昨日、樹木医に会った。私が住むマンションは、32歳の時に引っ越してきたから、築38年になる。マンションの敷地内には多くの樹木が植えてあるが、長い年月が重なり、枯れ始めた樹木もある。伐採すべき樹木や残しておくための方法などを聞き、自治会に伝えるためである。「時間があるから、見ましょう」と言ってくれたので、ふたりで敷地内を見て回った。
「素晴しいですね。邪魔されなかったので自然に育ったんです。立派な姿ですよ」と樹木医はマンションの桜を観て感心していた。子どもたちの遊び場になっている広場の横の築山の中に入ると、樹木が茂り地面にはわずかな光しか届いていない。まるで森の中にいるような錯覚に陥る。「ここもいいですね。樹液を出すクヌギやコナラがあればカブトムシなどの昆虫も集まりますが、そういう樹は見当たりませんね。下草が生えないと大雨で土が流れ出してしまいます」と心配する。
「ええ、出来る限り、この状態を維持したいと私は願っています。マンションの住民の中には鳥が来て喧しいとか、雑草だらけでみっともないと言われる人もいますが、都会の中に小さな森があるっていいと思いませんか」と話す。彼はサラリーマンだったけれど、やりたいことがあるからと子どもが成人したのを機会に樹木医になったと言う。「樹木は面白いですよ。自分から枯れ枝を作って形を整えていくんです」。植物だって生き残る方法を知っていると話してくれた。
なんだかとても気が合って、いい人に出会えたと思った。日本の寺院の庭園は、常でない、無常を現している。仏教の思想を庭で表現している。季節が変わるように万物は流転する。それを「哀れ」と受け止めるか、「真理」と受け止めるか、庭を見て考えるというのは凄いと思う。学生の頃、映画『昨年マリエンバードで』を観て、初めて西洋庭園が幾何学模様で設計されていることを知った。スケールも大きかったけれど、どこから見ても完成された庭だった。
日本ではあんなに大きな庭園はないだろうけれど、たとえば三保の松原から見た富士のように「借景」という考え方もある。庭師さんは、時の移ろいを頭において鋏を入れると本にあった。日本の庭には完成はなく、どこまで続くのか分からないという考え方も面白い。「自然のままでもなく、自然に寄り添うようにしています」と樹木医は言う。