友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

よいお年をお迎えください

2021年12月30日 16時20分17秒 | Weblog

 寒さのせいなのか、赤いバラが1週間以上も咲き続けている。もちろん花弁は痛んでいるが、なかなか散る気配が無い。満開になった時に切るとつもりでいたが、余りにも健気に咲き続けているので、散るのを待っているのだが、哀れな気もして見守っている。

 いよいよ年の暮れだ。蛍光灯の傘に溜まった埃や虫を掃除し、カレンダーを2022年のものに取り換え、棚の上の物や部屋に置かれている物を隣りの部屋や目立たないところに移動して、後は鏡餅を飾り、正月花を活ければ何となく正月気分になれる。

 コロナ禍に振り回された1年だった。家に閉じ籠って、ひたすら夢想と幻想に浸る1年だった。欲望は何1つ満たされなかったが、それは私に「徳」が無かったのか、それとも「得」が無かったからだろう。時は、私に関係なく、いやそもそも人間に関係なく、流れていく。

 来年もまた、時だけは正確に刻みながら過ぎていくことだろう。喜びも悲しみも寂しさも、関係なく過ぎていく。もう充分生きたし、ここらで終わりになっても悔いはない。ルーフバルコニーの花たちも北の部屋の観葉植物も、誰かが貰ってくれればいいのだが‥。

 1年の最後の日は何もしない日にしよう。そして、1年の最初の3日間はグダグダと過ごそう。そんな訳で、明日から4日間はブログを休みます。1年間お付き合いくださりありがとうございました。よいお年をお迎えください。

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これで正月は迎えられるだろう

2021年12月29日 17時24分20秒 | Weblog

 結婚している孫娘が私の旅行カバンをインターネットで売ってくれた。「売れたから、取りに行くね。梱包しておいてくれると助かるんだけど」と言うので、家に在った段ボール箱を探した。あいにくなことに、丁度良いサイズのものが無かった。

 そこは何でも工夫することが好きな私なので、段ボール箱を2つに割いて、テープで巻いて梱包することにした。するとカミさんは「隙間が空いているけどいいの?」と言う。カバンはしっかり梱包できているから、箱の隙間などは問題ないはずだ。

 取りに来た孫娘に見せると、「いいじゃーない」と言ってくれた。すぐこのまま郵便局から送ってしまうらしい。私にはそんな能力が無いが、若い人はいとも簡単にやってしまう。使わない物をいつまで持っていても仕方ない。誰かの役に立つならその方がいい。

 梱包作業には1時間もかかってしまった。午後は、カミさんがテレビを見ているので、自ら進んで台所の換気扇の掃除を行なった。油まみれでなかなかきれいにならない。泡の洗剤を吹きかけ、しばらく置いてから洗ってみたが、やっぱりきれいにはならない。

 新品のようにはならなくても、見た目にはきれいになった。ガス台の周りも洗ったので、台所はこれで良しとしよう。明日は正月用の花が届くと言う。目に付くところは雑巾がけをし、何となく清々したなら、これで正月は迎えられるだろう。

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けれど現実は、欲に満ちている

2021年12月28日 17時55分55秒 | Weblog

 茨城の小1の孫娘は、そろそろ父親の実家がある兵庫県に着いただろうか。飛行機で行くようなことを言っていたが、上手く飛行機に乗れたのだろうか。新幹線で帰るとなると、「関が原の雪のためかなり遅れるが生じる」とテレビは報じていた。

 4月の入学したばかりの頃は、とてもお茶目で可愛かったけれど、七五三であった時は一年生とは思えないほど大人びていた。ひとりっ子で母親といる時間が多いからなのか、まるで大人がふたりいるような話しぶりだ。言葉の使い方は母親を超えるくらい気が利いている。

 年明けまであと3日しかない。私は玄関ドアとルーフバルコニーに出る西側の窓ガラスを掃除した。明日はキッチンの換気扇の掃除を命じられるだろう。お正月といえば、ピッカピカに磨いて迎えたものだったけれど、人も来ないとなるとそんな意欲も薄れてしまう。

 統一教会の文総裁の夫人、韓鶴子さんの自叙伝『平和の母』を半分ほど読んだ。統一教会の教本は読んだことが無いので、悪いウワサしか知らないが、キリスト教と言うよりも何か別のもののような気がした。朝鮮半島には明治以前にキリスト教が伝播されていたようだ。

 それは儒教の教えや土着の教えなども取り入れ、独特のキリスト教の宗派が生まれ信仰されていたと思われる。文総裁も韓鶴子さんも北の生まれで、「天の啓示」を受けて育ってきた。心で聞いたり、夢で聞いたり、それが信仰の土台のようだ。

 「聖書に戻れ」と言うなら分かるが、「天の啓示」を聞いたとなると、私は受け入れることが出来ない。「世界の平和」「愛に満ちた世界」を目指すその理念は正しい。けれど現実は、韓鶴子さんも言うように「欲に満ちている」。

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幾つになっても相変わらず

2021年12月27日 17時02分23秒 | Weblog

 朝、カーテンを開けると雪が降っていた。大粒のボタン雪で、我が家のルーフバルコニーも雪景色となった。午後3時ごろまで降り続いていたが、雲が薄くなってきてやがて止んでしまった。あんなに積もっていた雪も瞬く間に溶けてしまった。

 昨日、忘年会に行く時はとても寒かった。空気が凍り付くような冷たさだった。今年の井戸掘りは1件も完成できなかったが、仲間の結束が大事だからと宴会を行なった。よく飲み、よく食べ、よく話した。いつものことだが、若い仲間の相談に先輩と私が付き合った。

 彼は知り合いの女性から、「『心がきれいで頼りがいのある男を紹介して欲しい』と言われた」と話す。その女性はある男性と恋に落ち、男性の実家のある九州へと旅をした。ところが、男性から暴力を振るわれ絶縁されてしまったそうだ。

 先輩はすぐ、「利用価値がなくなって捨てられたのだ」と言う。鬱状態になって働くことも出来なくて、女性の実家が医者なので親から毎月仕送りしてもらっているそうだ。すると先輩は、「実家が金持ちとか家柄がいいとか、そういうことを話す奴はダメだ」と切り捨てる。

 さらに、「その女をいいなと思うなら、金出して付き合えばいい」と教示すると、「俺は妻子持ちですが‥」と言うので、「別にふたりが納得しているならそれでいいじゃーないか。その女も、面倒をみてくれる男が欲しいだけで、結婚など望んでいないだろう」と諭す。

 私は「女詐欺師かも知れないよ。それでもよければいいじゃーない。どうせ格別に金がある訳じゃーないんだし。まあ、人生勉強だと思って、面倒みてあげれば」と茶化してしまう。幾つになっても相変わらずだと思いながら。

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叱られそうな気がして怖い

2021年12月25日 16時02分41秒 | Weblog

 クリスマスはイエス・キリストが生まれた日。イエスはベツレヘムの馬小屋で産声を上げた。父ヨセフと母マリアは婚約中だったから、赤子は不義の子である。けれど、ヨセフは神の使いから、「マリアが宿した子は精霊によるのである。その子は自分の民をその罪から救う」と聞かされる。

 イエスは人々の救い主として生まれたが、それは人々の罪を引き受け十字架にかけられることだった。戒律を守れば天国へ行けると信じていた人々に、イエスは「それは違う」と話し、「神を信じ、愛することだ」と説いた。

 画期的な説教だった。戒律を守ってその地位に固執してきた支配層の人々は、イエスの説教は許すことが出来なかった。けれど、貧しい人々や蔑まれてきた人々は、イエスを信じ従った。イエスは磔にされて殺されたが、蘇ったけれど神のもとに帰って行った。

 神が再びこの世に現れるのが「最後の審判」である。キリスト教の宗派の中には、「審判の日は近い」と唱えるものもある。私は、もうそろそろその時が来て欲しいと願っている。誠に勝手極まりないから、私には罰が下るだろう。

 今日、知り合いの死を聞いた。ふたりともゴルフに行っていて、途中で気分が悪くなり、家に戻ったもののさらに悪化して、救急車の中で亡くなられた。僅か何時間という間の出来事だった。「苦しまなくてもよかった」と思うのも勝手で、本人は随分苦しんだかも知れない。

 共に陽気でよくおしゃべりする人だった。「最後の審判」で、そういう人々に会うことが出来るのだろうか。いや、もっと昔に亡くなった父や母に会えるのだろうか。けれどその時、「お前は!」と叱られそうな気がして怖い。明日は井戸掘り仲間の忘年会のため、ブログを休みます。

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深い思いでこの小説を書いたに違いない

2021年12月24日 18時58分21秒 | Weblog

 『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬著 早川書房)を読み終えた。470ページを読んだという達成感よりも、もっと重い充実感があった。戦闘場面が如実に描かれているから、戦争映画を観ているようなのに、全く違っていた。

 母親を殺され孤児となった少女に、「戦いたいか、死にたいか」と問う。「敵を皆殺しにして、仇を討つ」。そう決意して兵士になる。少女に問うた女の下で、狙撃兵となる訓練を重ねていく。家族を亡くした少女たちは狙撃兵として鍛えられていく。

 第2次世界大戦で、ソ連は看護や雑務をさせる女性を後方部隊と投入しただけでなく、実戦兵士として戦場へ送った。この小説は確実に敵兵を射殺し、戦況を有利にする狙撃兵の物語だが、現実に存在したようだ。

 上官の女は常に、「なぜ兵士になった」「兵士になって何がしたい」と問う。こうして少女たちは立派な狙撃兵へと成長していく。戦闘で何人殺したか、充実感でありながら何かを引きずっていく。いよいよ戦争が終結に進む。ドイツは900万人、ソ連は2000万人以上の人命を失った。

 最終章に「スターリン体制は恐怖政治であったなら、それを支えて戦った自分たちは何なのだろう」とある。さらに「たとえ船頭を替えても『大祖国戦争』の物語を美しく受け継ごうとするこの国には、それ以外の面を見ようとする日は、決して生まれ得ないのだろうか」と問う。

 戦争の犠牲者が女性であり、敵も味方も女を弄ぶことに変わらない。著者の逢坂さんは何歳なのか、夥しい戦場の記録をどのようにして手に入れたのだろう、そんな思いがフト湧き、いやいや彼はもっと深い思いでこの小説を書いたに違いないと思った。

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戦場では何を思って死ぬのだろう

2021年12月23日 17時55分17秒 | Weblog

 冬至に柚子風呂に入る習慣はいつごろから始まったのだろう。昨夜は友だちから頂いた柚子を湯に浮かべ、爽やかな匂いを満喫した。小粒ながらとてもきれいな色の柚子だった。手のひらで掴むと、表面から小さな泡が出て来て清々しい匂いを発してくれる。

 先日、書店に注文しておいた『朝日新聞記者の200字文章術』を受け取りに行った時、新聞の書評欄にあった本が山積みされているのを目にし、思わず買ってしまった。逢坂冬馬さんの『同志少女よ、敵を撃て』である。表紙の絵が少女漫画のようで、ちょっと戸惑った。

 帯に「第11回アガサ・クリスティ賞大賞受賞作」とある。ミステリー小説なのかと思いながら、気に入らなければ止めればいいと気楽な気持ちで読み始めたのに、手放せなくなってしまった。主人公は大学進学が決まった少女、しかし突然悲劇が彼女を襲った。

 1942年2月、村人が皆知り合いの小さなソ連の村に、突然ドイツ兵がやって来て村人は全員虐殺される。母親と狩りに出ていた少女は捕らえられ、嬲り者にされようとした時、ソ連の赤軍に助けられるが、母親は焼かれてしまう。

 ドイツのソ連侵攻を舞台に、臨場感に溢れた戦争場面が延々と続く。ドイツとソ連の戦争は教科書程度にしか知らない。どんな兵器が使われ、どんな作戦があったのか、全く知識が無いので、主人公がどうなるのかとそれだけを読み進める。

 470ページもある長編だが、いよいよ最後の章まできた。戦争に駆り出される兵士を支えているのは、愛国心なのか家族を殺されたことへの復讐なのか、狙撃兵となった少女は苦悶する。戦争は勝っている時は略奪し女を漁る。負けてくると脱走者を皆殺しにする。

 戦場では皆、死んでいく。ロシア人もドイツ人も柚子湯に入ることは無いだろうが、何を思って死ぬのだろう。平和ボケの私は考える。

 

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まだ、読んでいないがちょっと興味も湧いた

2021年12月22日 17時30分23秒 | Weblog

 もうすぐクリスマスなので、小6と小1の孫娘に「プレゼントは何が欲しい」とカミさんが聞いていた。小6の孫は「自転車が欲しいけど、高いから」と言う。小1の孫は「特にない」と素っ気ない。母親である次女に聞くと、「今使っている電子ピアノは鍵盤が少ないので、もう少し大きいのが欲しいみたい」と言う。

 欲しい物はいずれも高価だから、「はい、分かった」とは返事が出来ない。両親とダンナの親と妻の親の私たちで何とかする他ない。今の子どもは恵まれているから、特に欲しい物となると高価な物になってしまうのだろう。私たちの子どもの頃はクリスマスを祝う習慣は無かった。私が中学生になる頃に、お菓子屋さんの店頭にケーキが並ぶようになった気がする。

 デパートや商店街に「ジングルベル」が流れ、キリストを知らない人たちが大騒ぎする豊かな時代になっていった。姉の家ではワインが出ていて、ブドウジュースだと思って飲んでひっくり返った。私が通っていたキリスト教会でも市中を、讃美歌を歌って歩くようになった。夜だから滅多に知った人に会うことは無かったが、ちょっと誇らしくそして恥ずかしかった。

 先日、街を歩いていたら近所の知り合いに呼び止められた。「本読むの好きそうだからこれあげる」と言って1冊の本を渡された。世界平和統一教会の韓鶴子さんの自叙伝『平和の母』だった。「今、みんなのところを回っているの」と話す。陽気な女性だったが統一教会の信者だったのか。朝鮮半島はキリスト教の布教が盛んだったと聞いたが、そこから統一教会は生まれたようだ。

 まだ、読んでいないがちょっと興味も湧いた。

 

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みんな一緒でいいじゃーないか!

2021年12月21日 17時16分32秒 | Weblog

 朝日新聞が購読者に無料配布している冊子『スタイルアサヒ』に、2008年の椙山女学園中学校の入試問題が載っていた。「次の小学生が書いた文章を読み、問いに答えなさい」とあり、「家で飼っているミドリガメが成長しておおきくなったため、カメの水そうがきゅうくつそうなので、なんだかかわいそうになりました」。

 「自然の広々とした大きな池や川に放してあげようと思って、お父さんに相談したら反対されました。ミドリガメは外来生物といって、もともとその地域にいなくて、人間の活動によって外国から入ってきた生物なので、日本の自然の中に放してはいけないそうです。(略)カメも喜ぶだろうと思ったのですが、どうして放してはいけないのか疑問に思いました」。

 そこで「問い」です。「もともと日本にいなかった外来生物であるミドリガメを野外に放すのは日本の自然環境にとって、なぜいけないのでしょうか。その理由を40字以内で述べなさい」。そして「解答例としては、『古来から生息していた生物どうしでつくられたバランスがこわされる恐れがあるから』という内容が書けていれば正解です」とあった。

 私はヘソ曲がりなのか、地球上の生物は誕生した時から移動し駆逐してきたのだから、外来も在来も無いのにと思った。日本人の祖先も大陸から移動して来たはずだ。東京都の武蔵野市が外国人も住民投票に参加できる条例を提案したのに、議会で否決されてしまった。同じように働いて同じように暮らしているのに、どうして差別をしてしまうのだろう。情ない!みんな一緒でいいじゃーないか!

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曖昧で失敗ばかりで何が悪い

2021年12月20日 17時11分05秒 | Weblog

 今年も残り少なくなってきた。カミさんは長女一家が3日に来ると分かって、早速おせちを通販で注文していた。以前は姉や兄の子どもたち家族や私の妹夫妻などが、3日に我が家に集まってくれていたが、甥や姪の子どもたちも結婚するようになり、それぞれの家庭で正月を迎える方がいいだろうと考え、正月の集まりを止めた。

 その代わり、8月の名古屋駅前の集まりは続けるつもりだったのに、昨年も今年もコロナのために中止してしまった。親族の絆というほども大げさなものではないが、決して孤立している訳ではなく、血脈の中に自分が存在していることを感じて欲しいと思ってやってきた。続けるうちに、子どもたちの成長と自分の老いを意識するようにもなった。

 年の瀬が迫ってきて、悲惨な事件も目立つ。これは私の勝手な思いかも知れないが、事件を起こしてしまった人は、家庭が崩壊し、居場所がなくなった、孤立した人が多いような気がする。誰とも気さくに話が出来ない、笑い合っておしゃべりが出来ない、それはとても耐えられることではない。

 格好つけなくても受け入れてくれる人が傍にいる。そんな人間関係が、人には大切なのに、これからは人と人との関係は希薄になっていくだろうと言われている。IT化が進めば、人の判断よりもITの方が正確だから、判断が必要な仕事から人は締め出されるらしい。

 「冗談じゃーない!そんな社会で人は生きてけるのか!曖昧で失敗ばかりで何が悪い!」と叫びたくなる。

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