女の人のオッパイに癒される。現代人は多くの人がストレスを抱え込んでいるので、気持ちが重く、心の病に悩まされている。自宅に観葉植物を置いたり、庭で草花を育てている人も多い。犬や猫、あるいは水槽で金魚や熱帯魚などを飼育している人もいる。香りでリラックスさせる人もいる。

 どうしてこれらのことが人の心を癒すのだろうか。人は自然から生まれた生物だからだと学者は言う。人間はもともと動物なので元に帰りたいのだと説明する人もいる。確かに人間は動物の霊長類に分類されている。猿と似ているから、猿から分化したことは間違いないだろう。

 それにしても人間は動物でありながら、動物ではなくなったと私は思っている。誠に奇妙な発達を遂げた動物である。動物と人間の違いは何かと学校で先生から質問されたことがある。小学校の頃は、人間が火を持ったから他の動物と違う道を歩くことになったと答えていた。中学か高校になると、人と動物の違いは「心」あるいは「思考」を持ったことにあると答えていた。そこには動物よりも人間が進化した優れた生物という思いがあった。それでも人間は動物だから、動物に共通する本能を持っていると思っていた。

 動物は生まれるとすぐに乳を飲むか食べ始める。成長すれば性交して子孫をつくる。食欲や性欲は本能だと教えられた。動物は食べたいという欲望を持っているのか、あるいは子孫を残したいという欲望を持っているのか。おそらくそれは欲望ではなく個体に備わっている自然の仕組みなのだろう。だから動物は美味しいものを選んで食べるということもないし、性交が歓喜を伴うこともない。

 人は動物でありながら動物ではなくなった。動物が持つ本能が無くなっている。分類学的に霊長類に属しているだけだ。人はなぜ「心」や「思考」を手に入れてしまったのだろう。人類の発達のどこかで何かが起きたために、人は動物でありながら動物でないものになった。だから人には本能がない。食べることは動物と同じでも、人は食べるものを選り好みするばかりか、食べない選択もする。性交も子孫を残すことではなく、歓喜を得るためにする。人は本能よりも「欲望」を持っている。「欲望」は食べることや競い合うことに留まらずに、人類全体やもっと言うなら宇宙全体にまで及ぶような際限のない「欲望」である。

 「心」や「思考」は動物にはない文化を生み出した。しかもそれは発達する。その発達のおかげで人類は豊かさを手に入れた。私たちが「豊かさ」と思っているものは、本当はどういうものなのだろう。動物と決定的に違う道を人間は歩いてしまったけれど、これからどうなって行くのか、予測は極めて困難だろう。「心」とか「思考」がそれを決めていくのだから。

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長女からの写メール

2012年07月30日 18時56分22秒 | Weblog

 昨夜、長女から写メールが届いた。写真は高校3年の孫娘の浴衣姿で、わざわざ正面からと後姿の2枚が添付されていた。きっと孫娘が母親に送ったものを、ジジババである私たちのところに送ってくれたのだろう。長女のメールは、「小学校の同級生男女4人で、七夕祭りに行きました。寂しいような、嬉しいような、この時期にこんなことしてていいのかと怒れるような‥。門限言うの 忘れました」とある。母親の複雑な気持ちがよく分かる。

 長女だってそんな時期があった。何かあったらどうしようと不安になるのは親としては当然だろう。孫娘はちょっと晩生なのか、ボーイフレンドの話は出てこない。小学校の6年の時に、バレンタインチョコを作って持っていったことがあったけれど、中学校ではその手の話はなかったような気がする。水泳が全てであったから、異性への関心がなかったのか、あるいは厳しい母親を意識しすぎて、異性や恋愛の話ができなかったのか、どちらか片方というよりダブっているのかも知れない。

 我が家では高校生までは午後11時が門限であったけれど、子どもたちもそれは守っていたように思う。高校を卒業すれば一切干渉はしない、何をしても自由と言っていた。親としてできる援助はするけれど、それは物理的な援助であり、お金とか車での送迎とかいったもので、自分で良かれと思ったことをやっていくしかない。娘たちは自分で好きな人を見つけ、それで結婚していった。子どもには子どもの人生があり、親だからと言っても子どもの人生を生きられるわけではない。

 昨夜の夏祭りの打ち合わせ会は、友だちがアメリカから帰国したばかりということもあって、打ち合わせを終えたら久し振りの飲み会となった。「若い人たちはすぐに天職を見つけたがるが、実はそんなものはない。あれこれやっていくうちに人生を見つけていくものだ」。そんな話をしているうちはよかったけれど、「だいたい、国旗や国歌に対する畏敬の念がなくなっている。この元凶は日教組で、日教組のバカが日本を台無しにした」と言う。「公務員なら、国歌や国旗に忠誠を尽くすのは当然だ」と、まるで橋下大阪市長のようなことを言う。

 酒の席とはいえ、私は元日教組の組合員である。そんなに悪者にされたのではちょっと黙っているわけにはいかない。日教組が「子どもたちを再び戦場に送るな」をスローガンにしてきたことは事実で、戦争に結びついた国歌や国旗に反対してきたことも事実だ。けれど、子どもたちに国歌を歌うなとか国旗を見るなとか強制してきたわけではない。むしろ、どのようにして再び戦争をしないようにするか、この国民の課題をないがしろにしてきたことに問題がある。畏敬とか愛着とかは心が求めるものだ。強制しなくてはならないのは不十分だからだと思う。

 「オリンピックで、日の丸が揚がれば嬉しいと思うのが日本人だ」と言う。私も感激するし、誰もがそう感じるだろう。それでよいはずなのに、「嬉しいと思うべきだ」とまで言われると、「それは違うでしょう」と言いたくなる。自由でありながら、まとまっていく、まとまっていきながらも自由である、そういう社会が私は好きだ。

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『Hey Jude』

2012年07月28日 19時48分25秒 | Weblog

 暑い日が続いている。オリンピック熱も高く、今朝は午前4時30分から開会式の様子が放映されていた。私が起きたのは6時過ぎで、いよいよ選手団の入場行進が始まるところだった。204カ国からの入場行進は2時間ほどかかった。名前の知らない国もあったし、個人参加という形もあった。東京オリンピックをしっかり覚えているわけではないが、この時の日本選手団の行進は、学校の運動会のように一糸乱れぬ整然としたものだったと思う。今日の行進を見ているとそんな軍隊のようなスタイルのところはひとつもなかった。選手の皆さんがそれぞれ嬉々として入場を楽しんでいた。

 日本選手団も必死の様相はなく、手を振ってスタンドの仲間に応えていた。余りにも長い時間がかかる入場行進であったが、選手の一人ひとりにとっては忘れられない行進であったと思う。入場行進に続く開会式のセレモニーはかなり工夫されていて、イベントとしては随分面白かった。ビートルズのポール・マッカートニーさんが『Hey Jude』を歌った時は、やはりイギリスではビートルズは国民栄誉賞なのだと思った。ポールがジョン・レノンさんの先妻の子のために作ったといわれている曲だ。メロディーはきれいだが、歌詞はオリンピックにふさわしいのだろうかと思い、ちょっと調べてみた。

 題名の『Hey Jude』からも分かるように、ポールが「ヘイ、ジュード」と呼びかけている。両親が離婚した時の子どもへの呼びかけだが、「全てがよい方向に向かいはじめている」という言葉で結ばれているから、きっとそんなところが受けるのだろうと思った。「ヘイ、ジュード。君ならできる 君に必要なことは君にしかできない」と最後は結んでいる。1968年、まだ世界各地で大学紛争が起きる前のことだ。若者たちがビートルズのこの曲を口ずさむようになるのはそれから2年後のことだったように思う。「全てがよい方向へ向かいはじめている」と。

 今日、大和塾の第26回市民講座を開催した。何しろ暑すぎる。果たして人が集まってくれるかと心配したけれど、いつもと変わらない入りだった。講演の題は『中国黄土高原 今を生きる農民たちの暮らしと風俗』。黄土高原の横穴式の住居で暮らす農民たちの、4千年とも6千年とも言われる長い歴史を持つ、彼らのたくましい生活能力にビックリする。横穴式の住居であるヤオトンは、夏は涼しくて冬は暖かいそうだ。結婚式は都会と変わらないウエディングドレスだったけれど、葬式はかなり特徴があったけれど、日本でも昔見られたような原風景であった。小さな村落での葬儀はイベントで、お金持ちなら盛大に行なうことで村人に還元する儀式だと言う。

 中国国家の評価は様々だけれど、中国人は国家よりも地域共同体よりも、自分たちの親族を大事にする伝統が根強い。それは悲惨な歴史の中で、結局は、助け合うことができるのは親族と身に染み込んでいるからだ。そんな中国も近代化の中で、変わらなくてはならなくなっている。どんな風に変わるのだろう。「全てがよい方向に向かいはじめている」。「君ならできる 君に必要なことは君にしかできない」と言えるのだろうか。明日は夏祭りの打ち合わせのためブログを休みます。

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サッカー男子も1勝する

2012年07月27日 20時25分44秒 | Weblog

 ロンドン・オリンピックが開会式を迎えるというので、各テレビ局はその報道で溢れている。どんな開会式になるのか興味深いけれど、夜中に起きてそれを見たいとも思わないへそ曲がりである。オリンピックの開会式はまるで映画の一場面にいるようだと、北京オリンピックの開会式にいた人が話していたけれど、ニュースで見ても凄い演出だと思った。スポーツの祭典ではあるけれど、同時に開催国の文化を総結集するような面もある。それは面白い現象だと思う。

 古代オリンピックの時は、その間だけは戦争をしない約束であったらしい。近代オリンピックの提唱者、クーベルタンも平和への希求を述べていたと思う。けれどもオリンピックは政治的に利用されてきた。ヒットラーもそうであったし、オリンピック村がテロ攻撃されたり、大会のボイコットもあった。今朝のニュースの大半は、日本のサッカー男子が優勝候補と言われているスペインを破ったというものだった。「なでしこジャパン」の勝利がさきがけとなっているのだろう。

 私は国対国の競い合いになるよりも、オリンピックは個人あるいはチームの活躍を称える場になって欲しいと思っている。スポーツのレベルアップのためには、国の全面的な支援が欠かせないと言われているが、そんなにまで、つまり国家の予算をつぎ込んでまで行なわなくてはならないものなのだろうか。陸上とか水泳とかボートとか、1千分の1とか、1万分の1とかを争うことになるが、その勝利を得るために国がなぜ関与するのかと思ってしまう。

 個人のあるいはチームの努力には感心するし、今朝のサッカー男子の勝利の時は思わず涙を流してしまった。だからスポーツで必死になって戦うことを否定する気は全くないけれど、個人やチーム、あるいはそれを応援する人がいてもいいとは思うけれど、国家で競うことはないと言いたい。戦争のような悲惨な戦いではないスポーツの戦いなら、国家間で競い合うのはむしろ平和的でいいのではないかという意見もあるけれど、私には戦争よりはマシという程度である。

 個人やチームの競い合いになれば、オリンピックの精神も運営も自ずと変わっていくと思う。国家などはいらないと思っている私は、国同士が競い合うことがどうしても好きになれない。きっとそのうちに、国同士で争うスポーツの祭典ではなくなるはずだと思っている。アメリカから3週間ぶりに友だちが帰国したけれど、オリンピックのことよりもアメリカ社会の鷹揚さというかルーズさが話題になっていた。世界の警察を自負し、その頂点に立つアメリカも、個々の田舎では誠にのんびりとしているようだ。

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感謝を求める人は、他人のために働ける人ではない

2012年07月26日 19時23分37秒 | Weblog

 ロンドン・オリンピックの開会式に先立ち、サッカー女子の試合で日本の「なでしこジャパン」がカナダに2対1で勝った。スポーツなのだから勝つ時もあれば負ける時もある。こんなことを言う人は強いアスリートにはなれないようだけど、私はすぐそんな風に考えてしまう。「なでしこ」はワールドカップで優勝しているから、金への期待が強いので大変なプレッシャーだったと思う。日本チームとしては、「なでしこ」の1勝で大きな自信になったことだろう。

 私はカミさんのように、全ての重要な競技を録画しておいてでも見たいという熱心さはないけれど、それでも気になる試合は見るし、新聞で結果を知ってホッとする時もある。高校野球の県予選はいよいよ強豪がぶつかり合うところまで来た。自分の出身校やあるいは出身の地域の高校が今年は随分残っていたから、ひょっとするとなどと思ったりもしたけれど、やはりここまで来ると姿を消している。

 親しくしている若いお母さんと電話で話したら、「負けちゃった」と悔しそうだった。孫娘の友だちはこの夏の大会が最後だ。若いお母さんの息子は2年生だからまだ1年ある。まだヒヤヒヤドキドキできる時がある。「もう、辛くって」と言いながらも、息子の活躍に一番期待しているのは誰よりも母親の方なのかも知れない。小学校の運動場でサッカーのクラブチームがあるいは少年野球のクラブチームが、炎天下にも関わらず練習しているけれど、テントを張ってチームの監督やコーチの世話をしているお母さんたちもこの暑さの中でよくやっていると思う。

 親と言っても結局は母親がということになってしまうようだけれど、親が熱心でない子どもはなかなか伸びないと言う。そんなまでして、子どもを選手にしたいという気持ちが私には分からない。子どもがやりたいというものを親としては応援してやりたい。それは親の務めだと思うけれど、クラブチームに入れたなら、それ以上のことはコーチや監督に任せておけばいいように思う。しかし、聞くところでは、親が熱心さを示さないとコーチも監督も子どもを熱心に見てくれないらしい。

 私に言わせれば、「そんなチームなら辞めてしまえ」である。お世話になった人に感謝するのは当然だけれど、感謝しないならお世話しないというのでは本末転倒だ。ある地域の町内会長さんが、「夏祭りに県会議員を招待すれば、県の予算が付くと言うけれど、どうしよう」と悩んでいた。またある町内会長は「あの市議はちゃんとご祝儀を持ってくるからエライ」と言う。金のために一生懸命になる人を議員にしてはならないし、町内の世話役もすべきではない。

 クラブチームのコーチや監督、町内会の役員や市長、市議や県議や国会議員、こういう人はみんなのために働いているのだから、公平で潔癖でなくてはならない。理想肌で、清貧に甘んじる人でなくてはならない。財産をつかうことがあっても、増やしてはならない。栄誉を求めてはならない。誇りは胸に秘めて、謙虚でなくてはならない。だから本当に素晴しい人は少ない。でも必ずいる。

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私は楽観的なのだが‥

2012年07月25日 19時59分15秒 | Weblog

 夏の朝は気持ちがいい。草花に水を遣り、しばらく眺めている。今年はサルビアの生長が悪く、代わりに日日草を植えたけれど、今を盛りに咲いている。屋上の工事のために、ルーフバルコニーの半分しか使えない。ビアパーティを行なうまでには完成するのかと心配になる。今日は曇り空で、しかも風があるので爽やかに感じられる。

 午後、無党派市民派で市議になった人から電話があって出かけた。議会の様子や問題などを聞くけれど、だからと言って私に解決できることはひとつもない。先日も一緒に勉強会をやっていた仲間から、電話をもらったけれど、私の意見は言えてもだからそれで解決できるようなことは何もない。

 私に出来る最大のことは、聞いてあげることだと思っている。誰でもみんな、楽しいことばかりではない。話したところで結局は自分で解決して行かなければならないことばかりだ。無党派市民派の地方議員が集まって勉強会を行ってきた時も、自分が抱えている問題は自分でしか解決は出来ない。けれど、自分が考えていることや自分の理解の仕方を第三者の目で見てもらうことは出来る。

 勉強会だからイヤになれば辞めればいい。絶対に正しいことはないし、仲間の提案も解決方法のひとつに過ぎない。ひとりで悩んだり考えたりしていても堂々巡りだけれど、第三者の視点が加わることで、ヒントが浮かぶこともある。自分を検証する上で、仲間の意見は尊い。「ひとつの政治団体になるのはイヤだ」と言う人は多いだろう。私は政治団体というか、政党のような組織はなくなっていくのではないかと思っている。

 今は緩やかなつながりで、課題ごとに集まって議論できる「場」が必要なのではないかと思っている。誰がリーダーでもなく、教えるとか教えられるという関係のない、ネットでよいのではないか。それではダメだということが生まれてくれば自ずと、ではどうするという方向が議論の中から生まれてくるだろう。こうでなければならないとか、こうであったからという発想から自らを解放してやらなくてはならないだろう。

 イチローはヤンキースへの移籍で、長年着けてきた背番号51から31になった。私は20歳も若くなったのだからきっと何かやってくれるだろうと勝手に思っている。勝手なことだけれど、アホなほど楽観的であっていいと思っている。けれども現実は悲観的である。市議会でも議場に日の丸を掲げることが条例で決まった。世の中の全体の動きは、大阪の橋下市長に象徴される。けれど、それを体感としてイヤだと思う人もいる。どう流れが創り出されていくのか、私は見守るばかりである。

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イチロー、ヤンキースへ移籍

2012年07月24日 21時16分49秒 | Weblog

 今朝、ルーフバルコニーで鉢植えの草花に水遣りをしていると、壁の下のところに羽化したばかりのアゲハチョウがいた。既にミカンの木とその周りには3匹のアゲハチョウの抜け殻がある。そして悲しいことに、うまく羽化できず、最後にはアリたちに襲われてしまったアゲハチョウもいる。先日、ベランダに置いてあるサンショウの鉢の周りに青虫のフンが落ちているのを見つけた。見ると、サンショウの中に大きくなったアゲハチョウがいた。このままではサンショウを食べ尽くしてしまいそうだったので、そっとミカンの木に移してやった。

 その時の青虫がサナギになり、今朝、羽化したのだろうか。1時間経ってもなかなか飛び立たない。身体が温かくなるまで待っているのだろうか。見ていると別のアゲハチョウがやって来て、花たちの間を飛び回っている。それでもまだ、羽化したアゲハチョウは飛び立たない。どこか、羽でも痛めているのだろうか、そう思いながらもどうすることも出来ず、近寄って驚かすことになってはいけないと思って、そのままにしておいた。次に見に行った時にはもう、そこにはいなかった。ルーフバルコニーを見回したけれど、どこにもいない。やれやれ、飛び立って行ったのだと思う安堵と、それでいて何か寂しい気がした。

 先日、久し振りに同じ歳の女性に会った。目のパチッとした可愛い人で、若い時はさぞかしモテタだろうと思う。何年か前からか、ダンナがアルツハイマー病となり、そのために同じ歳の集いには参加できなくなっていた。お酒の強い秋田美人で、友だちも多いから、みんなが残念がっていた。「ダンナの具合はどう?」とたずねると、「今、デイサービスに送って行ったところ」と言い、それから堰を切ったように話し出した。「身体はいたって元気で、3食モリモリ食べるのよ。食べるからいいと思うでしょうけど、3食食べさせる方にとっては大変よ。それにビールも飲むし、そりゃー美味しいでしょうけれど、何しろ一日中相手をしているわけでしょう。こうやってデイに行ってくれている間だけが私の時間よ」。

 短い間のことだったけれど、きっと私が立ち止まって耳を傾けてあげたなら、積もり積もった胸のうちをもっと話したかったかも知れない。私は別れ際にポンと彼女の肩を叩いてビックリした。乙女のような柔らかな身体でないのは当然だろうけれど、痩せて骨っぽい身体ではなく、筋肉質で厚みのある、堂々と一家を支えている身体だった。言葉以上に苦労をしているんだなと思った。ダンナの方もよく知っているけれど、ふたりがどうして結婚したのか、そういういきさつまでは知らないが、恋愛結婚だとは聞いた。

 長い間、寝たきりになったダンナを介護してきた女性がいる。献身的な介護でさぞ辛かったことだろう。子どもたちがダンナを見送った母親に言葉をかけると、彼女は「お父さんを好きではなかった。やっと肩の荷が下りた」と言ったそうだ。今日、シアトルマリナーズのイチローがニューヨークヤンキースに移籍した。その初打席の対戦相手はマリナーズでしかもセンターへのヒットだった。イチローは野球の頂点であるニューヨークヤンキースでもう一度飛び交うだろう。頑張って欲しいと思う。

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フジテレビの『27時間テレビ』

2012年07月23日 21時23分48秒 | Weblog

 「サザエさんが終わる頃に、クサナギくんが100キロマラソンのゴールになるみたいだから見るね」とカミさんが言う。「清盛が見られなくなるよ」と返事をすると、「録画したから、タモリの方が終わったら見るから」と言う。そう決めてしまっている以上、逆らったところで変わるわけではないので、「ああ」と生返事になる。クサナギくんのマラソンが見たいわけではないけれど、確かにいつも、マラソンのフィナーレは感動させられる。人が精一杯の姿を見せるからなのか、それを支える人がいることが素晴しいのか、熱いものが込み上げてくる。

 フジテレビのこの『27時間テレビ』の目的はよく知らないが、以前は24時間で義援金を集めていたのではないだろうか。今回の最終場面を見ていたら、タモリの引退セレモニーのように思えた。タモリは昭和20年生まれだから、もう引退してもよい年齢だ。本人はまだまだ若い者には負けていないと思っているのだろうが、現役で活動している年寄りはみんな「自分がいなければ」と思っている。けれど、実際のところは悲しいかな老害である。

 それに、『笑っていいとも』を見ていると、今、問題になっている「いじめ」の原型ではないかと思う。本人は決していじめているつもりはないのだろうが、大勢の人間でひとりをターゲットに、チビだ、ブスだと生まれながらのどうしようもない部分を取り上げて笑う。あるいは「お遊び」と称してバツを与える。そしてみんなで無理やり言わせたり、やらせたりと、はやし立てる。ボスには決して逆らわないが、弱そうな者にはみんなで集中攻撃を仕掛ける。テレビのバラエティ番組なのだから、そんなに目くじらを立てることはないのかも知れない。でも、やっていることは学校の「いじめ」と同じだ。

 私たちの子どもの頃は、やっとテレビが出始めたばかりで、そんなにテレビの影響力はなかった。それでもプロレスの技を見たボスはそれを「遊び」で使ってみせた。私の娘たちは、テレビドラマやアニメの影響を受けていたし、高校3年の孫娘はテレビを見ていないので「話題についていけない」と嘆いている。1対1で話したり考えたりすれば出来ないことでも、1対多数になると残念ながら人間は凶暴になる。内ゲバや連合赤軍の「総括」、宗教対立や民族対立など、憎悪が恐怖を恐怖が憎悪を生み出してきた。ここまで来ると笑ってはいられない。「遊び」だからと言うがどうも同じように思えてならない。

 最近、テレビが面白くないと私くらいの年代の人は言う。NHKも民放と変わらなくなった。昔の笑いには「味があったのに、近頃の笑いには毒がある」と嘆く。「落語がすたれて、お笑いタレントのトークはけなし合いばかり、もっと本当に心から笑える番組が欲しい」と言う。テレビがなかった子どもの頃は、ラジオを枕元に置いて、落語をよく聞いた。布団の中で、クスクスひとりで笑っていた。それを懐かしいと言うだけで本当にいいのだろうかと思う。

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今朝、セミの鳴き声を聞いた

2012年07月22日 18時34分02秒 | Weblog

 今朝、セミの鳴き声を聞いた。アブラゼミだろう。今年初めてのセミの鳴き声だ。昨日までの雨で土が軟らかくなり、地表に出やすくなったのだろう。セミの声を聞くと夏だなと思う。昨年はいつからセミが鳴き出したのか覚えていないけれど、なんとなく今年は遅いような気がする。そう思いながらセミの声を聞いていると、目の前のゴーヤのツルに1匹のセミが飛んできて止まった。アブラゼミかと思ってよく観るとクマゼミだった。クマゼミの北限が上がっていると言うが、こんなに早い時期に現れたのは珍しいのではないだろうか。

 セミがけたたましく鳴くようになれば夏真っ盛りだけれど、午後からはセミの鳴き声が聞こえなくなった。町の有線放送から、今晩は夏祭りが行なわれるので集まってと呼びかける声が流れてきた。私は家から1歩も出ず、セミの声ばかり気にしていたけれど、子どもたちはもう夏休みで、今日はその最初の日曜日。いつもなら、学校の運動場でキャッチボールをする父子の姿が見られるのに、運動場には誰もいない。若い親子は夏祭りに出かける準備でもしているのだろうか。

 気候がよくなると、必ず深夜に子どもらが集まり運動場で奇声を上げてやかましくなる。午後11時くらいまでなら仕方ないと思えるけれど、午前2時・3時まで騒いでいるとさすがに腹が立ってくる。我慢できない大人は私だけではないようで、しばらくするとパトカーがやって来て、子どもたちは散って行く。けれども夏場はいたちごっこで、学校の運動場に居たかと思うと近くのコンビニに集まって大声で叫んでいる。声を上げなければ、静かに眠ることが出来るのだから、通報する人もいないのだろうけれど、それでは子どもたちは面白くないのだろう。

 私も中学生の時、仲の良かった近所の友だち5・6人で、自転車に乗ってかなり遠くまで出かけたことがある。昔はコンビにもなかったし、夜に集まれる場所もなかったから、夏祭りの夜くらいしか出歩くことはなかった。エロ本を回し読みしたり、好きな女の子の家を遠くから眺めたりしたこともあったけれど、私がキリスト教会に通うことに熱心なり、3年生になる頃からそういう遊びもなくなった。今の子どもたちのように、やりきれない気持ちになることもなく、毎日が楽しかったのだと思う。

 先日も80歳の先輩が、「戦後の民主主義はこんなものではなかった。もっと輝いていた」と言った。先輩は中学生の時に終戦を迎え、青年時代に60年安保を経験している。私たちの世代は戦後民主主義の高揚期に教育を受け、児童会や生徒会による自主運営が勧められた。でもそれは形ばかりで決して自治ではなかった。最終的には生徒指導部の先生が許可を与えるものだったから、「こんなものは民主主義ではない」との思いが私には根強い。

 先日のクラス会で、還暦を迎えた子どもたちが当時を懐かしんで歌った中に、『友よ』があった。「夜明けは近い、夜明けは近い」というあの歌だ。あれから45年(?)経ったのに、全然変わっていない。だけれども、変わっていないのは自分たちに責任があると考えられるようになったのは大きな進歩だろう。昨夜、南こうせつと吉幾三が泉谷しげるの『春夏秋冬』を歌っていた。「今日ですべてが終わる 今日ですべてが変わる 今日ですべてが始まる」。そんな時代だった。

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大人の責任

2012年07月21日 19時23分38秒 | Weblog

 イヤに眠い。朝も食事が終わってしばらくして、布団に入って新聞を読んでいるうちに眠ってしまった。それなのに夕方、本を読んでいたら猛烈に睡魔に襲われた。カミさんは新聞の数独に夢中になっている。昨夜は全英オープンゴルフが午後11時10分から放映されるというので、私はその前に寝たが、カミさんは1時間ほど見てから寝たと言っていたので、睡眠不足なのは彼女の方なのに、相変わらず飽きもせず、数独に挑戦している。

 カミさんが熱中する数独もゴルフも、どうも私は熱中できない。何が面白いのだろうと思ってしまう。ゴルフは芝の芽を読み、自分との戦いなのだと友だちも言うが、その絶妙さがきっと面白いのだろうけれど、なぜか興味が湧いてこない。カミさんは、スポーツはやることも観ることも好きだけれど、私は観る方は好きでも自分からやってみようという気になれない。運動神経が鈍く、他人と競い合って負けるのがイヤなのかも知れない。

 そう言えば子どもの頃から、競い合うことがどうも苦手だ。勝てば嬉しいのだが、負けるのは悔しいので、それなら競い合わずにおこうという逃げなのだろう。団塊世代は小さい時から絶えず競い合ってきたけれど、振り返ってみれば私は敗者だなと思う。全英オープンで、アメリカのタイガー・ウッズが復活してきている。タイガーの話題が出た時、高校3年の孫娘は「この人って、女たらしなんでしょう」と言った。ビックリした。タイガーが何人かの女性を愛した(?)ことを伝え聞いて、孫娘はそんな風に思ったのだろうが、どう言えばいいのか私は言葉が見つからなかった。

 タイガーの父親はアフリカ系アメリカ人で陸軍特殊部隊の将校である。母親はタイ人だけれど、両親にはいろんな人種の血が流れているので、タイガーは自分自身を「コーカネイジアン」とNHKの『クローズアップ現代』の中で答えているそうだ。アメリカは移民の国だけれども、人種差別は存在する。タイガーのもとにもヘイトレター(嫌がらせの手紙)が届く。「黒人の若僧が生意気に金持ちの白人の真似をするな」「何が英才教育だ。ハングリー精神でゴルフの世界を荒らすな」「殺すぞ」といったヘイトレターをタイガーは壁に貼って、ことあるごとに読み返し、「こんなことに負けてたまるか」と、ゴルフのエネルギーに転化していると言う。

 人はどうして弱い者をいじめるのだろう。金がない、背が低い、醜い、小さい、弱い、おとなしい、勉強が出来ない、運動が出来ない、人とうまく話せない、そんな弱さを持っている者を必ず集団でいじめる。1対1では出来ないことを数を頼んでやってしまう。それも、子どもの頃のいじめは、いじめた方に強い意識がなく、いじめられた方に深い傷をつける。だから、いじめた子を処罰することよりもいじめを防げなかった大人の責任を追及すべきだろう。いろんな人がいて、いろんな価値があって、それぞれみんな輝いていると認める社会にすることが大人の責任だろう。

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