友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

こうでなくては面白くない

2009年08月31日 21時17分27秒 | Weblog
 マスコミの予想通り、民主党の圧勝だった。懐疑的な私は、300議席を超えることはないだろうと思っていたけれど、まさに雪崩現象だった。こうなると「怖い」と思う人もいるだろうけれど、これが小選挙区制の効果なのだろう。余りにも自民党政権は長く続きすぎた。その弊害が目立ってきていたし、時代は自民党的な政治では追いつかないところまで来ていた。小泉さんが「自民党をぶっ潰す」と言ったことに共感してしまった人もいた。それくらい、小泉さんの思いと有権者の期待とは違うものであったにもかかわらず、みんなが「変化」を待ち望んだ。

 小泉さんは「自民党をぶっ潰す」をスローガンにして、結果的にはつぶれかかっていた自民党を延命させた。安倍さんはこの時とばかりに教育基本法を改正し、憲法改正へと動き出した。安倍さんにヒットラーのようなカリスマ性があったなら、「国民の心」は一つとなって、北朝鮮への制裁に血道をあげて行ったであろう。外国への制裁とそのための軍事力の強化は瞬く間に多くの国民の支持を得たであろう。経済の不安は「挙国一致」の下にかき消され、国民の多くは同じ目標を持ったことで活き活きとしたであろう。

 私はへそ曲がりだから、「みんな同じ」が嫌いだ。「右向け右」と揃うとゾッとしてしまう。選挙で政権が変わることが実際に起きる。これを体験した意味でも、今度の選挙は意味があったのではないか。「主権在民」などと言われながらも、「投票したって世の中は変わらない」と諦めていた人たちも、「投票で政治を変えることができる」と思ったに違いない。けれど、本当に政治を変えられるかどうかはこれからだ。有権者が政治を厳しく見られるかどうかだ。民主党がうまく出来なくなって、「やっぱり何も変わらないじゃないか」と諦めてしまうか、積極的にかかわるか、そこが分岐点だろう。

 選挙速報を見ていたカミさんが「下々の者にとっては、こうでなくては面白くない。自分が政治にかかわっているという実感がなければ、政治はどんどん遠のいてしまう」と、演説をぶっていた。大物と言われる議員の落選が伝えられると、「いいの、いいの、お掃除!お掃除!」とはしゃいでいた。確かにカミさんの言うとおりだ。当選が伝えられる候補者は若い。民主党だけでなく、大幅に議席を減らした自民党も当選した候補者は若い人が多い。政権交代は同時に世代交代でもある様相だ。

 公明党は小選挙区に立候補した8人全員が落選した。比例には重複立候補しないと自信満々であった太田代表や北側幹事長は、当選できなかった。私はよい結果だと思っている。太田代表は「公明党がやってきた実績が浸透できなかった」と言っていたが、自民党に擦り寄り弱者救済や反戦の、立党の精神を曲げてしまったことへの怒りの表れだと私は思っている。選挙で太田代表が一番取り上げたのは民主党批判だったから、創価学会以外の有権者は馬鹿馬鹿しい気持ちだっただろう。つぶれる運命にある自民党にどうしてそこまで擦り寄るのか、不思議な気がしたが、それだけ与党の甘い蜜に慣れてしまったのだろう。

 幸福実現党は一人も当選しなかった。大川代表はぜひなぜ立候補し、なぜ当選しなかったのか、発言して欲しいと思う。
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総選挙と金子光晴と井戸掘りと

2009年08月30日 18時31分16秒 | Weblog
 今日は総選挙の投票日。テレビは開票速報で持ちっきりだろう。「歴史的な日」となるであろう今日、私たちは朝からの井戸掘りでくたくたになった。昨年から続けているのにどうしても掘れないところだ。はじめは粘土層が固くなった地盤が掘れなかった。錐を大型化したような道具を作り、自動車のシャフトを改良して小さな力でも大きく伝えられる装置を造って掘った。ところが錐の先が磨耗するような石(?)にぶつかって進まない。

 そこで今日は、槍状にした鉄管を上から錘で打ち込んでみた。500回も打ち込めば石を割って進むだろうとかなり楽観的に考えていた。鉄棒の上に自転車の輪を付け、これにロープをとおして片方の錘をつけて引っ張っては放す。「よいとまけ」の歌の要領で、引っ張っては放す。確かに鉄管は20から30センチは下がった。けれども何度打ち込んでもそれ以上は下がらない。太陽は昇り、暑さは最高になってきた。身体中の汗が流れ落ちていく。

 「チャレンジ」をモットーに、やれることをやるまでは諦めないと言い聞かせてみんなでやってきたが、とうとうギブアップだ。依頼主には長い間いろいろと挑戦してみたけれど、どうしても掘れなかったことを告げ、騒がせたことを詫びた。水が出ないとなるといっそう疲れた気分が支配する。後片付けをしていても誰も口を利かない。冗談ばかり言い合っていたのにすっかり無口になっていた。

 家に帰ってシャワーを浴び、少し眠ってしまった。まだ日差しが強いから投票は夕方にしようと読みかけだった『狂骨の詩人 金子光晴』を開く。「最近はどんな本を読んでいますか?」と尋ねられた時に、素直に「金子光晴の生涯を書いた本です」と言えなかったのは、金子をうまく説明できないと感じたからだった。私が金子光晴を知ったのは30年ほど前のことだ。ラジオで聞いた詩がとても面白かったので、翌日ラジオ局に電話をして何という本かを聞いてみた。ところが番組名も分らずに電話したので相手も答えようがなかったのか、調べようともしてくれなかった。

 作者が金子光晴である記憶しかない。詩の内容は「(自分の)チンチンはもう何の役にも立たない。立たないばかりか、放尿すらままならない」といったものだった。金子光晴の詩集を探してみようとまでは思わなかったので、それっきり忘れていた。つい何年か前に、何の弾みで覚えがないが、金子光晴を思い出してエッセイ集を買ってきた。反骨とか気骨とか、とにかく普通の人ではないように思われているが、確かにそうだけれど、ややこやしいかも知れないが普通の人でもある。

 竹川弘太郎氏が『狂骨の詩人』と題名をつけたのは、その生涯を見る限り、もっとも適した言葉なのかも知れない。私の父よりも17年近くも前にこの愛知県の地に生を受けた人で、こんなにも数奇な生涯を送った人がいたのだと関心を持った。今日の総選挙の結果を金子光晴なら何と評論するだろう。さて、そろそろ投票に行こうか。
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明日は投票日ですよ

2009年08月29日 22時41分17秒 | Weblog
 昨夜の民主党の決起集会は会場に入りきれないほどだった。動員されてきた人もいたのだろうけれど、自らの意思で参加した人も多かったようにも思う。そうか、この人は民主党の支持者だったのだと思う人が何人かいた。私の選挙を応援してくれた人もいた。私は、民主党が政権を奪取する前の集会を見ておこうと思って出かけた。そして、昨日書いたように、私を応援してくれた人が私と同じように熱狂的な拍手の中でジッと小さくしているように見えて寂しかった。

 選挙は勝った人は堂々としているが、負けた方は居場所がない。私と争った現市長は民主党候補者の応援演説を行った。自民党と民主党の推薦をもらったのだから当然、お返しのために応援しなくてはならないだろう。市長はきっと、自民党の決起集会でも候補者を讃えて「ぜひとも当選していただきたい。私も一生懸命で応援させていただきます」と挨拶していることだろう。私はそういうことが出来ない。争っている政党の両方にいい顔は出来ない。「それができない人は政治家にはなれないわよ」とカミさんは言うが、恐らくそうなのだろう。

 民主党の候補者が党の政策をとくとくと説明していた。その中で私は「それは違うだろう」と思うものもいくつかあった。民主党は「子ども手当てを月額26,000円支給する」と言う。別に反論する気はなかったけれど、出生率が低いことに触れ、子どもが多く生まれないと老後の保障が出来なくなると言う。そしてまた、個々の家庭に直接手当てすることで経済成長を促すとも言う。経済の成長なくしては老後の安心も暮らしの安定もないと言うのだ。

 それは私の考えとはまるっきり違う。人口は減るけれど、私はそれをマズイとは思わない。むしろそうあるべきであるし、そうなっていくだろうと思っている。このまま人口が増え続けてもそれを支える智恵がまだ人類には備わっていない。今、人類は先進国を中心に人口減少にあるけれど、それは歴史が求めていることのように私は思っている。人類が増え続けてもいいような世界にするための時間稼ぎなのではないかと思うのだ。

 品物を造っても売れないと嘆いているが、買う人が少なくなれば当然だろう。けれども、造る人も少なくなるのだからプラスマイナスはゼロになっていくだろう。生産は縮小するけれど消費も縮小するから、別にこれまでと変わりはない。これからは右肩上がりの経済ではなく、右肩下がりの経済でよいのだと考える経済の仕組みが生まれてくるはずだ。なのに、民主党の候補者は右肩上がりの経済を目指すと言う。これではダメだなと私は思っている。

 今日のテレビを見ていると、麻生さんはワイシャツ姿で燃えているのに、鳩山さんはいつも背広姿で、言っていることは「政権交代」ばかりだ。まるで与野党逆転の映像が流れている。恐らく明日の投票で、民主党政権が実現するだろう。今朝も本屋で、私の選挙を応援してくれた人に偶然に出会ったけれど、選挙の話ばかりだった。彼は「政権交代は絶対に実現しなくてはならないけれど、民主党に期待していいのですかね。とりあえず民主党に政権を握らせて、それで悪ければ取り替える、そういう時代をつくることなのですかな」と言う。

 NHKテレビで今、『再生の町』を見ていて、なかなかいい言葉だと思ったのに、メモしていなかったので思い出そうとしても出てこない。来週もぜひ見たいと思ったドラマだ。
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政権交代を実現しよう

2009年08月28日 22時25分36秒 | Weblog
 昨日から、クシャミの連続である。鼻水はポタポタと流れ落ちてきて、頭がボーとしている。25日・26日と連続して酒を飲みすぎて体力が落ちているのだろう。アレルギー反応が顕著に現れてきた。まず左目が痒くなり、今度はクシャミと鼻水である。いつもなら9月半ば過ぎに表れる現象であるのに、今年はいやに早い。それにこのところすっかりアレルギー反応が起こらなくなっていたから、もうてっきり卒業できたと思っていた。

 うだつが上がらないというわけでもないが、26日は関市の隣の美濃市へ出かけた。うだつの上がった町並みを見学するためである。「思ってよりもいいね」と言ってもらえたのも嬉しかった。まず、旧家今井家へ行く。平日だというのにたくさんの若者が見学に来ていた。若者たちの会話を聞くと中国語である。案内役の人に聞くと、「この人たちは美濃市で働く中国人だが、街のことを知ってもらうために見学してもらっている」と教えてくれた。ついでにこの人に屋敷の中も案内してもらった。

 カミさんは外で、この町のお年寄りに捕まって話を聞いていた。「何の話だった?」と尋ねると、町並みを観光資源として残すことはいいけれど、保存が大変であることの愚痴が中心だったようだ。確かにヨソから来た人は古い町並みに心惹かれるかも知れないが、そこに住んでいる人にとっては大変であろう。どこでも古い町並みを残すことに力を入れているが、そこの住民が納得できるような活用方法を考えなくてはならない。

 美濃市は紙の町である。美濃和紙あかりアート館もなかなか見応えがあるし、少し離れすぎだけれど、和紙の里会館も見応えのある施設だ。紙すきが体験できるのもいいと思う。3館とも美濃市の管理だが運営は民間に委託されているようだ。夏休み中とあって、子どもたちが紙すきの体験をやっていたし、紙工作にも挑戦していた。私たちの女性は折り紙に挑戦していたけれど、なかなか手順どおりにやってもできなくて、女性職員の指導を受けていた。「市職員なのですか?」と聞くと、「派遣です。市の方は奥に3人みえます」と言う。帰りがけに奥の管理室を見ると何もやることがないのか、パソコンに向かって微動もしない男がいた。

 日にちが変わって今日、民主党候補の決起集会に参加した。私の友だちは私ではなく保守を推薦した民主党を非難して参加しないと言う。会場へ行ってみると知った顔がたくさんいる。私と選挙で争った現市長も来ていて挨拶していた。私を応援してくれた先輩もいた。ものすごくたくさんの人が来ていたが、政権交代に期待を賭けたのだろう。盛り上がった舞台を見ながら、私は私のために応援してくれた先輩たちに申し訳なかったと思った。私が市長になっていれば、こうした華やかな場面で大きな顔でおられたものを、私を応援したばっかりに本当に申し訳ない、そんな気がした。

 戦後初めて本格的な政権交代選挙となるのか、30日の投票日は注目するところだ。
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小瀬の鵜飼い

2009年08月27日 21時10分40秒 | Weblog
 25日は関市にある小瀬の鵜飼いを見に行って来た。関市は刃物の街、関鍛冶伝承館や濃州関所茶屋を見て回るつもりだった。刃物会館で尋ねると「今日は休館日だ」と言う。刃物会館は商工会館を兼ねているようで、ここでも地元の刃物製品が展示してある。職員の人は会館の前にある「フェザーミュージアムも今日は休館日ですよ」と気の毒がる。

 「関の名物のうなぎを食べたい」と話すと、「どこか希望があるか?」と聞くので、「可児市に支店がある店を教えて欲しい」と言うと、「そこは凄く混むから早く行かないと食べられない」と言って場所を教えてくれた。「11時から店は開くから10分前の今なら丁度いいからすぐに行け」とも言う。ところが店に着くと、「24日と25日は臨時休業させていただきます」と張り紙がしてある。

 会館に戻って先ほどの親切な女性職員に「休みだった」と言うと、「そんなはずはない。あそこは月曜休みだから」と言って、わざわざ電話をして確かめてくれた。「やはり休みですね。じゃあ、ここがいいでしょう」と次の店を地図で示してくれた。関に来たからにはうなぎを食べようと決めていたので、早速教えられた店へ出かけていった。ところがこの店も休業日だった。付いていない時はこんなものだ。

 うなぎを食べようと決めていたのに食べられないとなると、ますます食べたくなった。何だか食べられないことが悔しいのだ。そこで街の中を右往左往していると、丁度うなぎの看板があった。しかし、その店は尾張地方にもあるチェーン店だ。「うどんでもいい」とか「喫茶店でランチでもいいじゃない」とかの声も上がる。いや絶対にうなぎを食べよう。ここに賭けた。

 うなぎは出てくるまでに時間がかかるが、7人もいると話が弾み、気にならなかったこともよかった。夫婦ふたりでやっている店であったが、うなぎはうまかったし、ご飯も美味しかった。うなぎは余り脂っこくなく、タレもよい出来であったし、焼き方も丁度よかった。ナビ役の私が道を間違えたことがかえって幸いしたのだ。付いていない時に運が向いてきたのかもしれないと何でも良いように考えるのが私流である。

 ホテルのすぐ側に弥勒寺遺跡があり、金堂跡や塔跡などを窺い知ることができる建物の土台となった石が並んでいた。その山道を登っていくと円空の墓があり、尾根の向こうには円空会館があった。余り客が来ないのか、男女2人の職員はテレビを眺めていた。なかなか立派な建物であるし、もう少し何か活用の仕方はないだろうかと、他人ごとであるのにまた余分なことを考えてしまった。

 ホテルはリニュアルしたばかりできれいだったし、料理も美味しかった。鵜飼いも以前見た長良川鵜飼いよりも親切でゆったりしていて良かった。それにしても、鵜はあんなに一生懸命に働いてかわいそうだ。私たちはカラオケをしたり、部屋でお酒を飲んだりと、のんびりと楽しませてもらったが‥。
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高校野球の決勝戦

2009年08月24日 23時51分12秒 | Weblog
 静かな選挙戦だと思っていたが、地方議会議員の選挙ほどではないけれど、いや結構まめに街宣車がやってくる。聞いていて驚いたのは、自民党の若い候補者は相手が民主党のベテラン候補者とあって、「政権交代ではなく、世代交代を!」と訴えていた。「税金の無駄遣いを断固としてなくさなくてはなりません」とも言っていた。「国会を変え、政治のあり方を変えていきましょう」というようなことも言っていた。自民党という前置きがなければ、民主党候補かと聞き間違えてしまう。

 「民主党に政権が渡るようなことになれば混乱する」とか「実績のない民主党は政権運営が出来ない」とか「北朝鮮がミサイルを撃ち込んでくるかもしれない時に、国連決議にも従わないような政党に防衛を任せられますか」とか、民主党への批判はエスカレートしているけれど、「オオカミが来るぞ」のような、危機や恐怖を煽る言葉ばかりだ。自らの政策が正しいのであれば、なぜ正しいかを主張する方が説得力があるのではないだろうか。かつて野党に対して「反対のために反対している」と批判をしてきたが、劣勢の今はすでに野党になりきっているのだろうか。

 どうやら今回の国政選挙は民主党が勝利し、政権交代が実現しそうだ。本当にそうなるのだろうか。そう思いながら、高校野球の決勝戦を見ていた。1回に中京が2点を先取し、やはりこの試合は中京の勝利かと思った。ところが2回、3回で文理が1点ずつ取り、同点となった。さすがに決勝戦だ。これは打ち合いの試合展開になりそうだ。しかし、中京の投手は打者としても活躍できたが、文理の投手はいい当たりをしたのに中京の外野手にこれ以上のプレーはないと思われるような好捕をされた。この辺の微妙な心理が投球に出たのだろうか。

 10対4になって、もうこれで試合は決まったように思った。どうあがいてもこの差を埋めることは出来ないだろう。そう思った。9回の表、2アウトでボールカウントは2-3だ。あと1球で終りだと思った。それで、ちょっと目を離したところ、1点が入った。えっ、そんなことが起きるの?と思ってみていると、10対9までこぎつけた。何と言う粘りだろう。決して諦めない、凄いプレーだ。しかもカウントは2-3からが2回も続いた。守る中京も嫌な気持ちだっただろう。

 優勝に輝いた中京の投手が、ヒーローインタビューで泣いていた。勝ってて嬉しかったけれど、それ以上に悔しかったのだろう。中京の選手は実によく戦った。そして文理の選手はもうダメだという気持ちにならないところが凄いと思う。「感激した」とメールが来たけれど、高校野球は本当に凄いなと思い。私は明日と明後日は長良川鵜飼いに出かけるので、ブログを休むが、高校生の我武者羅さはもうすっかりなくなっているな。
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空は秋模様

2009年08月23日 19時53分16秒 | Weblog
 夕方になって、随分と涼しくなった。空も秋模様だ。私の部屋からは西の空がよく見える。養老山脈と伊吹山との間は低い谷になっている。関が原である。その谷間に、太陽が沈んでいくのだが、今日は夕日がきれいだった。そういえば、いつの間にかセミの鳴き声が途絶えた。寺の住職に言わせれば、「今年はセミが多かった」そうだ。夜中でもあんなにジージー、シャーシャーと鳴いていたのに、何時からかすっかり聞こえなくなった。

 セミの鳴き声が途絶えた夜、耳をすますと、リーンリーンと虫の音が聞こえてきた。我が家は地上30メートルのところにある。ベランダに幾鉢かの植木鉢が置いてあるが、そこに虫がいるようには思えない。それでも以前、たくさんの植木鉢を置いていた時は、どこから来るのか分らないけれどキリギリスがいたことがある。植木鉢に飛んで来たのか、それともマンションの庭で鳴いているのだろうか。

 秋は確実にやってきている。カリカリと照りつけるような真夏日を感じないままにもう秋が近づいてきている。時間の流れは正確で着実だ。私の親しい友人や知人も、久しぶりに出会うと驚くほど痩せていたり元気がなかったりする。人の一生は必ずしも元気な人が長く生きではないけれど、それでも急激に痩せたり元気がなかったりすると、なんとなく心配になる。心配したところで、どうにかなるわけではないし、考えるのは止めておこう。

 今朝は早くから井戸掘りに出かけた。昨年から何度も挑戦している家の庭だけれど、どうしても成功しないところだ。4メートルほどのところに硬い粘土層がある。これを掘り進めるための道具を手作りで造った。自動車のシャフトを利用して小さな力を大きな力に変え、錐のような道具も造って、これを先端に備えて掘り進んだ。粘土層は掘れたけれど、その下に石があるようで、錐の先がつぶれてしまった。

 今日は、それならば槍のようにした鉄管を打ち込んでみようというのである。しかし、鉄管を打ち込むための滑車がうまくいかなかった。再び挫折である。こう何度も失敗を重ねると、「もうダメじゃないのか」という気持ちになるものだが、多分、ひとりでやっていたならばいい加減なところでギブアップだ。ところが何人かでやっているので、「こういう方法でやってみたらどうだろうか」というアイディアが出てきて、なかなか諦め切れない。執拗に執着するのは年寄りの良いところなのかも知れない。今日はダメだが、もう一度やってみようということになった。

 家に帰るとカミさんがボーとしている。「また車を傷つけてしまった」と言うのである。傷そのものはたいしたことではないが、傷つけたことがショックのようだ。先日も長女のところから「鍵がない。持っていかなかったか?」と電話してきた。結局は持っていた紙袋に入っていたけれど、なぜか近頃はこんなことが多いとぼやいていた。いや、そんなことはないよ。前からそうだったよと言うべきかと迷っている。
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「まちづくりの原点」

2009年08月22日 22時43分07秒 | Weblog
 「行政というのは、肥大化はどんどん出来るんです」と高浜市長の森さんは言う。「行政マンは後追い型なんですね。後からやれば失敗はないわけですから」と行政職員の資質を分析する。私も議員の時によくぶつかったのは、行政の幹部たちの「失敗しない」あるいは「行政の維持」という考え方であった。「失敗しない」ためには先駆けしないことである。

 何時だったか、こんな話を聞いたことがある。職員の提案に対して幹部は「それでお前は責任が取れるのか?」と聞いたそうだ。提案が市民のためになるなら、「オレが責任を取るからやってみろ」と言うのが上司の立場であろう。地震に対して不十分だから役所を建て直すべきだと幹部は言う。阪神淡路大震災以前の鉄筋コンクリートの建物だが、市内の建物の中では耐震という点ではトップの類だろう。「庁舎がつぶれるようならば、市内の建物のほとんどがつぶれてしまう。そのための救済の方が必要ではないの?」と言えば、「庁舎がつぶれてしまっては救済も出来ませんよ」と言う。

 庁舎などなくてもテントでいいじゃないか。市民が安全とは程遠いところで働き生活しているのに、自分たちだけが安全な庁舎で仕事をするのか。避難所になっている学校や公共施設の安全確保が先決ではないのか。そもそも行政とは何か、考えたことがあるのだろうか。私は、行政というのは市民の代わりに仕事しているので、行政はまず何よりも市民を第一にしなくてはならないと思う。極端に言えば、市民を守るためにわが身を犠牲に捧げられる人が行政マンだ。

 もちろんそれは覚悟であって、何も市民の言いなりになる必要はない。高浜市長の森さんが言うように、「住民が出来ることは住民に任せればいい」わけで、それでは行政マンは不要なのかと言えば、不要になるくらいに市民自治が高まれば確かに行政に携わる人の数は少なくなるだろう。議員も同じで、情報公開の徹底と市民参加のシステムが出来上がれば、市民が自ら行政をチェック出来れば、不要だと私は思っている。市民が提案できる組織とチェックできる組織があれば行政の形は大きく変わる。

 森市長が言うように、小学校単位の自治組織コミューンが機能するようになれば、市民自治はうまくいくかも知れない。「権限とそれを保障する財政は切り離せない」と森市長は指摘する。財源は限られているわけだから、これをどのように使うかは、税を支払った市民が自ら決めるのであれば、不公平感は少なくなるだろう。中身がはっきり分っていれば、痛みを分かち合うことも出来る。「経済成長政策が大事」ではなく、成長しなくてもまた逆に成長しても、税をどのように使うかをみんなで決める仕組みをつくることだろう。

 「最終目標は住民自治」と森市長は言う。私たちもそう考えてきた。森市長は20年間、市長を務められてきたけれど、高浜市はどれだけ住民自治が進んだのだろう。しっかり検証し、次につなげていきたいと思う。「無党派・市民派自治体議員と市民のネットワーク」の第10回公開講座『まちづくりの原点』は、60人ほどの参加者があり盛会だった。
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寺コミュニティ

2009年08月21日 20時12分01秒 | Weblog
 私の後、地域新聞の編集長を務めている女性が「難病?」のようなので、心配している。17日に手術と言っていたが、ブログは更新されているので、きっとそのうちに現場に復帰してくるだろう。ちょっと変わった女の子だったけれど、編集長となってからの彼女は、ブログで見る限り「普通の編集長」である。私と一緒に仕事をしていた時はまだ若かったせいか、お酒を飲む機会はなかったけれど、最近はよくお酒を飲んでいるみたいだ。取材ではそんな機会はないから、たまたまお付き合いが広がったのだろう。

 私は「取材ではまず、相手の話に感心することだ」と説いてきた。この人は素晴らしいという気持ちで取材に当たれば相手は心を開いてより多く話してくれる。次に、テレビでは記者たちがマイクを突きつけて録音しているが、地域新聞を担う私たちは「取材ではノートを使って書き込むこと」と教えてきた。その場で自分が書き込むことで、何が自分の心を揺さぶったかが分る。取材ノートを眺めながら記事が書けないようなら、記者としてはもっと腕を磨かなくてはならない。

 大新聞の記者なら、「取材に来てやった」でも成り立つかも知れないが(大新聞には意外にそういう記者がいるが)、私自身はそういう記者を「バカモノ」と思っている。地域新聞は地域に密着した新聞だから、そんな態度では取材など出来ない。ましてや記事を書くだけでなく、広告も地域の店や企業からいただかなくては存続できない。こんなに素敵な人がいると光を当てて紹介し、そうすることで地域全体の文化を高める役割の一翼を担うことが地域新聞の役割だと考えてきた。

 今日、若い寺の住職からこれからの寺の役割は「寺コミュニティではないかと思っている」という話を聞いた。団塊の世代である住職は、葬式仏教の現状に危機感を抱き、寺での法話やコンサートを開き、地域活動に寺を開放するなど、斬新な活動を展開している。「けれどもなかなか周りに開かれていかない」と嘆く。活動の担い手は寺の檀家たちというよりも遠くの人が多いと言う。日本人の性質からそういうことはどこでも見られるから、寺の有り様を変えていくことを先行させた方がいいと思う。

 寺には広い境内があり、そこには豊富な緑がある。人々が気楽に集える公園の要素を持っている。広い本堂があり、幾部屋もある書院や庫裏がある。西洋の教会が人々の集会の場であるように、寺もまた地域に開放された施設であるべきだろう。戦国時代に、寺は軍事的な要塞の役割を担わされてきたけれど、本来の寺は人々の救済の場であったはずだ。観光地の寺のような「見せる寺」ではなく、地域の公園であり公民館であるような、そんな「寺コミュニティ」が出来上がっていくと面白いと思う。
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来年は50回忌

2009年08月20日 22時34分51秒 | Weblog
 お墓参りに行った時に、姉が「来年はお父さんが亡くなって50年になるから、そのことをみんなに言わなくてもいいかね」と聞いてきた。私は親不孝者で、自分の父親が何年何月何日に亡くなったのか、覚えていない。父親の誕生も明治42年なのか、44年なのか、自信がない。母親についても全く同じで、正確な日付を知らない。知ろうとしなかったというべきかも知れない。特に知りたいという気持ちがなかったのだ。

 父の死は高校3年の1月、3学期が始まるとすぐだった。隣の部屋で妙に咳き込んでいたので、「どうした?」と声をかけた時は、父の意識はもうかすかなものだった。翌朝、医者が来て診察していったけれど、入院もかなわない状態であった。それから3日目だったか、4日目だった。不思議だった。涙は少しも出なかった。長いこと苦労して、いや実際に苦労などはなかったかも知れない。父がどんな人生を歩いてきたのか、私は何も知らなかった。

 父が残した日記を読むと、なんとまあ世間知らずの人かと思う。小学校の校長で退職したけれど、その退職金は家業である材木屋の資金繰りに全部注ぎ込んでしまった。無理やり自分の代わりに跡継ぎにさせた兄を不憫に思ったのだろうか、それとも自分が手助けすれば家業は上向くと思っていたのだろうか。父も兄も、世の中に悪い人はいるはずがないと思っているようなお人好しだった。材木屋のような大きな金が動く商売など出来るはずのない人だった。好きだった本を売る書店が一番似合っていたのに、父は日記で、自分が息子を助けて店を立て直すと書いているから、世間知らずとしか言いようがない。

 父は夢を追う人だった。校長室の花瓶に新しい花が生けてある。「あなたが生けてくれたものだとすぐに分りました。運動場からあなたの軽やかな声が聞こえてきます。小鳥のさえずりのように美しい声です」。馬鹿らしいくらいにのぼせている。この文章から確かに父はこの若い女の先生に恋していると思う。私は知らなかったけれど、姉の話では父と母との間は「それはもう大変だった」というが、家ではそんなことは全く感じなかった。感情の激しい母だが、父を嫌っている様子はなかった。母がガンに侵され、苦しい闘病生活を強いられることになると、父は献身的に看病していた。たとえそれが、母に免罪を求める気持ちからであったとしても、私は父を尊敬している。

 問題は姉が「50年になる」と言うその意味だ。50回忌で仏事は完了するらしいけれど、墓参はもともと口実に過ぎないから、みんなが集まる機会は残しておいた方がいい。姉は来年を最後にしたいと考えているのだろうか。それとも自分自身が来年を最後と思っているのだろうか。まだまだ、母のことも父のことも姉から聞かなくては分らないことがある。姉の知っている父や母のことを語って欲しいと思う。
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