友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

宇宙が膨張しているって!

2011年10月31日 18時45分08秒 | Weblog

 宇宙は急激に膨張しているそうだ。地球は急激に温暖化していると言われれば、世界的に異常気象が伝えられているからそんな気もする。でも、どんなに空を眺めてみても宇宙が膨張していることは分からない。そもそも膨張していると言うのは、何かを基準にしているのだろう、どこからどこへ膨らんでいるのだろう。膨張しているその外はどうなっているのだろう、何があるのだろう。最近、よく新聞などに登場してくる東京大学数物連携宇宙研究機構の村山斉さんの『宇宙は何でできているのか』(幻冬舎新書)を買ってはみたものの、まだわずかしか読めない。

 

 この世の中で一番小さいものが素粒子で、これを原子と考えてきた。ところが原子にも内部構造があり、原子の中心には原子核がありその周りを電子が回っている。そしてさらに、原子核にも陽子や中性子といった内部構造がある。この辺りまでは中学か高校で教えてもらった。その次に、カミさんの同窓生が研究してノーベル賞をもらった「クォーク」と呼ばれるいくつかの粒子によって、陽子も中性子も形づくられていることが分かったそうだ。この素粒子の研究と宇宙の研究はつながっている。『宇宙は何で出来ているのか』の序章の部分である。

 

 「宇宙に行ってみたい」と言う人もいるけれど、私はあまり興味が無い。きっと高所恐怖症だからだろう。地球から「青い空はなんと気持ちがいいか」と眺めていた方がいい。宇宙基地づくりなど馬鹿らしく思っている。莫大なお金をかけて、地球からほんのわずか離れたところに基地を作って何の意味があるのか分からない。折りしも今日は地球上の人口が70億人となるという。地球に住めなくなった人類が宇宙を目指していくのだろうか。マンガだねえと思ってしまうけれど、逆に孫たちのことを考えると、私が無知であって欲しいと思う。人類はこの地球でしか生きていけないと私が思い込んでいるだけかも知れないのだから。

 

 宇宙のことも、素粒子のことも、よく分からないけれど、どうなっているのだろうかと興味はある。しかし、もっと興味があるのは目に見える現実であり、感じることの出来る「今」である。宇宙や素粒子も人が作り出したもの、もちろん作り出したのではなく、あったものなのだろうけれど、たとえあったものでも人が辿り着かなければ、あったことにはならない。デカルトではないけれど、「われ思う故にわれあり」ということか。人は生まれて生きて死ぬまでに、いろいろなことを考えるし、体験するが、何を一番求めるのだろう。

 

 新しいことの発見、自然や宇宙ばかりでなく人間の社会の真理や法則の発見、社会的な地位やお金を得ること、人々からの評価や愛情、愛しい人にめぐり合い愛されること、無償の愛に生きること、快楽こそが幸せ、家族の健康と幸せ、数え上げればもっとたくさんの生きる目的や目標があるだろう。毎日を生きるために生きることを誰が非難できようか。夢や希望にあふれて、ひたすら前進する人だけがこの地球を支えているわけではない。生きることに精一杯であることすら気付かずに暮らしている人々もいる。

 

 義理の息子たちが「厄年を迎える年に気をつけてね」とカミさんは言う。義父が亡くなったのが私の厄年だったからだ。「お父さんはあなたの厄をもって行ってくれたのよ」とカミさんは言うが、私は息子たちの厄を引き受けるだけの良い父親になれるだろうか。

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どんな時代になるのかまでは分からない

2011年10月30日 21時10分18秒 | Weblog

 雨の日曜日。それでも午前中は降り続くことはなかった。井戸掘りの後始末で動員があると聞いて待機していたが、結局何も連絡は入らなかった。昨日までに、行っておきたい所へは行き、11月3日の案内をしてきた。急に何もやることがなくなると、何だか寂しい。合唱の発表会に行けばよかったとか、生まれた町での紙芝居のお披露目と講演会へ出かけて行ってもよかったとか、なぜか後向きになってしまう。カミさんはゴルフを見ながら、「キャー」とか「入れ!」とか叫んでいるけれど、よくあんな風に試合と一体化なれるものだと感心してしまう。

 

 すると、「サトイモの皮をむいて!」と声がかかった。サトイモの皮むきは私の務めで、ゴルフの中継を背中で聞きながら黙々と皮をむく。カミさんの叔父がやっていた日本料理の店を手伝っていた時、サトイモの皮をよくむいた。上下を切り落とし、真ん中を少し膨らませた六角形にして、これをだし汁で煮て白醤油で味付けする簡単なものだ。サトイモの白さが際立ち、淡白だけれども美味しかった。今日のサトイモは料理屋が出すような粒揃いではないので、かえって手間がかかる。この近所の飲食店では、砂糖と醤油で甘辛くこってりと煮た田舎風のサトイモが人気だ。今晩のサトイモはそんな田舎風が似合っている。

 

 昭和20年代の生活に帰るべきだとか、もっと極端に江戸時代の生活をと言う人もいるけれど、人間は“ある”のにそれを使わない謙虚さを持ってはいない。でも逆に、なければ使わない。電気が無くなると騒がれ、みんな節電に努めた。中には車があるのに自転車通勤に変えた人もいる。何かの目的があれば、人は我慢して努力をする。しかし、自分が節電に努めているのに、隣の家では煌々と電灯が点いていると次第に馬鹿馬鹿しくなるだろう。それでも、隣りは隣りと思えるうちはいいが、自分だけが昭和20年代の生活を続けることには無理がある。アメリカに旅行した時、ロッキー山脈の中でポツンと暮らしている人がいた。電気も水道もないところにどうしているのだろうと不思議に思ったけれど、「好きだからですよ」とガイドは教えてくれた。

 

 世間と隔絶した生活を好む人はそれでいいが、数は少ないだろう。多くの人々は、人の中で生活しているから、出来る限り同じような生活をしようとする。商品に流行が生まれるのもそうした人の心理なのだろう。2歳の孫娘が我が家にやって来て、ジジババを相手に遊んでいても、高校2年の孫娘やその友だちがいれば、身近に感じるのかそちらへ行ってしまう。もっと小さな子どもがいれば当然のように自分に近い子どもに向かっていく。人は子どもの頃から安心できる場所を求めているのだろう。遊ぶ相手、世話をしてくれる人、優しい人、自分に関心を持っている人、そうしたことを一瞬のうちに見破っているのだろう。

 

 世界人口が急激に増えていること、先進国の人口は伸びていないことがテレビで話題になっていた。また、原子力発電の使用済み核燃料をどう処分するのか、目途が立っていないとも言う。そればかりか、点してしまった原子力の放射能が無くなるためには何千万年もかかるそうだ。とても私には理解できない先の話である。昭和20年代の生活も、そうなればもう意味が無いのではないかとさえ思う。私はもう充分に生きてきたからいいけれど、孫娘たちの時代はどうなるのだろう。高校2年の孫娘はそろそろ大学のことを思っているようだ。どこでも行けばいい。なんとかなる。私はそう思うけれど、どんな時代になるかまでは分からない。

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ガンバレ!新聞!

2011年10月29日 19時06分30秒 | Weblog

 今朝の朝日新聞に、アメリカの元新聞記者へのインタビュー記事があった。アメリカでは新聞社が減っていて、20年前には全米で6万人いた新聞記者が今では4万人しかいないと言う。アメリカには日本のような全国紙というものは存在しない。合衆国が誕生した時から自治意識が強く、地域によって法律さえ違っている国である。ローカル新聞こそが地域の情報源であり、人々が知る社会評論の器なのだ。新聞の仕組みはどこも同じで、新聞広告と購買に頼っている。日本のような宅配ではないようなので、好きな新聞しか買わないことになる。

 

 アメリカの景気の後退は新聞広告に大きく影響したようで、「広告収入はこの5年で半減した」そうだ。「新聞社はページ数を減らし、記者の賃金を下げ、記者の数を減らした」けれど、経営は改善されず、休刊や廃刊に追い込まれた。その結果、何が起きたかを米連邦通信委員会からの委託を受けて元記者は調べた。「取材空白域」が生まれ、公務員の不祥事、裁判所の仕事のたるみ、投票率の低下といった現象が起きていると指摘する。日本の場合と違って、ローカル新聞が果たしてきた役割を如実に物語っている。

 

 新聞は社会悪と戦う機関という意識がアメリカでは強い。社会悪への目は、不正や不公平ばかりでなく、教育や環境、医療や福祉など幅広い。「問題を取り上げる点でテレビは周知させることは巧みだけれど、自前ではあまり掘り下げない」が、新聞記者はコツコツと掘り下げると彼は言う。「この市の決算と議事録に不正がないか洗ってみよう」と思い立つのは新聞記者くらいで、「自治体の動きを監視し、住民に伝える仕事はだれも自費ではやれません」とも言う。

 

 実際にカリフォルニア州の小さな都市では、市の行政官(事務方のトップの人)が自分の年収をオバマ大統領の2倍にしてしまった。しかも市議会の承認も得ている。それは市幹部や市議をも抱きこみ互いに富を得てきたからだ。この市に記者はいない。情報も公開されなかったので、市民の誰も気付かなかった。情報の公開が徹底されていればと思うけれど、巧妙に操作されていたなら、市民が目を向けることは出来ないかも知れない。新聞記者なら絶対に出来るかといえば、絶対とはいえなくても経験とカンが働く可能性は高い。

 

 新聞販売店の店主が「新聞はなくなるだろうか」と以前、心配していた。新聞社も先を見越してペーパーでない電子新聞づくりに手をかけている。電子新聞になれば、今の宅配制度は不要になるから販売店はいらなくなる。チラシは形を変えるだろう。すでに地域では購読料のいらないフリーペーパーという新聞よりも冊子形式のものが増えている。情報はより求められるが、その手法は変わっていくのだろう。

 

 新聞が何よりも好きな私としては、何とか新聞に生き残ってもらいたいと思うけれど、そのためには新聞の個性が大切になるのではないだろうかと思っている。つまり新聞によって主張が異なり、その主張に共感する人が新聞を支える形になることだと思う。民主主義が育つためには情報の提供は絶対条件であるが、情報が公だけにしかないことになれば、議論の幅は狭くなる。だからこそ新聞の活躍する場面は大きいと思う。ガンバレ!新聞!

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大学祭で演劇を観る

2011年10月28日 19時33分01秒 | Weblog

 大学祭を覗いてきた。友人の娘さんが大学に入って、演劇をしているので見に行って欲しいと手紙をもらった。それで11月3日の大和塾のチラシを持って出かけた。久しぶりの大学際だ。以前に一度、大学祭の時に来たことがあるけれど、それも何のために行ったのか覚えていない。覚えているのはたくさんの屋台があって、人がいっぱい来ていたことくらいだ。私の子どもたちに大学祭を見せたくて行ったのだったかな?そんな気がしてきた。

 

 大学はどこでも門があって、敷居が高い。学生運動が盛んだった後、どこの大学も門を作り垣根を廻らして、社会から断絶した区域にしてしまった。他所の学生や社会人は入っていくことは出来ないし、大学生も大学は檻のように感じているのではないだろうか。私たちの大学の頃とはすっかり様子も違う。それでも大学の中に一歩入ると、壁や階段や廊下がなんとなく懐かしい感じられた。

 

 外れの校舎の3階に、演劇の会場はあった。観客席は30席くらいだろうか、一番前は座布団が置いてあって、座って見られる。教室の関係からかずいぶん横に長い観客席だ。イス席は2列で、その後ろは照明と音響の係りになっている。私は演劇を見ることはあっても機材は知らないが、それでも結構本格的な感じがした。出し物は『君は宇宙の夢をみる』というもので、脚本は劇団のみんなで作ったものだ。しかし、これがなかなかの出来栄えで見応えがあった。

 

 「無念巡礼!浮世限りのてんてこ舞い、一夜限りのくるくる舞い!思いは巡りくるくる回る、くるくるくるくる君がくる、今宵限りのきりきり舞い!」。幾度か歌舞伎の口上のように、あるいは呪文のように、唱えられるこの言葉が面白いし、舞台を集約しているようにも思える。幕末に流行った「いいじゃないか」と踊り狂う様にも通じるものがある。けれどもそんな退廃的なものではなくて、真摯に「愛」を追求している。

 

 そう、テーマは「愛」と言ってもよいだろう。脚本の下敷きになっているのは童話の「100万回生きたねこ」で、ピーターパンやかくれんぼやアンドロイドや長靴をはいた猫などが出てくるから、誰もが知っている子どもの世界を素材に、「何度も生き返るなはなぜか」と迫る。それは「本当に愛する人がいないからだ」、そんなセリフがある。また、「本当に一人ぼっちな人はいない」、こんなセリフもある。

 

 学生の演劇がこんなにレベルが高いものだとは知らなかった。余分な言葉や動作があったとしても、それらは回を重ねていくうちに淘汰されもっと洗練されていくだろう。この劇団ならばきっとそうなっていくと思う。新劇やミュージカルぽいところや、いろんな舞台が各所に見られるのもいいじゃーないかと思った。声はよく出ていたし、芝居の作り方もプロ以上だと思う。無料で見せるのがもったいないほどだ。

 

 鼻の形がすばらしくきれいな女優さんがいた。アンドロイドの役だったので、ずっと変わった形のメガネをかけていた。最後の舞台挨拶の時に、そのメガネをはずしたので目を見ることが出来たけれど、瞳が輝くように美しかった。大学の庭には、セラームーンの格好の女性や、さまざまな服装の女性や男性がいて、実に華やかだった。全部を見て回ったわけではないけれど、社会へのアピールを目的にした看板などはなかった。大学祭はすっかり変わってしまった。

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熱い思いがこみ上げてきた

2011年10月27日 17時08分32秒 | Weblog

 「マイクを2本、貸していただけませんか?」「何にどう使うの?」「ええ、1本は代表の挨拶なのですが、どこで話してもらうかもありますし」「まだ、そんなことを言っているのでしたら、止めた方がいいですよ」。えっ?ここに来て止めた方がいいって、どういうこと?どうしてこの方は相談に乗ってくれないの?皆さんにおいでくださいとお願いして回っているのに、止めることなど出来ない。「止めた方がいい」とは何という無礼な言い方なのか。私はムカッと来た。ぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。その気持ちを抑えるためにしばらく黙っていた。「止めた方がいいと言われてもねえー」と繰り返してみた。「催しを止めろと言ってるのではなく、そういう思い付きで言うのは止めろと言ってるんです」ときつい口調で言う。

 

 昨夜はリハーサルで、私はホールの担当者といろいろ詰めるものだと思っていた。すでに1ヵ月半ほど前には進行の台本を渡して、「あなたは照明のプロだから、お任せした方がいいと聞いていますので、よろしくお願いします」と話している。それが「マイクが2本必要」と言い、「当日は反響板を降ろしてください」「照明はどうするのですか」と言ったことが、「そういう思い付きで言う」ことになると理解できなかった。彼にすれば、ホールでオペラを上演するというのに、今頃になって、マイクがどうの、反響板がどうの、照明がどうの、そんな素人のようなことを言うな、ということなのかも知れない。渡した進行台本を見てプロと思ったのかも知れない。けれども、残念ながら私たちは始めてホールを使う。素人には使えないということなのか。

 

 「ですから、前もって進行台本をお渡しして、教えていただこうと思って来ました」「あんなものは何の役にも立ちません」「いや、そうであるなら、あなたの方から“ここはどうするのか”と言ってもらわなければ、私たちにはさっぱり分かりません」「だから、何がどう必要なのか、キチンと言ってください」「マイクは2本要ります」「それから!」‥。どうして、叱られているような状態で話さなくてはならないのか。ここは公共の施設で、私たちは納税者で、話している相手は施設の職員、たとえ派遣会社から来ている専門の方だとしても、市民にサービスする側にいる人である。ホールを借りに来る人はみんながプロではないだろう。いいやむしろ、プロならツー、カーで打ち合わせは出来てしまう。よく分かっていない一般市民の、わけの分からないことの相談に、彼のような専門の方が知恵を貸してくれてこそ、催し物を成功させる力強い存在となるはずだ。

 

 腹を立てて喧嘩しても私たちの5周年記念事業は成功しない。最悪の状態にならないためには彼に頼るしかない。結局、舞台の照明についてはオペラの原作者に彼と話してもらい、自前で用意してもらうことになった。その他の手配については、私の「生涯の同志」が彼と話して決めてもらった。私は日頃はそんなに腹を立てる方ではないけれど、こういう彼のようなタイプの人とはうまく付き合えないので、接触を避けることにした。けれども、感情が昂ぶって、なにやら闘志がわいてきた。ああ、うつ状態にある、などと言っていた気持ちが吹っ飛び、絶対に大和塾5周年記念・第23回市民講座「ひとりオペラ 異聞道成寺縁起」を成功させるぞと、熱い思いがこみ上げてきた。そして恐ろしいことに、成功した暁には‥とますます興奮して眠れなかった。

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生まれ育った町のこと

2011年10月26日 22時46分18秒 | Weblog

 今朝の朝日新聞に、「童話『目ぐすり』紙芝居に」という記事が載っていた。童話作家の森三郎の生誕百年を記念して、代表作のひとつ「目ぐすり」を紙芝居にして30日の講演会の後で上演するとある。私は知らなかったけれど、森三郎さんは私が生まれ育った町の人で、子どもの頃から童話を書き、21歳から児童雑誌『赤い鳥』の編集に携わり、新見南吉らと共に活躍したとあった。明治44年生まれだから、私の父と同年である。父もなにやら童話を書いていたけれど、そういう人が私の町に居たのだと思うとなぜか誇らしい気持ちになった。新聞記事を読んでいくと、紙芝居を描いたのは、私が中学生の時の美術の先生だった。

 

 そんな時、高校2年の孫娘のために買った、しかしまだ孫娘は1冊も読んでいないけれど、全集『中学生までに読んでおきたい日本文学』の「悪人の物語」に森銑三著の作品が2点載っているのに出会った。偶然にも出身は同じ町で、作者の紹介に「図書館臨時職員、代用教員、雑誌記者などの職を経て、一時期、東京帝国大学史料編纂所に勤めたが、おおむね独学で近世学芸史を研究した。(略)軽妙な文体でつづられた江戸や中国の小話や怪異物語も得意としていた」とあった。私はとっさに今朝の朝日新聞の人だと思ってしまった。しかし、名前が違う。生まれた年を見ると1895年とあり、亡くなったのは1985年とあるから90歳である。長生きなのだと変なところに感心したが、二人の関係は親子なのだろうかと思った。

 

 私の生まれ育った町は小さいながらも城下町だったから、そういう文化人が輩出されたとしても不思議ではない。私が教えてもらった大学の先生はこの城の家老の末裔だったし、私が7歳まで住んでいた家の隣も重臣の子孫だった。近代絵画では有名な河原温氏や同郷ではないが同じ高校の卒業生には、私の中学からの友だちが敬愛する外山滋比古氏などもいる。森氏も同じ高校の卒業生なのかも知れない。今ではすっかりトヨタの城下町の風情しかないけれど、私の小さな時の記憶では城下町の面影が残っている町だった。お城の周りには堀があり、天守閣こそなかったけれど、天守閣のあったところには料亭が建っていた。堀の東側が私たちの小学校だったけれど、きっとこの辺りも城郭のひとつではなかったかと思う。

 

 私の家は材木屋だったが、私が二十歳になる頃に破産してしまっていた。行き場がなくなった私を引き取ってくれたのが私の大学の恩師で、私を離れに住まわせてくれた。先生の子どもたちの勉強を見て、先生の書生として車の運転をしたり家の掃除をしたりして、お小遣いをもらっていた。先生のお父さんは町の首長を務めた人だった。私の祖父が議員をしたこともあってか、「あんたは孫さんか」と親しく声をかけてもらった。先生のカミさんは東北の人だった。確か、仙台の呉服屋さんの娘さんではなかっただろうか。モダンガールだったのか戦後に流行った女性スタイルだったのか、いつもタバコを吸っていた。私を子どものように可愛がってくれたのに、何一つ恩返しも出来ないうちにふたりともあの世へ旅立ってしまった。

 

 私は21歳になる時に、先生の勧めで東京へ出たが、それ以来生まれた町から離れて暮らしている。墓はまだ町にあり、お盆には墓参りをするけれど、生まれた町に残るものはそれしかない。材木屋だったところはもう何もその面影がない。わずかに父や兄そして私が通った高校の正門だけが当時を思い出すことの出来る。母校から同窓会への寄付のお願いが来ていたけれど、その封筒すら見当たらない。思い出は多くあるけれど寄付するほどの良き生徒ではなかった。

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自然を変えることは出来なくても、人には出来ることがある

2011年10月25日 20時57分23秒 | Weblog

 国の原子力委員会は原発事故にかかるコストを1キロワットあたり1.2円と発表した。これには除染費用は含まれていないと言う。異論もあって16円になるという試算もあった。なんと馬鹿馬鹿しい委員会なのだろう。原子力委員会は原発事業を進める立場にあるからだろうけれど、わざわざ単価を計算して見せて納得させようというのだろう。原発は事故が起きれば人が住めなくなるし、特定の地域だけに被害が留まるとは断言できない。今回の福島原発では何千人、何万人という死者は出なかったけれど、それが起こらないと誰も言えない。原子力発電で使われた核燃料も完全に処理することも出来ない。重大な事態になる前にやめるべきだろう。

 

 今、地球全体でいろんなことが起こっている。温暖化も人口増加も経済の世界的な規模での停滞もある。脱原発社会へ向かうことなら、人類の英知で何とか実現できるだろう。経済活動の停滞も解決できるかも知れないし、破綻へ向けて時間を稼ぐことくらいならできるだろう。人間に出来ることなど微々たるものなのに、人間は自分で自分を制御できない。権力を手中にしたオバマ大統領も日本の民主党政権も、思い切った改革など出来ない。それが現実が持つ力なのだろう。若い時の私はそれが許せなかったけれど、一気に突き進むことはない、むしろ急がない方がいいのではないかと思ってしまう。

 

 声を上げなければ、社会は現状維持に甘えてしまう。「これはおかしい」と気づいた人は声をあげなければ進歩も改革もない。「みんながその気になって一気にやらなければ、改革は進まない」。そう考える人々が増えてきた。「時には独裁者が必要だ」などとまで言う人もいる。大阪市長選挙に立候補した橋下徹元知事も「強い力」を求めている。権力を集中させていったい何をすると言うのだろう。日の丸を掲げ君が代を歌わせる、そうした「統制力」こそが政治の力だというのであれば、それは大きな間違いだと思う。いろんな人がいて、いろんな意見があってこそ、健全な社会だ。意見がひとつにまとまるのに時間がかかりすぎるからと言って、強権的にまとめてしまうのには絶対に反対だ。

 

 国家の機密文書を内部告発してきたウィキリークスが資金難のために活動停止に追い込まれた。代表を性犯罪者に仕立てたりしたが、とうとう権力は金融を動員して資金の封鎖を行ってきた。ウィキリークスがこのまま崩壊されてしまうことはないと思うけれど、政治は敵対するものは決して許さないことを証明している。インターネットは誰でも自由に発言できるから、人類はここで初めて本格的な発言の自由を実現した。しかし、権力はあくまで情報を管理下に置いてしまいたいのだ。

 

 99%の貧しい人々と富を独占している1%の富裕層のアメリカは、普天間問題の早期解決を迫っている。沖縄は面積も人口も1%しかないのに、米軍専用施設の74%が集中している。どうして沖縄がこんなに負担を負わなくてはならないのかと島民が言うのは当然だろう。どこも引き受けない負担がなぜあるのかと言えば、安全保障政策があるからだ。国を守るために、沖縄に犠牲を強いているのだ。それならば安全保障政策を放棄してしまえばいいと私は思う。世界中の人々が戦争はイヤだと思っているのだから、全ての国が戦争放棄を宣言すればいい。自然を変えることは出来なくても、これならば人間の知恵で実現できる。

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やっぱり面白いことを言う

2011年10月24日 19時12分19秒 | Weblog

 うつ状態になっている。膝が痛い、胸が苦しい。そんなことも作用しているのだろう。それに肉体的な疲労も重なって、何もしたくない病に陥っている。首長選挙が終わって、何かが変わった。波があって、きわめて意欲的な時もあれば、今日のように何もしたくない時もある。うまくいっている時は気にも留めないのに、落ち込んでくると自分で先が見えなくなってしまうようだ。

 

 昨日は午前7時ごろから土砂降りになってきたので、もう運動会は中止になるだろうと誰もが思っていたのだが、自治会長さんは「なんとしてでもやりたい」意向だった。午前8時の集合時点で雲は切れて青空が現れてきた。しかし運動場は水が溜まり、運動会が出来るような状態ではなかった。それで、開始を1時間遅らせ、午前10時半より体育館で行い、天気がよければ午後からは運動場で行うということになった。午前中は体育館の中だったので、長女一家にはちょうどよかったのかも知れない。2歳の孫娘はどんなに走り回ってもよいと分かって、「ちょっと様子を見てきます」と言ってはあちらこちらと走っていた。

 

 午後からは運動場で行った。その中の「シェフにお任せ」という競技は、用具係りの私たちは大変だが、袋に詰まった野菜を持ち帰ることが出来るので、出場者が多い。誕生日会のメンバーがマツタケをゲットしたのに、「ひとりでは食べられないから、どうしよう」と電話をかけてきた。「マツタケは焼いて、醤油で食べるのが一番うまいよ」と答えると、「あなたのところでやってくれる」と言うから、「ああ、いいですよ」と答える。運動会の後、組長さんを集めて「ご苦労様でした」と反省会が開かれ、私も彼女もビールを飲んで、ちょっと物足りない気持ちでいたから、我が家での反省会2次会となった。

 

 誕生日会のメンバーに招集がかかり、ビールや焼酎やワインでマツタケを肴におしゃべりが始まった。急な召集だったから、1組の夫婦は参加できなかったけれど、その娘さんが来てくれた。娘さんのお父さんは宇宙人の愛称がある。ちょっと普通の人には理解できない発想や行動が見られるからだ。ルーフバルコニーで作業をしていると、彼がベランダで話しているのが聞こえる。はじめは独り言のように思っていたけれど、カミさんが合いの手を入れている。彼女は「ウチの父さんはちょっと変わっているところがあるけど、とってもいい人よ」と言っていた。ダンナを心から尊敬し、最高の理解者であるようだ。

 

 それは娘さんの話からも伺うことが出来た。彼女の母親は「お父さんは家で一番偉い人」と子どもたちに言い聞かせ、子どもの教科書の名前は高校を卒業するまで、全て父親が書いてくれたそうだ。「お父さんは大事な人、子どもは命」と言って子育てをしてきた母親もいるけれど、この娘さんの母親は「お父さんは偉い人」と教えてきた。専業主婦だからという考え方も出来るかも知れないが、むしろ彼女が生まれ育ってきた環境にあるように思うし、実際、結婚した相手は彼女の考えたとおりの人だったのだろう。

 

 娘さんも面白い人で、2番目の子供を妊娠した時、「両親と自分の家庭をつなぐ子になって欲しいと願った」と言う。「でも、生まれてきた子は、朝青龍のような女の子でがっかりしてしまったのに、どんどん可愛らしい女の子に成長してくれたので、ちゃんと願いを叶えてくれたのだと思った」と話す。やっぱり面白いことを言う。

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若者たちは怒りを失ってしまったのか

2011年10月22日 19時28分36秒 | Weblog

 明日はマンションの運動会である。豚汁係りの80歳の女性にマンション玄関で会った。「明日は運動会できますかね」と話しかけると、「大丈夫ですよ。絶対晴れるから」と言われる。外は雨が激しく降っている。本当に晴れるのだろうか。長女たちも4人で運動会に参加すると意気込んでいたから、晴れた方がいいのだろうけれど、私は膝が痛いので出来たら雨降りの方がいいなと邪な気持ちでいる。そういう時に限って望まない方になるのが常だ。

 

 今日の中日新聞の「中日春秋」に尾崎豊さんのことが載っていた。尾崎さんの歌詞をゼミで一緒に読んだ大学の教授は、学生が失笑するばかりだったので驚いたそうだ。また10年ほど前に、精神科医の香山リカさんが大学で調査したところ、尾崎さんの歌は「何を怒っているのか分からない」とか「ひとりよがりで不愉快」という否定的な意見が多かったそうだ。歌詞に共感できるという学生は100人のうち2人しかいなかった。

 

 大学で教えている私の先輩が、学生たちに「死後の世界はあると思うか?」と質問したところ、9割の学生が「思う」方に手を上げたと驚いていた。「今の若者は社会状況もあるだろうが、夢を失って、消極的な生き方になっている」と嘆いていた。我武者羅に戦後復興を目指してきた世代、これでいいのかと社会に暴力的に抵抗した世代、経済成長の著しいなかで働き続けた世代、バブルがはじけて先が見えなくなった世代、若者たちは常に時代に振り回されている。

 

 日本の若者は非常に覚めた目で社会を見ている。オヤジたちのように、あるいはジジイたちのように、働いたところでどれほどのものを得たというのかと冷静に見ている。いや、あんたたちはまだ働く場所があった、働けば得るものがあった、しかし僕らにはそれさえもない。明日のことも分からなくてどうして夢を持つことが出来るのか。そんな風に冷ややかに事態を見ている。じっと見て、動こうとはしない。

 

 尾崎豊さんの歌は「ひとりよがりで不愉快」なのか。67歳の私の方が心にすっきりと入ってくるというのも変な話だ。若者たちには「こんな社会はぶっ壊してやる」という怒りはないのだろうか。今、世界はネット社会となり、誰もが自由に発言できる。誰でも勝手に呼びかけられる。アラブで、アメリカで、オーストラリアで、中国やヨーロッパでも若者たちが「格差への不満」に怒りを爆発させている。社会を変えていくのはいつの時代も若者たちだ。

 

 けれども、日本の若者たちはまだ無表情だ。彼らの方が賢いのか、それとも感受性まで押し殺してしまっているのだろうか。何をたずねても「別に」と動じない。自分の置かれた状況を十分すぎるほど知っているのだろう。高校2年の孫娘を見ていても、決して自分を出そうとはしない。たとえ嫌だと思っていても、家族が求めているのだからと従う。孫娘の母親である長女は、中学の頃から「家族」でどこかへ出かけることを拒否してきたが、その反動のように娘には一緒に行動することを求めている。

 

 親は自分が「よい」と思ったことを子に求める。大人たちは子供たちに、自分たちの理想を押し付ける。亡くなった天才、アップルの創業者ジョブズ氏は、若者たちに向けて「自分の心と直感に従う勇気を持とう」「毎日を人生の最後の日のように生きれば、いつか必ず‥」と呼びかけているが、共感できるのは私たちのような年寄りなのだろうか。そうであれば、本当に困った世の中だ。明日は晴れるという、困った。晴れたらブログは休みます。

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マラーを聴く

2011年10月21日 22時15分36秒 | Weblog

 今日からパソコンが新しくなった。容量が小さかったので、大きくしてもらおうと相談に行ったところ、「替えないとムリですね」と言われ、奮発してしまった。しかし、慣れは恐ろしいもので新しいパソコンは使いにくい。何をどうすればいいのかわからない。この文章も果たしてブログに載せられるのか不安を抱きながらやっている。高校2年の孫娘が先ほど来て、「ちょっとパソコン借りていい?」と言うから、「ああ、いいよ。新しくなったから使いにくいかも知れないよ」と答えたが、孫娘は私が心配することもなく、何かでつまずくということもなく、いとも簡単にやってのけてしまった。わからないのは私だけなのかとがっくりした。

 

 昨日、演奏会の会場で私よりも10歳ほど若い女性に会った。彼女は小学校の先生をしていたのだが、退職して念願の音楽大学に再入学した。マリンバの演奏家として活躍してきたけれど、それは趣味で始めたものだったので、音楽を基礎から学びたいと大学に入ったのだ。「演奏科に社会人枠で入学した人で卒業した人はいないから注目されているのだけど、私も挫折しそう」と心配していた。「ソルフェージュなど若い人は出来るのに、出来ないのよね。やっぱり歳には勝てないとつくづく思ってしまった」と嘆いていた。確かに音感というものは小さい時からの訓練なのかも知れない。次女の同級生にどんな音も聞き分けられる子がいた。彼女は今、ドイツのオペラ劇場で歌っている。

 

 昨日の演奏会はグスタフ・マラーの『交響曲第2番ハ短調』だった。午後6時45分に始まり、休憩もないまま2時間ほど演奏が続いた。マラーの交響曲は凄いとは聴いていたけれど、実際に聴くのは初めてだった。我が家はクラシックファンというよりも歌謡曲ファンで、父親が始めて蓄音機を買ってきた時、聴かせてくれたのは美空ひばりだった。母親と一緒に聴きに行ったコンサートは一度しかないけれど、田端義夫だったと思う。私がクラシックを聴いたのは中学の時だ。音楽の授業で作曲家の名前は覚えても作曲されたものを聴かせてくれるような授業はなかった。たまたま私は放送部に入り、放送劇を校内放送で行う計画を立てていた。そこで台本を探し、バックに流す曲を選んだ。放送室にはたくさんのレコードが置いてあったので、それを片端から聴いていった。私とクラシックとの出会いである。

 

 好きな女の子を放送部に無理やり入部させたので、放送劇はその子と作り上げたいという下心からだった。その子が全くやる気がなかったから、結局ドラマは完成しなかったが、私はクラシックの曲と曲名を覚えることには役に立った。バッバは同じ旋律を繰り返し、穏やかな気持ちで聴くことが出来るが、ベートーベンは音楽に思想を持ち込み「聴かせる」ことを目指した。音楽のことなど全くわからないのに、そんな風に勝手に作曲家を評価していた。ワーグナーやマラーは中学生が行うドラマには使いにくいと思ったのか、部室に置いてなったのか、聴いた覚えがない。

 

 マラーを演奏会で聴いて、これは西洋音楽の集大成のような曲だと思った。神を求めて彷徨うような、荒々しい大地を突き進み、小川の水のせせらぎや風のよそぎがあり、そうかと思うといよいよ神と巡り合ったような喜びが荘厳で神々しい、そんなイメージが湧き上がってくる。オーケストラにソプラノやアルトの独唱、そして合唱を組み入れ、打楽器が存在を示す壮大な曲であった。

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