押入れを整理していたら昭和37年11月7日付けの朝日新聞(夕刊)が出てきた。2面に『声』の欄があり、そこに私の投書が載っていた。『高校教師にお願い』という題で、「高校の教師とは一体いかなる者なのであろうか。校長は『学校は病院のようなものであって、教師は医者に相当する』と言われ、生徒は患者であると決めつけられた」と始まる。「僕たちは患者じゃない。が、もし患者であるとするならば、その原因は医者の患者を見守る愛情の少なさにある」と述べ、「高校の教師はどうしてもっと一人の人間として、一個の人間である僕たちに愛情を示してくれないのか。もし入学試験という社会の制度が高校教師を愛情のない生産機械にしてしまっているならば、僕はそういう社会を憎んでやみません」と結んでいる。
朝日新聞の11月30日付け『11月の投書から』というコーナーに、『高校教師の愛情問題で論議』とあった。「高校生の投書が教師、学生、父兄の反響を呼んだが、結局は先生の生徒に対する愛情を疑うべきではないとの結論に落ち着いたようだ」と評してあった。大学入試制度が問題だと指摘したつもりだが力不足だった。この1年前の昭和36年2月の高校新聞に、校長の『卒業生に送る辞』をトップで載せたがその隣に、『論説』として『同校生の萎縮』を掲載した。この記事が校長の逆鱗に触れ、編集長の私は校長室に呼びつけられた。前述の「学校は病院のようなもの」と言われた校長だから、呼びつけた生徒を重症患者と思われたのだろう。
患者にされてはたまらないし、そもそも病院こそ機能が低下していると指摘しようということになった。新聞の名前を『理想』、発行者を「理想の会」と決め、校内ではマズイというので学校の外で配布することにし、賛同者を募った。6百円1人、3百円7人、2百円1人、1百円6人で計3500円集まった。知り合いの印刷屋に頼み、昭和36年8月に第1号を発刊した。しかし、「先生らに隠して行動しても何の効果もない。生徒の中にもこんなことを考えている者がいると認識させただけで、学校側には何の影響もなかった」と言う仲間もいて、第2号を翌年の2月に発行して終わった。印刷代は3000円と3500円だった。その記録のノートも出てきた。
明日は雨が降っても降らなくても、「桜の宴」なのでブログは休みます。