初めは水の話だった。大阪や東京の水はまずい。だからこんなにも水の豊かな日本で、水を売ることが商売になるのだけれど、以前なら全く考えられない。都市に住む人々は、健康への関心から飲み水にとても敏感で、「汚れた水」ではなく、「キレイで美味しい水」を求めるようになってきている。だから都市では、浄水器を備えている家が多い。でも、本当に不純物を含まない蒸留水は実はまずくて飲めない。味を感じるのは純粋な水ではないのだ。
そのことから、人間の五感(視・聴・臭・味・触)とその感覚器官が話題になった。たとえば老眼が進むと近いものが見にくくなる。食卓の料理がはっきり見えないのだ。見えないとせっかくのご馳走が美味しくないのだ。ところがメガネを変えたところ、近くのものがよく見えるようになったばかりか、料理も美味しくなった。料理は目で味合うというが、その目がしっかり見えないと味合いも変わってしまうのだ。
友人の話では、手術で目が見えない人に「ハイ、卵」と言って卵焼きを箸で口に入れ、しばらくして全く違うものを「ハイ、卵」と言って同じように口に入れても、ほとんど食感が同様ならわからないようだという。感覚器官は敏感のように思うけれど、実はかなり鈍感のようだ。よく銀行強盗の模擬訓練で、犯人の服の色が人によってまちまちのことが多い。同じ臭いに対しても、好みの違いで「いい」と言う人と、「悪い」と言う人に分かれてしまうこともある。
五感の次に六感があるが、これだってかなりのものだ。なんとなくよいことがありそうと感じる時は案外そうなる。人間にそんな予測能力があるとは信じられないが、そういう能力を備えた人が実在することは確かだ。そこまでいかなくても、人間も動物と同じで、この人は気が合いそうだとかこの人とは友だちにはなれないといった、感が働くことも確かだ。もちろん後から訂正しなくてはならないケースも生まれる。恋人同士が赤い糸で結ばれているというのも、なんとなく感が働くからだ。
人間の感覚は誠にあいまいなものだけれど、科学でも分析できないくらい確かなものだ。美人を誰もが美人と言うけれど、好きになればその人が本当の美人になる。感覚というものはそういうものだと思う。実に見事なくらいハッキリとしている。私は今、目はよく見える。耳もよく聞こえる。鼻もよく利く。舌もまだ確かだ。触覚も衰えていない。まだ、五感はしっかり働いている。ありがたいことだが、いつかは朽ちる時が来る。
そのことから、人間の五感(視・聴・臭・味・触)とその感覚器官が話題になった。たとえば老眼が進むと近いものが見にくくなる。食卓の料理がはっきり見えないのだ。見えないとせっかくのご馳走が美味しくないのだ。ところがメガネを変えたところ、近くのものがよく見えるようになったばかりか、料理も美味しくなった。料理は目で味合うというが、その目がしっかり見えないと味合いも変わってしまうのだ。
友人の話では、手術で目が見えない人に「ハイ、卵」と言って卵焼きを箸で口に入れ、しばらくして全く違うものを「ハイ、卵」と言って同じように口に入れても、ほとんど食感が同様ならわからないようだという。感覚器官は敏感のように思うけれど、実はかなり鈍感のようだ。よく銀行強盗の模擬訓練で、犯人の服の色が人によってまちまちのことが多い。同じ臭いに対しても、好みの違いで「いい」と言う人と、「悪い」と言う人に分かれてしまうこともある。
五感の次に六感があるが、これだってかなりのものだ。なんとなくよいことがありそうと感じる時は案外そうなる。人間にそんな予測能力があるとは信じられないが、そういう能力を備えた人が実在することは確かだ。そこまでいかなくても、人間も動物と同じで、この人は気が合いそうだとかこの人とは友だちにはなれないといった、感が働くことも確かだ。もちろん後から訂正しなくてはならないケースも生まれる。恋人同士が赤い糸で結ばれているというのも、なんとなく感が働くからだ。
人間の感覚は誠にあいまいなものだけれど、科学でも分析できないくらい確かなものだ。美人を誰もが美人と言うけれど、好きになればその人が本当の美人になる。感覚というものはそういうものだと思う。実に見事なくらいハッキリとしている。私は今、目はよく見える。耳もよく聞こえる。鼻もよく利く。舌もまだ確かだ。触覚も衰えていない。まだ、五感はしっかり働いている。ありがたいことだが、いつかは朽ちる時が来る。