友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

今日は今年最後のブログです。

2011年12月27日 19時31分13秒 | Weblog

 とうとう12月27日になってしまった。それは時の流れであって、だからどうした?と問われれば、いや今年も残りは4日かという感嘆符に過ぎない。午前中に年賀状を書き終え、投函もした。来年がどんな年になるのか、これは誰も予見できないが、今年がどんな年だったかは振り返ることはできる。

 

 今年の3月11日は忘れることのできない日となった。大きな揺れとともに、私の記憶の中にしっかりと残っている。それでも夏までは順調だった。9月になって、胸が痛む時があった。胸の痛みは恋の痛みと昔から言う。ところが秋になると、脈拍数が低い日が続くようになった。中学からの友だちも脈拍数が低くて、入院即手術となったから、やはり自分もその時を迎えるのかと思った。

 

 62歳で首長選挙に立った時は、当選しても2期でやめようと思っていた。70歳までは人のためというか、社会に向かって働こう。しかし、70歳を超えたなら、それはおまけの人生だから自分のために使う。そんな勝手な設計を立てていた。70歳を超えても、井戸掘りの仲間のように元気な人はたくさんいる。社会に貢献している高齢者だって多い。だから、70歳になったらダメだというわけでは決してない。

 

 私の身勝手な思いだけのことだ。そもそも、いつまで生きるかは神が決めることで、私が決めることではない。私がどんなプランを立てようと、それが神の計画と違うものであれば、神はあくまでも神の意思を実行されるだろう。結果として私は、結局は受身でしかない。それでも勝手なことを考えるのが人間である。

 

 体調の変化は心の病の表われである。きっとそのうち、元気になるだろう。来年早々には幾箇所かで井戸掘りの約束をしているし、81歳になる姉に「近場の温泉にでも行きましょう」と約束もしている。今年の後半がガタガタと悪かったから、来年は少しよくなるだろうと勝手に期待している。こんな風に、グダグダと時は過ぎ去っていき、人生を積み重ねていくのだろう。

 

 さて、明日の12月28日から来年の1月4日まで、ブログを休みます。飲んで、食べての年末年始だけけれど、そういう普通の過ごし方が一番いいと勝手に思っている。

 

 それでは良いお年をお迎えください。

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雪景色は好き

2011年12月26日 19時36分41秒 | Weblog

 今朝、起きると雪景色だった。昨夜から降り積もったもので、午前中はまだ、降ったり止んだりしていた。私の子どもたちがまだ小学校へ上がらない時だと思う。この辺りの雪景色でも充分にきれいだけれど、もっとすっぽりと埋まってしまうような雪景色を見せたくて、奥琵琶湖の余呉湖へ出掛けたことがある。車にエアコンは付いていなかったけれど暖房は効く。必需品のタイヤチェーンも積み込んだ。タイヤにチェーンを巻いた経験は少ないが、皆無ではない。2泊3日の旅支度をして、名神高速で米原へ向かった。

 

 米原で高速を下りて、8号線を北へ向かうが、長浜辺りから雪が多くなってきて普通タイヤでは走れない。車を道路脇に止めて、チェーンを装備しようとするが、降ってくる雪と寒さで作業がうまく進まない。車の中では子どもたちが、パパは何をしているのかと騒いでいる。そのたびに車体が揺れて、ますます焦る。カミさんは子どもたちに「静かにしなさい」と注意はするが、「手伝おうか」とは言わない。言っても何もできないことがわかっているからだ。悪戦苦闘の末に無事にチェーンの装着ができた。

 

 さて、目指す余呉湖の宿へと向かうが、雪国を知らな過ぎた。雪景色では雪以外には何も見えない。車が通っていればいいけれど、轍がなくなれば道も分からない。標識だって雪に埋もれて見えない。太陽が見えないから、東西南北も分からない。ゆっくり、恐る恐る進んでいって、それでも事故もなく無事に宿に付くことができた。初めは、大雪にびっくりしてはしゃいでいた子どもたちも見慣れてくると、それほどの興味もないようで、「寒いからお部屋に入ろう」と言うばかりだ。

 

 今ならお風呂場で雪見しながら湯につかるような宿が多いけれど、まだそんなお風呂ではなく、薄暗いお風呂場だったので、下の子などは早く出たがった。翌朝、外に出ると積雪は1メートル以上あり、乗ってきた車はおわんをかぶせたように雪で丸くなっていた。子どもたちは車が「だるまになった」と大喜びだった。上の子が小学校へ上がるころからは、カミさんの弟やカミさんの同僚が、子どもたちをスキーに連れて行ってくれたけれど、大雪の景色に対する免疫はできていたのではないかと勝手に思っている。

 

 長女も次女も、今もスキーが好きなようだ。私が子どもの頃はスキーをするのはお金持ちだった。私の兄はスポーツは何でも好きで、家ではよくキャッチボールをさせられた。スキー道具も持っていて、一度連れて行ってもらったことがあるが、狭い夜行列車やうす汚いような宿が、私には嫌な印象しか与えなかった。映画『黒い稲妻』を観て、スキーしておけばよかったなどと馬鹿なことを思ったこともある。それでも何もかも白く被い尽くす雪景色は好きだ。

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今日はクリスマス

2011年12月25日 21時49分48秒 | Weblog

 今日はクリスマスである。「ところで、イエス・キリストの誕生はこうであった。その母マリアがヨセフと婚約中であった時、ふたりが結ばれる前に、彼女が聖霊によって妊娠していることが分かった。しかし、その夫ヨセフは義にかなった人であり、また彼女をさらし者にすることを望まなかったので、ひそかに離婚しようと思った。しかし、彼がこれらのことをよく考えたのち、見よ、神のみ使いが夢の中に現れて、こう言った。『ダビデの子ヨセフよ、あなたの妻マリアを迎え入れることを恐れてはならない。彼女のうちに宿されているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。あなたはその名をイエスと呼ばなくてはならない。彼は自分の民をその罪から救うからである』」と『マタイによる書』第1章にある。

 

 イエスはベツレヘムで生まれた。しかし、『マタイによる書』にはそれ以上の記述がない。この日の様子は『ルカによる書』に次のようにある。「そして彼女は男の子、初子を産み、これを布の帯でくるんで、飼い葉おけの中に横たえた。泊まり部屋に彼らの場所がなかったからである」(第2章)。だから、最初に誕生したイエスを見たのは動物たちだと言う。それから、同じ地方にいた羊飼いに神のみ使いが現われて「今日、ダビデの都市で、あなた方に救い主、主なるキリストがうまれた」と告げる。「羊飼いたちは互いにこう言いはじめた。ベツレヘムまで行って、神がわたしたちに知らせてくださった出来事を見てこようではないか」。『ルカによる書』には羊飼いたちが飼い葉おけの幼子を見て、自分たちに語られた事柄に驚き、皆に伝えた様子が窺える。

 

 先の『マタイによる書』では」「東方から占星術者たちがエルサレムに来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方にいた時、その方の星を見たのです。わたしたちはその方に敬意をささげるために参りました」とあり、恐れたヘロデ王は幼児の虐殺を命じるが、み使いがヨセフの夢の中に現われて、エジプトへ逃げるようにと伝える。イエスの誕生を記したものは他にはないのだろうか。『マルコによる書』や『ヨハネによる書』には誕生の様子の記述はなく、バプテスマのヨハネの話から始まる。いや、もっと正確に言えば『ヨハネによる書』は、「初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった」で始まり、マタイやルカのものとは違っている。

 

 子どもの頃のイエスについての記述は『ルカによる書』の第2章の後半に少しだけある。イエスが12歳の時で、エルサレムでの祭りが終わって親戚一同は岐路に着いたが一日たって両親はイエスがいないことに気付き、エルサレムの神殿で学者たちの真ん中に座って彼らと話しているイエスを見つける。母親が心配して探し回ったことを告げてとがめると、イエスは「なぜ、わたしを捜さなければならなかったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを知らなかったのですか」と誠に生意気なことを言う。おそらく、学者たちと平気で話のできる神童であったのだろう。

 

 しかし、単なる神童であれば神ではない。わたしが聖書研究会で最初に読んだのは『マタイによる書』の初めのページで、「アブラハムはイサクのちちとなり、イサクはヤコブの父となり」というイエスの系図だった。イスラエル民族の系図など何の意味があるのか、当時の私は全く分からなかった。神から言葉を預かった者、つまり預言者の言葉を成就していくことで、イエスは神の子であり、神が私たちに授けてくださった救い主であると説明していることが分かるようになった。そんなわけで、イエスの物語は歴史と哲学に満ちていると思うようになった。

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今晩は我が家でクリスマス会

2011年12月24日 13時16分30秒 | Weblog

 今日は長女一家がやってきて、一緒にクリスマス会をする予定だが、正午だというのにカミさんはまだ寝ている。昨夜は誕生日会の人たちとホテルでメンバーの誕生日を祝い、それからカラオケ店に行ってまた飲んで歌って騒いで家まで帰ってきた。いくら飲み放題、食べ放題と言っても飲みすぎているし、食べ過ぎている。それくらい楽しかったのだからそれはいいけれど、やっぱり結果が悪かった。

 

 酔っ払った友だちを家まで送り届けて帰ると、カミさん連中が「玄関に座り込んでいるから」と教えてくれた。ドアを開けるとカミさんが外套を着たまま座り込んでいる。「寒いから上がろう」と言うけれど、ガンとして動かない。下手に動かせばもどすかも知れないと思い、とにかく部屋を暖めておくことにした。すると玄関でバタンという音がする。カミさんがひっくり返って横になったのだ。

 

 「さあ、部屋に入ろう」と言うと、「気持ちが悪い」と答えると同時に口からガッボッと吐いた。かなり大量だ。着ていた外套やマフラーまで汚してしまった。しばらくしたら収まったので、「もうよさそう?」とたずねると、「ウン」と言い、自分でマフラーをとり、外套を脱いで、ストーブの前に横になってしまった。「寒い、寒い」と言うので、毛布と布団をかける。部屋全体が温まってきたので、万一のことを考えてストーブを消し、エアコンだけにして先に風呂に入った。

 

 カミさんがここまで飲むことは滅多にないが、若い時の私はよく飲んで吐いた。特に学生時代はどこまで飲めるのかが分からなくて、何度か二日酔いになった。二日だけでなく三日酔いになったこともあった。その時はもう、絶対に酒は飲まないと思ったのに、守れなかった。家に帰る道を全く覚えていないことも何度かあったし、自分ではまっすぐ歩いているつもりなのに、塀や生垣がぶつかってきて困ったこともあった。最大の椿事は大学4年の時、アルバイトのため東京で生活していて、川に落ちたことだ。後に現場を見に行ったら、川岸から川面まで4から5メートルもある深い川だった。

 

 酒を飲んで、全く覚えがないと言う人を疑っていたけれど、自分で何度か覚えがない体験をして、確かにそういうことはあると認めるようになった。社会人になってからはそんな無茶飲みはしなくなったが、自分で新聞作りをするようになってからは、付き合いで飲む機械が増え、酒を殺して飲むというか、飲まれないようにしなくてはと意識して飲むようになった。家に辿り着くとたちまち酔いが回って、吐きそうになったこともあった。

 

 誕生日会の仲間ではそんなに無茶飲みをする人はいない。しゃべって、笑って、食べて、飲むが、午後6時半から午前零時頃までと時間が長いので、悪酔いすることがないのかも知れない。おおっと、カミさんが起きてきて、さあ、クリスマス会の準備をすると言う。元気になったみたいだ。

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どう返事を書いたらよいのだろう

2011年12月23日 15時03分31秒 | Weblog

 朝のうちは穏やかだったのに、午前11時ごろから北西の風が強く吹くようになった。今では、伊吹山がくっきりと見える。このまま寒さが続くようなら、この伊吹山辺りに雲がまいてくるだろう。山から黒い雲が流れてくれば雪になる。風が一段と強く吹き、寒波の到来を告げている。

 

 暖かな家の中にいて、強風にあおられ折れ曲がりそうな樹木を眺めている。地上ではそれほどの強く感じられない風も、30メートル上の我が家のバルコニーでは暴風のようになる。普通に話していてなんでもないことが、聞く方にはものすごくつらいことがあるのと似ている。

 

 何もかも自分に原因があり、自分が招いたのではないかと考える人もいれば、全てが自分以外の人によってなされたことだと考える人もいる。姑が体調を崩したのも嫁の私の気配りが足りなかったからではないか、子どもが病気になったのも私の愛情が足りないからと思ってしまう。

 

 目に前にあるのに、ここに置いたメモがなくなったのは誰かが勝手に捨てたのだとか、車のガソリンが少なくなって、「どうして入れておかないの」と人を咎め、とにかく自分は何も悪くないのに周りが悪いと決め付けてしまう。いや、そうしていると本人は全く思っていない。

 

 先日、手紙をいただいたが、どう返事を書いたらよいかと迷っている。

 

 「私の周辺は陰謀といやがらせが続き、インターネットや口コミで広められ、うつ病患者以上の苦しみの毎日ですが、私は何も一切悪いことをしておりませんので、神が知っていて下さることを信じ、八方ふさがりでも、天は見守っていて下さると信じ、神と共に生きるようにし、ムチをうって頑張っています。(略)行く先々でケイタイ写真を撮られたり、メールされたり、次から次へと尾行されていますが、頑張っています。(略)誰の陰謀にも負けず、自殺へ追い込まれようとするのを押し切り、頑張っています。どうかご支援ください」。

 

 私にどのような助けができるのだろうか。この人がキリスト教徒なら、明後日はキリストの誕生日だから安心して待っててもいいよと言えるだろうが、そうでなければどう答えたらよいのだろう。確か、この人は熱心な仏教徒だったように思う。神というのは絶対的な真理を指しているのだろう。

 

 年賀状を書きながら、この人への返事はどうするのかと迷い、結論が出てこない。今晩は誕生日会の人たちとのクリスマス会である。昨年に引き続き、ホテルで食事会をした後、帰ってきてカラオケ屋さんで2次会というお決まりのコースだ。重い課題を抱えてはいるが、出掛けていって忘れることにしようと思う。

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やはり年の暮れだね

2011年12月22日 18時31分32秒 | Weblog

 大和塾の講座案内を送るために、住所をラベルに印刷して封筒に貼る。ところがいつも、ラベル印刷がうまくいかなくて苦労する。特に今回は、パソコンを新しくしたため、住所録のデータが開けない。どうやってもダメだった。それでパソコン教室の先生に教えを乞い、それからパソコンを買った店の若い店員に教えを受け、それではと思って自分のパソコンに向かったけれど、あれ、やっぱり出来ない。しかし、教えてもらったことがヒントになって、パソコンを使って調べてみようという気になった。

 

 分からない言葉をパソコンに打ち込んで調べてみる。そんなことを繰り返している内に、データが開けないのはデータの保存形式にあるようだと推測できた。それで、作ってあった住所録をテキストファイルでやってみたがダメだったけれど、Microsoft Accesse でやってみたら出来た。もう一度やってみてと言われても、きっとすぐには出来ないだろうけれど、何とかなるものだなあと自分で感心してしまった。パソコンに精通している人から見れば、何をしているのかと思われるだろうけれど、パソコンの仕組みがさっぱり分からない私は決められたことしか出来ない。

 

 そんなこんなで今日は、年賀状の宛名印刷に取り組み、こちらも何とか印刷することができた。昔は私個人でも3百枚くらいの年賀状を出していたけれど、だんだん減って今回は2百枚弱である。宛名はパソコンで打ち出しているけれど、裏面は一人ひとり万年筆で書いている。何百枚もよく書けるねと言われるけれど、宛名を見て思いつく挨拶を書くだけだからそんなに難しくない。毎年のことだけれど、年賀状は結局、まだ元気にやっていますというメッセージである。そう思えば何もかしこまることはないし苦にもならない。

 

 昨日は1歩も外へ出なかった。今日は朝早くに郵便局へ大和塾の1月講演会の案内封書を持って行った。さすがに暮れである。郵便局は結構込んでいた。私がテーブルで作業をしていると若い女性が隣に座り、金色の封書に年賀用の切手を貼っていた。日本国内なのか外国行きなのかまでは分からなかったけれど、とてもきれいでお正月らしい封書だった。年賀状を出しに来る人や小包を送る人、それに大学に願書を送る人など、人の出入りは途切れることがない。

 

 表に出れば、こんな小さな町でもなんとなく皆忙しげに行き来している。確かに年の瀬だ。何かが違う。カミさんの車はエンジンをかけるとナビの画面にその日の運勢が表れる。金銭面、健康面、仕事面、恋愛面など、珍しく全てが同じ50%前後だった。「やっぱりこんなものか」と思った。誰かが言っていた。「今はドン底にいる。だからこれからは上がるしかない」。私もそんな風に気楽に考えよう。運勢が悪いといってもゼロではない。これが50%の状態なら100%に近づいたらどんなことが待っているのだろう。そう考えると楽しくなってきた。よし、もう少し年賀状を書こうという気になってきた。

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映画『熱いトタン屋根の猫』

2011年12月21日 23時45分52秒 | Weblog

 北朝鮮の金正日総書記が亡くなった。今年は「アラブの春」から始まる独裁者の幕引きの年でもあった。金正日総書記とは2つしか歳が違わないので、なぜか親近感を持ってしまう。独裁国家の長に生まれた宿命なのだろうが、毎日気持ちよく眠れた日はないのではないかと思う。友だちが「これで、軍が動いたら北朝鮮も崩壊だろう」と期待を込めて話していた。確かに軍人は武器を持っているだけに、現権力者に反逆を企てることも充分できるだろう。

 

 軍人たちの父母や家族も上層部にいなければ大変苦しい生活を強いられているだろうから、政府に反旗を翻す連中がいないわけではないだろう。けれども、軍人が部隊を挙げて反乱するとなれば、戦闘は避けられないだろう。多くの犠牲者を出せば、やがて中国軍が出動し、そうなれば韓国軍やアメリカ軍も動かざるを得なくなる。朝鮮戦争の再来になるような事態は避けて欲しい。

 

 私が反乱軍ならば、韓国との国境線を制圧し、北朝鮮の人々を南へ脱出させる。北の人々が自らの意思で南へ脱出することを中国は軍事力で阻止することは出来ないだろう。そうなれば、人々が自らの力で金正恩体制を崩壊させるだろう。もっと楽観的には金正恩氏自身が南北融和をあるいはもっと積極的に南北統一を自らの身の安全を担保に言い出すかも知れない。まあ、いずれにしても独裁国家は長続きしない。

 

 昨夜は井戸掘り仲間の忘年会で、こんな国際状況から井戸掘り技術論まで幅広い話題で盛り上がった。何の私はどうしたわけか、お腹が痛み、胸が苦しくかった。恋煩いが進んで、膝まで痛くなって、もう生きているのか死んでしまったのか、分からないほどだった。家に帰っても、NHK火曜ドラマ『カレ、夫、男友達』の最終回なのに、見ることもなく寝てしまった。見なかったけれど、「愛の形は様々なのよ」という結論くらいは想像がついた。

 

 そして今日、ひとりで1月の大和塾の案内作業に一日中追われた。宛名ラベルの印刷が出来ず、昨日までは四苦八苦だったが、何とか印刷に辿り着けた。印刷できた宛名ラベルを封筒に貼り、案内文を封筒に入れ、口を折って糊付けする。以前は孫娘が「私はこういう単純作業が好き」と言って手伝ってくれたが、もうその手の助けがこない。今日中に何とかやってしまいたい、そう思いながら、お昼過ぎには作業をしながらテレビも観た。

 

 BSテレビで、エリザベス・テイラーとポール・ニューマンの『熱いトタン屋根の猫』をやっていたのだ。『エデンの東』などもこの頃の映画ではないだろうか。アメリカ映画が最も輝いていた時代だろう。家族や愛そして欲望を真正面から取り上げている。映画でありながら舞台のように、場面転換があまりない。当然、俳優たちの演技力が問われることになる。原作者のテネシー・ウィリアムズは『欲望という名の電車』など、重い作品が多い。

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どこかで必ず終わりが来る

2011年12月19日 18時50分22秒 | Weblog

 「人生楽ありゃ苦もあるさ 涙のあとには虹も出る」でおなじみのテレビドラマ『水戸黄門』が今日で最終回を迎える。カミさんのお母さんもこのドラマが好きだったし、私が行く床屋のオヤジも必ず見ていた。由美かおるさんがいつから出ていたのか知らないが、入浴シーンは話題にもなっていた。男たちは肩だけでも見たいものなのだ。黄門を東野英治郎さんや西村晃さん、それに石坂浩二さんが演じていた。今は里見浩太郎さんで、カクさんやスケさんの役もいろんな人が演じてきた。変わらないのは筋書きで、必ず「この印籠が目に入らぬか」で落ちがついた。

 

 1226回も放送された国民的時代劇だそうだ。「42年の歴史に幕が引かれることになった」と新聞は報じていた。「この印籠が目に入らぬか」と言うなら、なぜもっと早く出さないのかと言った人もいたけれど、いつ出すのかと思って見ているから面白いのだろう。勧善懲悪の単純なドラマだけれど、お年寄りや子どもたちに人気があるのはきっとその単純性だろう。悪いことをした人は必ず罰せられるから安心して見ていられるのだ。それにしても、「印籠を見せて副将軍だと言っているのに、悪い連中が黄門に切りかかっていくのは解せない」などとつぶやいたら、「だからこそドラマだからじゃーないか」と言われてしまった。

 

 長く続いてきたものがここに来て、いくつか無くなっていく。書店から小学館が発行していた『小学六年生』が消えたのは昨年だった。『小学何年生』は戦前から発行されていた雑誌で、全ての学年が揃っていたが、今残っている3年生と4年生も来年には廃刊になるという。私が子どもの頃も書店に並べられていたが、我が家では買うことはなかった。私が欲しがらなかったからかも知れない。私は小学校の帰り道、3軒ある書店を毎日回って立ち読みしていたので、雑誌の中身は知っていた。漫画も友だちが見せてくれる以上に欲しいとは思わなかった。父が学校から持ってくる子供向けの年鑑の方が面白かった。

 

 それでも中学生になってからは『中学生の友』を買ったような気がする。買ったけれど、どうも熱心な読者ではなかった。その頃、雑誌には「文通しませんか」というコーナーがあって、可愛い名前の女の子をみつけて手紙を出したことがあったが、どこの子だったかも覚えていないくらい、長続きしなかった。高校生になると大学進学のための雑誌、旺文社の『蛍雪時代』が図書館や教室にも置かれていた。予備校のような高校に嫌悪していたので、私は絶対に見るものかと決めていた。『蛍雪時代』は今もまだ発行されているらしい。

 

 テレビでいまだに続いているのは日曜日の『サザエさん』くらいか。サザエさんもカツオくんもみんな少しも年を取らないし、全く成長しないから安心して見ていられるのかも知れない。『水戸黄門』が必ず悪い奴を罰するから気持ちがいいのであれば、『サザエさん』は失敗ばかりで身近な存在というところがよいのだろう。「継続は力なり」という。継続できてこそ本当の力がつくられるというわけだ。しかし、継続はマンネリになりやすい。同じものが長々と続くことはあり得ない。どこかで必ず終わりが来る。

 

 明日は井戸掘り仲間の忘年会のため休みます。

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年末の大掃除

2011年12月18日 18時42分21秒 | Weblog

 12月もあと14日で終わってしまう。今年も残り2週間しかない。年賀状の図案は出来たけれど、どうしてこういつもやっつけ仕事になってしまうのだろう。絵描きを目指したのだから、もう少し納得いく絵が描けないものかと思う。印刷屋さんが「似顔絵もそっくりでしたけど、器用ですね」と褒めてくれるけれど、絵描きなら普通のことで、むしろ才能がないことや余裕がなかったことから絵描きの道は諦めた。もし、70歳を超えても元気ならもう一度絵筆を持とうと思ってはいるけれど、そんな夢のようなことは実現しないだろう。

 

 今日はマンションの年末大掃除だった。私と一緒に自治会の役員をやってくれた人がとてもきれい好きで、みんなと一緒に行動することが大好きで、年末の大掃除を提案し、以来ずっと続いている。私も組長だからサボるわけにはいかず、午前9時30分の集合に合わせて出て行ったら一番だった。前日に庭木の手入れをしてくださった人がいて、その切り落とされた枝を束ねて指定場所まで運ぶ作業を行った。相変わらず高齢者が多いけれど、見ると若いお母さんたちもたくさんいる。それに子どもたちが結構参加していた。

 

 私は役員ではないのだから表に出ないようにと思っていたのに、指揮する人がいないので、「ゴミ袋を持ってきてここにある枝を袋に詰めて」と子どもたちに指示してしまう。「何しましょう?」と声をかけてくるお母さんもいたから、「じゃあ、すいませんが枝を束ねられるように集めてください」と言い、子どもたちに「それがすんだから次はこの枝を縛るのを手伝ってね」と声をかける。「はーい」と子どもたちも素直だ。「5年生はよく働き、優秀だね」と褒める。みんなはますます進んで手伝ってくれた。私もよく働いたので、汗をかくほどだった。何度もゴミ袋を集積所へ運ぶうちに次第に右膝が痛くなってきた。11時半、そろそろ終了の時間だが、それを告げる人がいない。「私が言うことではないけれど、ご苦労様でした。これで終わりましょう」と声をかける。

 

 役員さんも何人かいるはずなのだが、誰がどこでどう行動するのか、役割分担がはっきりしていないようだ。会長さんは集会所の中にいて出てこないし、副会長さんはお正月のどんと焼き用の木材を切っている。行事担当の若い役員さんだけがウロウロしている。それにしても、このマンションはみんなで自分たちの住居をきれいにしようという意識が高い。出てこない人もいるけれど、出てきた人は不平も言わずよく働く。だからこそ住みよいとみんなが感じているのだろう。

 

 夏の暑い日に、うまく歩けなくなって倒れてしまった人を助けたことがあったが、その人から「あの時はありがとう」と今日、声がかかった。ずいぶん前に自治会長までされた方で、以前はよく話もしたが、私が会長の時に「保険を見直したい」と言って以来、口を利いてもらえなかった。その人は保険の仕事をしていて、無理して安い保険料で保険をかけていたのに見直すとはという思いが強かったかのだ。たとえそうした事情があるとしても、見直しの作業は必要だろうと思い、他社からも聞いて保険料は下げることが出来た。

 

 しかし、今日はとてもにこやかで元気そうだった。あの時のわだかまりはもうすっかり消えていた。人は出会いと別れを繰り返しながら、人生の大切なものを蓄えていく。膝は痛くなったけれど、気持ちは晴れやかになった。

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旧約聖書は恐ろしい話が多い

2011年12月17日 15時59分58秒 | Weblog

 若い頃は、旧約聖書を読んでみたいと思ったことはなかった。ふと、キリスト教を知るためには旧約聖書も読んでみた方が良いのではないかと思った。そんな時に書店で『旧約聖書 天地創造』という本が目に入った。こういう大雑把な見方は間違いなのかも知れないが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も旧約を原点にしている。キリストは説教の中で、旧約の話をよく取り上げている。多分、当時としては旧約を知っていることは立派な人の象徴だったのだろう。

 

 「創世の書」の第1章が「神は天と地をつくられた」で始まることは誰もが知っている。それから神は「光あれ」と仰せられ、光を昼と呼び、やみを夜と呼ばれた。5日目には水の生き物と空の生き物をつくられ、6日目に「地にさまざまな種類の生き物が生まれいでよ」と仰せられ、最後に「海の魚と、天の鳥と、家畜と、野の獣と、地に這うものすべてを、これをつかさどる」者として人間をつくられた。神が人間のあばら骨で女をつくって、人間のもとに連れて行くと、人間は「さて、これこそ、わが骨の骨、わが肉の肉」と言った。「だからこそ、人間は父母を離れて、女とともになり、二人は一体となる」。

 

 宗教書というよりも叙事詩である。フェミニズムから見ると、男性から女性が生まれたというのは男尊女卑の思想だと言うことかも知れないが、男が先だろうと女が先だろうと、一向に構わないことだろう。男を中心としたのは当時の一般的な考え方にすぎない。そんなことよりも男と女は骨と肉とを分け合った存在で、いつかは父母を離れ、「女とともなり」逆から見れば「男とともになり」、「二人は一体となる」定めというのは実にうまく言い当てている。

 

 けれど、旧約聖書は恐ろしい物語だと言っていい。アダムとエバの間にカインとアベルという兄弟が生まれた。弟のアベルは要領がよくて神に好かれた。カインは言い争いからアベルを殺してしまう。神がカインに「弟のアベルはどこにいるのか」と聞く。カインは「知りません。私は弟の番人ではありません」と答える。神は「お前は大地のさすらい人となり、流れ者となるであろう」と仰せられ、エデンの東へ追放した。人間の歴史の最初が兄弟殺しから始まるのはなんという皮肉であり象徴的だろう。人間は今なお、兄弟で殺し合っているのだから。

 

 その後の、ノアの箱舟の話も堕落した人々を滅ぼすという話だからやはり恐ろしいし、ソドマとゴモラという町に「硫黄と火の雨を降らせた」という話もある。このソドムの町から神によってロトとその家族は助けられるが、ロトの妻は振り返って町を見たために塩の柱にされてしまう。残ったのはロトとそのふたりの娘だが、「私たちのところに来てくれる男の人はいない」からと、「父にぶどう酒を飲ませ、床をともにし、父から子種を受けましょう」とある。兄と妹、義理の父と娘、町を救うために敵の大将との情交、あるいは不倫、旧約聖書にはそんな話がいっぱい出てくる。

 

 レンブラントが描いた「パテシバ」は豊満な体をした女性が体を洗ってもらっているところだが、これからダヴィデ王に召されるところらしい。彼女の夫はダヴィデ王の部下である。そうした事情を知って西洋の絵画を見ると、そうなのかと思うことも多い。まだ、アブラハムの時代までしか読んでいないが、すでにエジプト人やギリシア人なども異邦人として出てくる。結果を知っているからか、歴史は面白い物語だ。

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