友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

アメリカ下院で金融安定化法案が否決

2008年09月30日 21時50分09秒 | Weblog
 今朝、テレビを見ていたら、アメリカ議会の下院で政府提案の金融安定化法案が否決されたと報じていた。議会への提案の前に、政府は共和党と民主党との事前打ち合わせを行い、法案を修正して提案しているのだから、この結果には少々驚いた。党の執行部が了承していても、個々の議員は自分の判断で賛否を決するアメリカ議会は日本の議会とは違う。日本ならば党拘束に違反したとして反対した議員は厳罰を食らうことになる。

 法案に反対した中には与党である共和党議員が相当多いというのも面白い。ところで、民主党はどうなっているのかと知りたい気がした。アメリカ議会では政党に属していても、個々の議員の判断が優先されるとしても、そもそも民主党執行部はブッシュ政権の金融安定化法案になぜ賛成なのか、不思議だ。法案に反対した議員たちは、11月に行なわれる下院議員選挙を意識し、有権者が税金を限られた企業に投入することに反対だと感じていると解説していた。

 資本主義社会の経済活動は自由が原則だから、国家が介入すべきでないというのがアメリカ政治の伝統であろう。1929年の世界恐慌の時も、時のアメリカ政府は不介入の方針だった。そのため手遅れとなって世界恐慌へつながったと経済学者は分析するけれど、資本の流れを人間が本当にコントロールできるのか、私は直感だが出来ないと思っている。

 今回の金融不安に対して、各国政府は協力して公的資金を投入し、金融の安定を図るというが、資本主義社会が背負う運命はなるようにしかならないと私は思う。資本主義の本来の姿である生産と消費の世界とは全く異なる世界が金融の世界であろう。何しろ生産が伴わない、金だけが一人歩きする不思議な世界なのだから。

 私がよくわからないのは、日本のバブル崩壊の時もそうだったけれど、そうした結果を招いてしまった企業の責任者は全財産を没収され、ホームレスになってもしかるべきなのに、退職金までもらっていくのはどういうことなのか。アメリカの金融企業「リーマンブラザーズ」のトップは東京ドームよりも広い敷地に住んでいるという。破綻した全ての企業幹部の財産を投入し、なおかつ不足する分に公金を投入するならまだ理屈が合うが、それでも金融危機は回避できないであろう。

 実体のない数字だけの世界が破綻したのだから、行き着くところまでいくしかないというのが私の直感だ。世の中には頭のよい人はたくさんいるから、コンピュータを駆使して、何をどうすることがこの経済危機を乗り越える方法だと見出してくれるかもしれない。それでも、人間が気象をコントロールできないように、時間の流れをコントロールできないように、人間の力の及ばない流れをコントロールすることは出来ないだろう。

 人間は残念ながら力の小さな存在だ。これからは謙虚に生きなければ生存はできないだろう。
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願い事

2008年09月29日 20時01分02秒 | Weblog
 朝から雨が降っている。台湾辺りにいる台風の影響らしい。この台風は進路を東に変え、日本へと向かってくるようだ。それでも、麻生首相ではないが「最近、台風がなかなか来ない。これは以上気象なのかもしれない」とは誰もが思うことだが、実際に台風が来たならば被害が生まれるわけだから、来ない方がよいのかもしれない。

 子どもの頃なら、「どうぞ台風が来ますように」と祈るところだ。けれどもどういうわけか、そう願う時、台風は日曜日とか夜間とかに来てしまい、学校が休みになることはなかったように思う。自分がたとえそんなよこしまな願いであっても、人は叶いますようにと「願掛け」をする。毎朝必ず東の空を見て手を合わせますとか、好きなテレビは見ませんとか、なかなか実行しにくいことを条件にしてお願いする。

 そこまでして願い事が叶う時は、まるで神聖な事を成し遂げたような気分になったものだ。それを今、具体的に何だったのか思い出そうとするのだけれど、思い出せないがそんなことがあったことは覚えている。それとは逆に、映画がみたい、いや映画を見に行くのはダメだ、どうしようと迷う時があった時、硬貨の表が出れば行く、裏が出ればやめると決めて、空中に放り投げて手のひらで受け取り、表裏を決めてみる。表が出ればよし、裏が出て素直に従う気持ちがなければ、自分の心は行きたいといっているのだからと映画に行くことにしていた。

 何か、自分だけの意思で決めるのではなく、いかにも意思を超えた力が決めてくれることに頼ろうとする。人にはこんな風な弱さがあるように思う。「雨が降っているから」とか「占いでよくなかったから」とか、いろいろやめる根拠を探そうとする。私は今在るのは、全て私自身が選択してきた結果だと受け止めるようにしている。なかなかそう言っても受け止められない時もあるから、やはり受け止めるように努力している。そしてまた、今在ることを幸せだと受け止めるようにもしている。たとえどんなことになろうともそう考えるべきだと決めている。

 人は生きていれば、幸せも不幸せも巡ってくる。こんなことを考えるように人は作られているのだから、まさしく人は幻想の中にいる。動物が本能のままに生きているのなら、人は自分が作り出した幻想の中に生きていると言ってよいだろう。そしてなお悲しいことに、いやだからこそ幸せなのだが、人は自分ひとりでは幸せになれない。人の存在が絶対に必要な世界に生きているのだ。
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『恋空』

2008年09月28日 22時01分55秒 | Weblog
 昨日、今日とずっと孫娘と二人だけの食事が続いている。その食事の時間に孫娘はテレビドラマになった『恋空』を観たいと言う。映画の方はテレビで既に孫娘と観ているが、テレビはもっと小説に忠実に描いていると言うのだ。確かに映画では出てこなかった場面がテレビドラマではよく出てくる。それでも全体の印象は映画もテレビもそんなに大差ないように思った。テレビの方は長いから細かな描写が出来ているけれど、それが展開の上で必要だったのかとなると、よくわからない。

 映画では、大学生の男の子が大きな存在に感じたけれど、テレビドラマでは小さな存在になっていたことが気になった。主人公の美嘉は高校1年の時にヒロと出会い恋してしまう。そして妊娠し、二人は結婚を約束する。けれども美嘉は流産し、そしてヒロはガンに侵される。二人の子どもは死産となり、ヒロはガンを告知されて美嘉から遠ざかる。そして美嘉は新しい恋人ユウに出会う。

 これが大雑把な『恋空』のストーリーだ。ケイタイ小説というだけあって、若い人向けのテンポの速い恋愛小説だ。恋愛小説と書いたけれど、恋愛が内包する苦悩や痛みがちょっと私たちの時代とは違うものがある。そんなことを嘆いていても始まらないので、中学2年生の孫娘と一緒になってこのドラマの主人公になって考えることにした。

 美嘉は、初恋の人ヒロを忘れて新しい恋人に「ずーっと一緒にいる」と約束する。二人は幸せな大学生活を送っていた。ところが「(自分を捨てたヒロが)もう死ぬかもしれない。ヒロは美嘉に会いたがっている」と聞かされ、動揺する。その時の女友だちのセリフが心憎い。「美嘉、あなたの心のままに動けばいいのよ」。それはヒロに会いたいという気持ちと現在の恋人に申し訳ないという気持ちの葛藤に対する答えを示している。

 人はどんな時も、理性と感情の対立がある。理性というと聞こえはいいがそれは現実的な損得であり、感情は逆にドロドロとした欲望である。現実的な損得を考えれば、大学生の新しい恋人といる方がはるかに幸せになる確率は高い。けれども欲望はバカでどうしようもないヒロを求めているのだ。いきなりキスし、いきなり体の中に入ってきた男のヒロが忘れられないのだ。男と女はおそらくそんな風に不可思議な関係なのだろう。

 人を好きになるということは、数学の答えを解くようなキチンとした定義があるわけではない。『アンナ・カレリーナ』の主人公のように、有能で将来性の高い夫を裏切り、恋に落ちることだってある。恋は盲目というけれど、人が好きになるのは理性ではなく感情であるのだから、損得など考えられない。恋は激しいものほど目先が見えないのはこのためだ。
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中山発言の品格

2008年09月27日 22時45分36秒 | Weblog
 この地方の小学校では運動会を、今日と明日に行なっている。我が家の隣りの小学校でも今日は運動会で、朝早くから先生たちが会場づくりの総仕上げを行なっていた。マンションから見ていると運動会の様子が手に取るようにわかる。開会前には児童たちの席の周りには既に多くの保護者が集まり、保護者席は色とりどりのシートが敷かれ、両親ばかりか姉妹や児童の祖父母までが応援にやってきていた。

 かつてまだ、地域の結びつきが強かった頃は、小学校の運動会はまるで地域のお祭りのようだった。親たちは弁当持ちで応援に駆けつけ、昼食は子どもたちを囲んで食べたりしていた。そんな運動会になりつつあるように思う。両親が子どもたちと一緒に行なう競技もあり、一段と声援が大きかった。中には写真やビデオに夢中で、子どもたちが競技が見えないほど前に出てしまう親もいるが、以前よりは「道徳」が行き届いているように思った。

 中山国土交通大臣は「日教組は日本の教育のガンだ。私は日教組解体運動の先頭で戦う」と発言していた。なぜ、日教組が日本の教育のガンなのか。具体的には「日教組は道徳教育に反対している」ことを挙げていた。詳しくはわからないが、確かに日教組は道徳教育に反対しているであろう。組合としてのスローガンではあるが、現場の教室では道徳教育は行なわれている。もちろん先生の中には、道徳教育に反対だと思っている人はいるだろう。心の中で思うことを「ケシカラン」ということは許されることではない。

 中山大臣は東大を卒業し大蔵省に入省したエリートだ。人は何を考えても自由であるし、何を発言してもそれ自体は自由だけれど、自分がどういう立場かでその発言は重さが違う。さらに思うのは、日教組は教育のガンだと決め付けるけれど、「なぜ・何が」を明らかにしていない。中山大臣が問題にするほどの力が今の日教組にはないと私は思っている。組合員は減少化にあり、スローガンを掲げていても具体的な戦いを展開できる組織力はない。それでも日教組が日本の教育のガンというなら、中山大臣が理想とする教育を語るべきだろう。そして日教組がどのように問題なのかを具体的に明らかにすべきだ。

 それにしても中山大臣の発言に対する日教組の書記長の対応には驚いた。記者団からの質問に、「コメントの仕様がない(ほどあきれている?)。明日にでも大臣にお会いして真意を確かめたい」と語っていた。日本の教育のガンなどとヤリ玉に挙げられていながら、この書記長には怒りが感じられない。書記長は中山発言の問題を分析できる能力がないのだろう。これが日教組の現実なのだと思う。

 現場の教師たちは子どもたちのことを第一に考え、骨惜しみすることもなく、一生懸命に働いている。ところが「教師は世の中を知らないから」と、民間会社に派遣し研修させたりするケースもあるそうだ。教師だから見識が狭いわけではない。普通のサラリーマンであっても、自分の仕事のことには詳しくてもそれ以外のことはよく知らない人はたくさんいる。教師は一般社会では役に立たないなどと言う人もいるが、役に立たない人はどこにでもいる。教師が普通のサラリーマンと違うところは、損得を考えないところだろう。子どものためにどうすることが一番良いかしか考えないためだ。

 それを間違っているというなら、教育は成り立たないだろう。道徳教育を問題にする前に、官僚たちの不道徳の現状を正すことがまず必要だろう。政治家たちの腐敗の現実をまず正すべきだろう。
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小泉純一郎氏の引退表明

2008年09月26日 21時32分55秒 | Weblog
 小泉純一郎氏が今期限りで引退するそうだ。彼ならば当然だろうと思う。構造改革を進めておきながら無責任だと言う人もいるが、責任などというものはもともと持たない人だと思う。郵政民営化や道路公団の民営化など、構造改革に取り組んできたと評価するが、私は小泉氏が政治信条に基づいて行なったとは思っていない。郵政にはお父さんの時代からの怨念があり、規制緩和は竹中さんという経済学者の口車に乗っかった。何がしたかったのかといえば、麻生さんと同じで、首相になりたかったというのが本音だろうと思う。

 確かに、政治家と官僚の馴れ合い政治にはうんざりしていたであろう。「自民党をぶっ壊す」くらいでなければ自民党は政権を維持できないと感覚でつかんでいたと思う。小泉氏は理論家というよりも感覚の人であったし、「国家」に固執する人だと私は思っている。理屈を大事にする人ならば、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」とか、「(イラクに)自衛隊が行くのだから安全に決まっているでしょう」とか、「格差なんて世界中にある」とか、こういうことを平気で口に出せないと思う。

 私が首長選挙に立候補した時、支援してくださった会社の社長から「あなたは変人“小泉さん”と一緒だね」と言われた。社長は「勝てないかもしれないのに、自分が挑むことで地域を変えようとしている」と評価してくれたのだ。私は首長にはなれなかったが、その後、小泉氏は田中真紀子氏と組んで自民党総裁選挙に勝利し、首相になった。外相に任命した田中氏が官僚とトラブルを起こすとすぐ解職してしまった。変人は恩義とか人情とかを持たない冷徹な人であった。郵政民営化に反対した自民党議員に対して刺客を送る徹底した冷血漢であった。

 私も変人であるが、しかし小泉氏にはなれなかった。引退を表明した後援会の席で、小泉氏は「(次男の)進次郎を出馬させたい」と頭を下げたという。利権に群がる自民党体質は批判できたが、2世3世議員を生む自民党体質の問題点は全く把握できなかった。おそらく小泉氏が利権と深く結びついていたなら、これを批判することも出来なかったであろう。理想の政治があり、それをどのように実現するかというよりも、感覚で政治を引っ張ってきた人だと私は思っている。

 だからこそ、今回の総裁選挙でカヤの外に置かれたこと、自分の影響力などというものがほとんどないこと、そして何よりも自分と一緒にやってきた仲間と思っていた連中が、自分の政策を継承するのではなくむしろ否定するのを見て、「ここが引き時」と感じたのだろう。麻生首相より幹事長への就任を要請され、「晩節を汚したくない」と断った同じ派閥のドン、森喜朗氏を意識したのかもしれない。小泉氏の美学と賞賛する人もいるが、むしろ敗者であることを認めたくない小泉流と言うべきだろう。
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孫娘の体育大会

2008年09月25日 22時19分15秒 | Weblog
 今朝6時に隣りの小学校の運動場を見ると、女の子が2人、グランドで身体を動かしていた。見ている間にもう2人がやってきて合計で4人となった。その4人がグランドの2箇所に分かれていった。400メートルリレーのバトン渡しの練習をするのだ。孫娘とその友だちに違いないと思った。それにしても今日は彼女たちの中学校の体育大会なのに、まだ練習をして行こうとするその根性にビックリした。

 それで、学校から帰ってきた孫娘に「今日はどうだった?」と聞いてみた。孫娘は良い結果ならばニヤニヤするし、結果がよくなければご機嫌が悪いから、誠にわかりやすい。この時の彼女の表情は厳しいものだったから、期待した結果が出せなかったのかと察しがついた。彼女が一番出したかった800メートル走は1位であったが、新記録にはならなかった。と言うことは、母親と同じ欄に名前を載せたいとしていた彼女の希望は実現できなかったのだ。

 友だちばかりか校長からも「残念だったな」と声をかけてもらったようだ。前半飛ばしすぎて後半が思うように走られなかったと反省していた。水泳に加えてこの陸上競技の練習が重なり、疲労が溜まっていたのではないかと思う。土曜日だったか、水泳の練習中に左足が突っ張ってしまい、歩くことも出来ない状態にまでなったのに、翌朝にはまた早朝からグランドを走っていた。頑張ることは大切だけれど、身体を壊すようなことがあれば元も子もない。充分に睡眠時間をとって疲労回復に努めないとダメだよと言っておいたが、結果を見ると疲労回復は出来ていなかったようだ。

 それでも、400メートルリレーはバトン渡しの練習の効果があって、ダントツの1位だったそうだ。体育大会での成績も彼女たちのクラスは全体で1位になったそうだから、「よかったじゃないか」と声をかけるが、自分が思い描いていた結果が出せなくて、どうにも面白くないといった様子だ。「まあ、今日の反省を活かして来年に新記録を出せばいいのではないの」と言うと、「ウン、来年は絶対にやってやる」と決意を示す。

 本当にすごい奴だと感心する。どこまでこの純真な感情が維持できるのだろう。電車で見かける女子高生は、まつげをつけ、ピアスをし、口紅を濃く塗っている。そんな風にしか自分を見せられないことが年寄りの私には情けなく思えるが、孫娘はどんな高校生になるのか、2年後には必ず結果があることが少し怖い気もする。
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姉からハガキが来た

2008年09月24日 22時16分20秒 | Weblog
 78歳の姉からハガキが届いた。和紙のハガキはきれいな文字で埋まっていた。相変わらず字が上手だ。高校生の時だったか、単行本と文庫本は同じものだと思っていて私は姉から注意を受けたことを今も覚えている。姉と亡くなった兄は、子どもの頃、父はとても厳しい人だったようで、毎日書を何枚も書かされたと姉はよく言っていた。姉がきれいな文字を書くのはこの積み重ねがあったからだ。姉のハガキは次のようだった。

 「ごぶさたしています。暑かった夏もなんとなくすぎて、秋の気配が感じられる季節となりました。お元気ですか。私も腰が痛かったりといろいろで、毎日グズグズと過ごしています。(略)奈良の薬師寺で秋川雅史さんのコンサートが有り出かけました。東塔に三日月がかかって大変印象的で、すてきなコンサートでした。又お目にかかったときに色々とお話したいと楽しみにしています。では又」

 姉からのハガキで思い出すことがもう一つある。姉は交通事故に遭い生死をさまよった末に何とか命が助かったことがある。そのリハビリのために信州の温泉地に逗留していたが、その宿から送られてきたハガキはまるで小学生が書いたような文字だった。私は姉が本当に回復できるのか不安だった。

 姉とは歳が14年も違う。私が始めて姉と出会った時はもう姉は結婚していて、私が遊んでいた時にどこかの女の人が私にお菓子をくれた。そのことを母に知らせようと家に帰るとその女の人が家にいて、ビックリした。それが姉だった。それでも矛盾するけれど、姉が通っていた女学校の文化祭か何かで、姉が琴を演奏していた記憶もある。もしそれが本当に正しい記憶なら2歳か3歳の時だ。

 姉の家では朝食に目玉焼きに牛乳にハムにトーストを食べていた。それが目新しく、私は母に「姉さんのところの方がよっぽどいい」と言ったことがあった。母は怒って箒だったか物差しだったかで私を叩こうとした。私はビックリして逃げたけれど、母はどこまでも追いかけてきた。母は私の身勝手さを正したかったのだろう。母は陽の人だったが、正しいことと間違ったことはハッキリとしていた。

 年老いて姉はますます母以上になってきた。奈良の寺々を回りたいという姉の願いに応えなくてはと思いながら、なかなか実現できずにいる。そろそろ実行しないと今度は姉に叱られそうだ。
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今朝は寒いくらいだった

2008年09月23日 20時00分17秒 | Weblog
 今日は平年を3~4度も上回る気温だったのに、なぜか私は鼻水とクシャミが止まらない。そういえば昨夜は左目が痒くて、夜中に目が覚めた。窓を開け放しにして寝ていたので、ちょっと寒いなと思ったがそのまま眠ってしまった。今朝は6時前に起きた。ルーフガーデンに出る。気温は測っていないが、おそらく20度くらいしかなかったのではないだろうか。風もあって、長袖のシャツを着ていても寒かった。

 この時期になって、盛んに咲き始めたブルーの朝顔がまたたくさんの花を咲かせている。風で痛んだ花や葉を摘み取り、落ち葉を掃き集め、水遣りを行なう。隣りの小学校の運動場を眺めると、一人の女の子がグランドを走り、もう一人の女の子が計測している姿が見える。中学2年の孫娘とその友だちだ。二人は今秋の中学校の体育大会に備えて早朝からこうしてグランドで走っているのだ。友だちという女の子の方が背がはるかに高いから、孫娘が先生にコーチされているように見える。

 ところが、よく眺めているとコーチ役は背の低い孫娘の方で、友だちの女の子の方がリードされている。グランドを3週ばかり走ると、二人は朝礼台に並んで腰を掛け、なにやら話し込んでいる。それから孫娘が促すようにしてまた走り出す。私にはとてもマネが出来ない努力だ。怠け者の私は早く決着をつけたいから100メートル走が好きだが、彼女たちが走るのは800メートル走だ。私は高校の時、400メートル走に身代わりで出場したことがあったけれど、全く無残な結果だった。

 そんな苦しい種目になぜ出場するのかとワケを聞いてまたビックリした。彼女の母親が中学時代に出した女子100メートル走の記録が未だに破られていないので、初めは「記録の更新は私がやる」と言っていたけれど、それが難しいとわかった。そこで母親の記録を塗り替えるよりも、自分も母親と同様に記録を残したいと考え、800メートル走に挑戦することにしたのだと言う。そういう考え方に驚くとともに、口先だけでなくそのために練習を重ねていることに感心をした。

 今日の午後、同じプールに通う選手コースの女の子たち7人が我が家に集まってきた。詳しいことはわからないけれど、彼女たちのコーチが怒ってばかりいることに対して、どう対処するかを話し合っているようだった。私は孫娘にオリンピック選手になってもらいたいとは思わないし、今日集まってきた女の子たちだってそれほどの才能がある子はいない。コーチが何を求め、なぜ怒っているのか、わからないけれど、一生懸命に練習し少しでも自己記録を伸ばして欲しい、その気持ちが「怒る」形になっているのだろう。

 「やめないよね!」とみんなで確認し合った後で、「大きな声を出そう」とか「練習がバラバラにならないように、揃ってやればいいんじゃない」とか、ワイワイやっていた。どんな結論に達したのかわからないが、少なくともコーチの期待に応えようとする努力がいじらしい。

 怠け者で、秋になると目がショボショボ、鼻水がジュルジュル、頭がボーとしてしまう私がとても及ばない世界だ。今日は早めに寝て、明日は元気が戻れるように祈ろう。
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麻生氏が新総裁に

2008年09月22日 21時45分37秒 | Weblog
 予想通り自民党総裁に麻生太郎氏が決まった。小池氏も石原氏も思ったほど票は伸びなかった。麻生票は他の4人の票を合計の2倍以上あり、圧勝であったばかりか、地方票の95%を獲得しているそうだ。茶番劇だとはいえ、よく出来ているし、脇役の4人が登場しなければ、ここまで盛り上がらなかったであろう。脇役とはいえ4人は、自民党の次期総裁候補として名前を売ることも出来たのだから、まんざらでもない腹だろう。

 けれどもそれは、自民党政治が今後も続くという前提の話である。安倍氏に続いて福田総理までも総理の職を投げ出した。それにこれだけ防衛省・農水省・厚生労働省と不祥事が続いたのだから、それだけでも自民党政治に終止符を打つべきだろう。ところが有権者の心は変わりやすい。ほんの少しの風向きで絶対ダメがもう少しやらせてもいいか、民主党には政権能力がないみたいだから、などと気が変わってしまう。

 ましてや今までの選挙と同じように、地域のために働いてくれる人が「よい先生」と言われ始めると地域エゴが働いて、正義も公正もなくなってしまう。麻生氏が「地方を回って感じたことは、不景気だということ」と強調していた。国民がみんな不景気に困っているのか、不景気に怒っているのか。そもそも不景気に象徴される現状は、なぜ生まれてきたのか、自民公明の政権はどんな政策を取ってきたのか。有権者は事象の原因やその構造を突き止めることまではしない。それを解き明かすのは政治家の仕事だ。

 麻生新総裁の演説をテレビで見たけれど、小泉氏の演説のように歯切れがいい。調子のよい人はどうも胡散臭い。さてそれでもわが国の有権者はおそらく早々と行なわれるであろう衆議院選挙で、麻生氏率いる自民党候補に投票するのだろうか。見ものだ。
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なんともやりきれない

2008年09月21日 18時39分09秒 | Weblog
 なんともやりきれない。外国から輸入した米にカビが発生したり残留農薬があったりして、食べられなくなったものをなぜ農水省は業者に売ったのだろう。それなのになぜ責任があると思わなかったのだろう。以前にも賞味期限切れとか農薬が付着した食品や食物が問題になったことがある。食べることが危険であるなら焼却処分をすればよいし、危険はないけれど気分の問題と言うなら個人が消費することは自由にすればよい。

 おそらく、危険はないけれど気分の問題と農水省は判断したのか、個人の消費でなく業者に「工業用」という名目で売り渡した。業者は「工業用」を選別したり加工したりして「食用」にして転売した。農水省はこの販売に不安を抱いていたはずだ。それにしても90回もの立ち入り調査は、事前に調査日を調整していたというから、調査の後は接待であったであろうと推測するのは当然だろう。

 私自身は賞味期限切れも残留農薬もそんなに気にならない。もちろん食べたならば死ぬというようなものであれば、進んで食べようとは思わないけれど、そんなに神経質になることはないのではないかと思っている。現代人は多かれ少なかれ、流通食品を食べているのだから、食品の危険はあるだろう。食品が金儲けである限りこれもまた当然だろう。

 そんなことよりも、安い事故米を仕入れて高く売ってしまうことの人間の「サガ」が情けない。売れ残った商品を再加工して、作りたてのように見せかけたり、客が食べ残したものを再度食器に盛り付けて出したり、産地の違う牛肉を偽って売ったり、どれもこれもそうすることで「利益」を求めている。どうして人は金儲けをしようとするのだろう。

 期限切れの食品や産地の違う食品を偽装して金儲けをすることは厳しく非難されるのに、金融商品の売買で、たとえば特定の株をあるいは特定の商品を買い占めて高値にさせておいて、買値と売値の差額で莫大な利益を得るような経済活動はなぜ非難されないのか。お金でお金を生むような金融なる仕組みがどうして堂々と許されているのか。

 人間という生き物は、「社会的存在」などといわれるけれど、人は「社会」を搾取してしか裕福になれない。古代ギリシャが繁栄したのは、戦闘でたくさんの植民地と奴隷を手に入れたからだ。そこで彼らは偉大な芸術や哲学を作り上げた。労働から解放された結果だが、それは植民地と奴隷があったからだ。

 現代、私たちは誰も自分が奴隷だなどとは思っていない。私たちは皆自由で平等である。でも何かおかしな気がする。私たちは働きつまり生産し、そして生産したものを消費する。私たちの消費にはいつも危険が付きまとう。私たちはなんだか自由で平等である奴隷のようだと思うのは偏見なのだろうか。
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