友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

政治家になれなかった

2007年07月31日 23時39分30秒 | Weblog
 カミさんは私よりもしっかりとテレビを見ている。今度の参議院選挙で、どの候補者がどんな選挙活動を展開したのか、実によく研究している。あのね、これが10年前ならば役に立ったけれど、もう私は選挙に出ることは無いから、そんなに目を輝かせて見ないで欲しいね。この前会った民主党の市議は、選挙ではもちろん街頭演説が中心だけれど、実は時間のほとんどを支援者への戸別訪問に使っていたと話していた。「自分が回れなければ、カミさんが回りました」と、その若い市議は話した。

 そうした点では、私は政治家に向いていないなと思った。当選するためには何がなんでも支持者回りに徹するというこの若い政治家のようにはできなかった。ニュースレターを一軒一軒に配布して回ることが精一杯だった。自分の主義主張や自分の人柄を記したニュースレターを読んでくれれば、みんなが自分を理解し支持してくれると思っていた。実は思いたかったのだ。カミさんは教師をして私の生活を支えていたので、選挙では全く顔を出さなかった。支持者の中にはそれが不満で、カミさんは悩んでいた。そこで事務所ではお茶出しなどはするようになったが、それ以上のことはしなかった。退職した後の首長選挙でも、自分の教え子の家庭の名簿も出してくれなかったし、家庭訪問をすることも無かった。

 若い市議たちが、家族総出で一軒一軒を回ったのに、そうしたエネルギーが私たちには無かった。根本的に政治家の必要条件を欠いていたんだと、市議たちを見ていて、そう思った。民主党では鳩山さんや菅さんのカミさんが、街頭に出て候補者の応援をしたそうだ。それがかえって、候補者がかすんでしまうことになり、でしゃばり夫人と書きたてられていた。結果的には彼女たちの夫を思う気持ちが世間を動かしたのかもしれないが。

 年賀状のやり取りはあるが、ここ10年間ほど会うことの無かった友人が個展を行うと連絡が来たので、最終日になってしまったがカミさんと出かけた。丁度、本人が画廊に来ていて、いきなり握手し、喋り捲ってきたのには少々驚いた。彼が言うには、長い付き合いの中で、本当に付き合っていけるという人にだけ案内を送ったこと、フィーリングが合う人間は少ない、というようなことを捲くし立てた。無口な人のように思っていたけれど、こんなにもよく話す人だったんだと感心した。私自身もなぜか気が合う人だと感じていたが、彼は今回の参議院選挙のことから、日本の政治の現状やこれからについても、止まることなく話し続けた。信頼というか、同じ感覚の人のつながりから生まれる一体感のような安心を覚えた。

 久しぶりに名古屋の中心街を歩いて、全く私は古い人間になってしまったと感じた。確かに私も20代の頃は、長髪でひげを伸ばし、年長者から見れば、なんだこいつはという格好をしていたのだと思う。その私が、若い人たちを見るとずいぶんと感覚の違いを感じる。先ほどの市議たちを見ていても、「まだまだ若輩ですから」と言いながらも、堂々としているように私には見える。私が若い頃は、本当に未熟者で自分が頼りない存在だと感じていたが、今の若い人を見ると言葉とは裏腹になぜか自信に満ちているように見えるのはどうしてなのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

参議院選挙の結果

2007年07月30日 19時45分33秒 | Weblog
 昨日の参議院選挙の投票結果、民主党の圧勝となった。そうならなければ、「日本人は何を考えているの」ということだから、当然の結果だと言える。自民党政権に嫌気が差してきていたところに、小泉さんが現れて「自民党をぶっ壊してでも改革をやる」と気炎を上げたから、みんなが小泉さんに期待した。小泉さんは瀕死の自民党を延命したばかりか、安倍さんというウルトラ新保守主義者を首相に据えた。衆議院は小泉旋風のおかげで、自公が絶対多数を占めている。安倍さんは早速、「美しい国」造りに着手し、教育基本法の改正や防衛庁の省への昇格、国民投票法などなど、数の多数で強引なまでに法案を成立させてきた。

 「自民党をぶっ壊してでも改革をやる」とはこういうことだったのだ。それを気付かせてくれたのが、松岡農水相の自殺であり、その後も続いた閣僚の失言と失態だ。またさらに明らかなものとしたのが、年金問題だろう。ここまで馬鹿にされて、国民が怒りを爆発させないはずが無い。しかし、安倍首相は「私の内閣の政策は国民の皆様に理解されている」「首相を辞める気は無い」「憲法改正は私の内閣で成し遂げる」と言い切る。これほどまで国民の気持ちがわからない首相はいない。いや、安倍首相は国民の気持ちがどこにあろうと全く無視だ。彼には「憲法改正」しか頭には無いのだ。

 当選した民主党の候補者を見てみると、若い人が多いし、その経歴もこれまでとは違っているように思う。これまでの社会党ならば、労働組合の幹部から議員へと転進した。先日出会った民主党市議たちは、労働組合とは全く無縁の人たちだった。世の中これでよいのかと疑問を持ち、自ら進んで民主党に身を寄せ、古い壁に立ち向かっているのだ。彼らの中には野心ばかりが目に付く人もいる。けれでも、多くの若手議員は真剣に新しい政治のあり方、日本の国のあり方を考えてきている。民主党が自民党とそんなに大差無い体質の政党であると私は考えているが、若い新しい議員たちがこの体質を変革してくれると期待したい気持ちもある。この選挙結果で、民主党内の保守系議員が民主党を脱党することは無くなったが、それだけに民主党そのものの保守化はいっそう進むかもしれない。

 参議院選挙で霞んでしまったが、岐阜県可児市の市議選挙の投票も昨日行われた。この選挙では私たち「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」のメンバーが二人立候補している。二人とも苦戦だろうなと感じた。当選できても最下位を争う結果になるのではないかと危惧した。確かにそのとおりで、一人はかろうじて当選したが、もう一人は落選だった。落選した彼は「やはり地域の壁と現職の壁は厚く、地域での票が伸びなかったようです。可児市の中では地元票の少ない地域であり、地域推薦者の勢いを崩すことが叶わなかったです」と、総括していた。私たちの仲間の中には、無党派市民派を前面に出し切れない人がいるが、かえってそのために、どういう候補で何を求めているのかがわからなくて、票を集められない結果を招いている。

 有権者は新しい時代にふさわしい候補者を求めているのに、「保守的な地域だから」と決めつけて、自分の立場をあいまいなものにして当選しようとしても、有権者の心には何も響かない。有権者の3~5%が投票してくれれば当選できるのだから、自らの立場を鮮明にして、全力でぶつかることが一番だ。もちろん、選挙期間だけでの勝負ではかなり厳しいが、できないわけではない。期間に余裕があれば、地道な活動が必ず勝利を呼ぶだろう。私たち「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」は、それだけのノウハウを開拓してきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙速報

2007年07月29日 22時07分36秒 | Weblog
 昨夜のことが思い出せない。孫娘を迎えに行き、9時半くらいから一人で食事を始めた。カミさんは友人と食事会に出かけ、長女は夜勤でいない。冷蔵庫にあったシシトウを炒め、これを肴に日本酒を飲み始めたことまでは覚えているが、その後はすっかり忘れている。今晩、孫娘が言うには「私の足を踏んだのに、足が長いもんだからと言っていた」と言う。カミさんも「いくら飲んでもちっとも減らないんだわと言ってたわよ」と言う。全く、覚えていない。

 孫娘は、「私はお酒は飲まない」と言う。「何もかも忘れてしまうなんて、もったいないじゃーない」と。なるほど中学生の発想はおもしろいと思った。今朝は、早くからカミさんはゴルフに出かけていない。お昼前には帰るのかと思っていたら、「今日は一日中いないよ」と孫娘が教えてくれる。そうか、となるとお昼は孫娘と二人だけか。起きたのが遅かったから、二人でパンを焼いてブランチとなった。孫娘がサラダを作り、私がフレンチトーストを焼いた。二人だけだが、充分に満足のいく食事となった。

 外は暑いが風が強い。何をするというわけでもないままに時間だけは確実に過ぎていった。孫娘は、読書感想文を書いている。私は、何かしたいというものが無い。本を読んだり、新聞を見たり、昨日の大和塾の整理をしたり、誠に気ままにボーとして過ごしてしまった。夕方になって、カミさんが帰ってきたので、一緒に投票に出かけた。少し涼しくなったせいか、投票所は結構混んでいた。どんな結果になるのか、楽しみだ。

 「これで、自民党がまだ伸びるようだったら、日本人は何を考えているの、ということよね」と、珍しくカミさんが政治のことを口に出す。まだ、結婚していない時だったが、選挙があって、「誰に投票したの」と聞いたことがあった。カミさんは「真面目そうだったから」と言う理由で投票したその人は、私には理解できない人だった。外見だけで投票を決めてしまうことに呆れてしまったが、だからと言って嫌いになる理由にはならなかった。

 ある冊子を見ていたら「3億円が当たったら買いたい人がいます」という記事が目に入った。「半世紀前どうしても結婚できなかった、初恋の人です。この前、約50年ぶりに再会し、いっぱい話をしました。彼は、奥さまに『50年も一緒だったから、この辺で1億円あれば別れたっていいね』と言われたとの事。この一言を聞き、宝くじが当たったらそっくり3億円を奥さまに差し上げて、初恋の人を買い取りたいと思いました」。72歳のご婦人からの投書である。

 面白いと思ってカミさんに記事を見せると、「よくわからないわね。何で3億円を上げる必要があるの。1億円と言っているのだから、残りの2億円で生活することを考えればいいのに」と言う。私は、72歳という人でもこんなことを考えている人がいることに深く感動したが、カミさんはやはりどこまでも現実的である。だからか、私は選挙結果は明日の新聞で見ればよいと思っているのだが、カミさんはテレビにかじりついている。今、「あなたが応援した人、当選確実よ」と甲高い声で叫んでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第4回市民講座「リビングウイル」

2007年07月28日 20時52分34秒 | Weblog
 第4回市民講座「備えあれば憂いなし」を終了し、ヤレヤレというところである。今朝は、印刷屋へ大和塾の機関紙「風」を受け取りに行き、友人にパワーポイントが使える機器を借り、帰ってすぐ8月4日と5日に行われる夏祭りの打ち合わせの会議を行い、そして午後は大和塾の市民講座と忙しかった。これまでの講座への参加者は大体30人台だったから、多くても50人位かと考えていた。ところが、2時から始まるのに、1時半の時点で30人近い人が集まってくれていた。急遽、イスを借りて並べたが、これ以上は入れないという120人の参加があった。

 やはり100人を越すと、マイクが必要であることもよくわかった。「ぴんぴんと生きて、ころりと逝きたい」とチラシに書いたためか、お年寄りが多かった。中にはぴんぴん生きて、ころりと逝ける話が聞けると勘違いして、来た方もあった。いかにして「死ぬか」ということではなく、最後までいかにして自分らしく生きるか、そのために医療現場の先生の話を聞こうという勉強会ですとお話させていただいた。

 講師を引き受けてくださった南生協病院の内科部長・長江浩幸先生は、医療の世界も変化してきていることや、患者の考え方も変ってきていることを話された。しかし同時に、終末医療の難しさが今もある事実と、これを解決していくには私たち自身がどうしたいかにあると言う。私たちは、やはり「死」の話はなんとなく触れたがらない。縁起でもないとか抹香臭いとか言って逃げてしまっている。最後まで自分らしく生きるためには、自分はこういう人生でありたいと周りの人によく話しておく必要がある。話しておくと共に、文章で伝えておく必要がある。

 私自身でいうなら、わがままに生きてしまったので、最後までわがままで生きていたい。一切の延命治療を拒否し、もがき苦しんで人生を全うしたいと思っている。私に、家族も国家も医療費を投入する必要は無い。私自身は充分すぎるくらいにいただいてきた。何一つおかえしすることができなくて恐縮しているくらいだ。私は、たくさんの友だちに恵まれた。カミさんにも子どもたちにも孫にも、甥っ子や姪っ子にも、私には身に余る出会いを仕組んでくださったと、神に感謝している。

 生が自然なものなら、死もまた自然なものだ。すでに63歳まで生きてこられただけでもありがたいと思っている。私は、葬式も要らない。誰にも知らせる必要もない。私がこの世を去ったなら、私が年賀状を送っている人たちに、私が逝ったことを伝えてくれればいい。人はいつしか忘れ去る。それでよい。子はもちろん覚えているだろう。孫もなんとなくこんな人だったと覚えているだろう。人の血のつながりは3代までだ。子どもや孫はまた、それぞれにそれぞれの人生がある。私は私の人生を最後まで生き抜くことが私の使命だと思っている。

 今日のテーマである「リビングウイル」、私の意思を文書で家族に伝えておこうと思う。8月と1月に、私に繋がる者たちが集まる。私はできるだけ、私の知っている父や母や兄の話をするように努めている。顔は知らなくても、父や母や兄がどういう人であったのか、自分に繋がる者について知ることは、自分を知ることにもなるはずだと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風をおくる

2007年07月27日 23時59分43秒 | Weblog
 市民の手による市民のための勉強会「大和塾」の機関誌No1が、出来上がってきた。大和塾は昨年の10月に発足し、3回の市民講座を開催してきた。講座の無い月の例会で、いろいろ話しているうちに、塾生の皆さんから機関誌を発行して広く市民の皆さんに大和塾を知ってもらおうということになり、できたのがこの機関誌だ。明日の第4回市民講座で機関紙が配布できるようになり、事務局としてはホッとしている。

 機関誌の名前は『風』と決まり、題字は塾生の知り合いの玄玄書作院の久保田関山さんにお願いした。久保田さんには、大和塾の活動目的と機関誌名『風』と決まった時のやり取りなどを記した手紙を送って書いてもらったが、とてもよい字が書いていただけたと塾生の皆さんは喜んでいた。題字の『風』は、この市に風を吹かせようという気持ちから名づけられた。風には、そよ風もあれば、突風もあるし、暴風もある。私たちの風がいろんな風を呼ぶようにとの思いから、「風」を選んだ。

 私自身は『報道ステーション』の古舘伊知郎を久米宏以上に評価しているが、古舘の「不自然さ」に気付いたというコラムがあった。コラム氏は「『今の格差社会を』と言う古舘の発言を聞いて、億単位の収入のあるヤツに、格差を論じる資格があるのか。(略)高額所得者に、ニートやフリーター、派遣の気持ちなどが分かるはずがない。なにのに彼らは、まるで自分が低所得者のごとく怒り、仲間意識で政治を批判する。これって、やっぱりどこかおかしい」と書いている。

 このコラム氏は古舘の言うことは信用できないと言いたいのだろうが、古舘が言っている中身については、賛成なのか反対なのか態度を明らかにしていない。コラムを書く人は何よりも自分の立場をハッキリさせるべきだと私は思っている。コラム氏の主張通りなら、低所得者でニートかフリーターでなければ、格差について語れなくなる。いつの時代を考えても、苦しんでいる当事者よりも第三者でありながら当事者意識を持った人々が、社会を変えてきた。私は当事者よりも冷静に事態を見つめることができる第三者は大切な存在だと思っている。

 私たちの大和塾が、そして機関誌『風』が、どれほどのお役に立てるのかはわからないが、少なくとも私たち自身は自分の損得を抜きにして、この市の、この社会の、未来への希望について取り込んでいるつもりだ。人々の中には、それはお前たちの勝手な自己満足だと批判されるかもしれないが、人の言うことに聞く耳がないほど自己主張の強い私たちではない。風を送ろうとするけれど、より強い風によたよたしてしまうかもしれない。それでも、自分の発言に責任を持ち、論争していく覚悟は持っている。

 風 疎竹に来る 風 過ぎて竹に声を留めず
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士山に魅せられ

2007年07月26日 20時49分38秒 | Weblog
 礼文島に行ってきたという人の話では、今年は季節の巡りが早くて、もう秋の気配だったそうだ。雨には降られなかったけれど「寒かった」とも言う。利尻島にも渡ったようで、海は穏やかで、利尻富士はとても美しかったと喜びを語ってくれた。日本には富士という名前の山がたくさんあり、私の友人は全国の富士山を登ると計画していた。もう実現したのだろうかと思い出した。

 津軽平野から見た岩木山も裾野が広く美しかった。私が始めて富士山を目の前にしたのは中学3年の修学旅行の時だった。見事なまでに美しい姿に感動した。新婚旅行、子どもができてからの家族旅行は長い間、富士山だった。退職したら富士山麓の農家を買って住みたいとカミさんに言っていたほど惚れ込んでいた。富士山はどこから眺めても飽きない。山の姿は立つ場所や時間で微妙に変化する。富士山に魅せられた絵描きや小説家が多いのもそのせいだと思う。

 姉を連れて河口湖に宿泊したのも、湖の北岸に宿を取ったのも、静岡側からではない富士山を見せたかったからだ。2日目の朝、本来なら朝日に輝く富士山を見ながらの朝食となるはずだったが、あいにくの曇り空で、湖岸までも煙っていた。レストランの係りの人が「今日はどんなご予定ですか?」と尋ねてくれた。「姉は富士山に登ったことが無いと言うので、5合目までは車でいけるから、連れて行ってあげると言ったんですが、この天気では行っても無駄でしょうね」と答えると、「今朝、ご来光を見に行った人の話では5合目は良い天気だったそうですから、行かれてみてはいかがですか。フロントに申し付けていただければ、5合目の方に電話して向こうの天気を聞くことができますから」と教えてくれた。

 出かけにフロントで聞くと、すぐに電話をしてくれた。「お天気は良いそうです」。河口湖は曇っていて、富士山の姿は全く見えない。それなのに5合目は雨降りではないと言う。それなら行くだけの価値はあるからと富士スバルラインへと向かう。途中は霧で、5メートル先が見えないところもあったが、上に進むとだんだん視界がよくなってきた。5合目の駐車場はてんてこ舞いである。観光バスと乗用車で溢れかえっていた。運良く駐車できたが、ここに車を止めたのは39年ぶりだ。それだけ時間が経過しているのだから当たり前なのかもしれないが、全く景色は一変していた。

 富士山が世界遺産にならないのも、こうした大駐車場や売店など人工的な部分がありすぎるからかもしれない。富士山を眺めさせようと、余り歩けない姉を連れ出し、売店へと向かった。英語や韓国語、中国語がやかましく聞こえる。「外人が多いんだね」と姉が驚く。外人さんらと同じように、雲のかかった富士山を背景に写真を撮ろうとしていた時、空に青い部分が生まれ、どんどん広がってきた。もう少し待ってみよう、きっと頂上の雲もなくなるから。そう思っていたらアッと言う間に晴れて、山頂が顔を出した。全く幸運なことだった。富士山の水でコーヒーを飲んで帰ろうと売店に入ってしばらくすると、再び富士山は雲に隠れてしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甥の息子と孫娘の成長

2007年07月25日 22時52分44秒 | Weblog
 甥っ子にお墓参りの日程を知らせるために、電話をすると甥っ子の嫁がでた。送っていただいたお中元の礼を言い、お墓参りの日と時間を告げた。すると甥っ子の嫁は「息子が(私が卒業した)高校に入学でき、(私の)後輩になることができた」と嬉しそうに言ってくれた。私は、甥っ子の息子が高校入試だったのに、すっかり忘れていたこと、1月に姉の喜寿の祝いをして以来、甥っ子と話をしていなかったことを知った。息子が私と同じ高校に入学してくれたことを誇らしく思って話してくれた甥っ子の嫁の優しさに胸が詰まる思いがした。

 甥の父親である私の兄も、そして私たちの父親も、同じ学校の卒業生だ。地域では一応名門高校だが、入学するまでは進学するのが当たり前のように思っていてそうした意識はなかった。入学してみるとかなり遠いところから通学してくる者がいて、しかも中学では学年でトップだったと言う。それでも、話していると私とそんなに変らなかったし、確かにこいつは自分よりも優れていると思える者は数少なく思った。恐れるにあらず。ところが中間試験の結果は散々だった。二桁になったことが無かっただけにショックは大きかった。ここから自分勝手な理屈を構築するようになってしまった。

 孫娘が、9月に行われる中学校の体育大会で100メートル走に名乗りを上げたと言う。中学校の体育大会ではそれぞれがどこかの種目に出場するルールのようで、自己申告が建て前だと言う。どうして100メートルなのかと孫娘に尋ねると、「ママの記録を塗り替えたいから」と言う。そういえば、孫娘が通う中学校の体育大会のプログラムには、各種目のこれまでの最高記録が記載されているが、100メートル女子ではずっと長女の名前が続いている。未だに破られていないこの記録を破るのは娘である自分しかいないと孫娘は考えているのだ。

 長女は演劇部にいたので、陸上の本格的な練習をしたわけではなかったが、走ることは速かったので、学校を代表して大会には出ていたようだ。娘から「ママの記録を塗り替える」と聞いた長女は、「まあ無理だと思うけどね」と誇らしげだ。孫娘は「いいの。1年生では無理でも、3年間のうちに抜かせばいいのだから」と負けていない。一人っ子で、自分ひとりでは何にもできない甘ちゃんだと思っていたけれど、中学生になってから、ずいぶん変ってきた。孫娘にとっては、勉強もできないアホな子と思われ続け、自分でも多分そう思っていたのだろうが、中学に入っての初めての試験で一桁の上位の成績だったことで、一気に自信が付いたのだ。

 甥っ子の息子や孫娘が、高校生や中学生になった。恋ができる年齢になった。そう思うとなんだか胸が熱くなってしまい、甥っ子の嫁に「よく頑張りましたね」と優しい言葉がかけられなかった。後から生まれた人間が大人になっていき、先に生まれた人間が老いていくことで歴史は回っていく。わかっていてもなかなかわからない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河口湖ステラシアター

2007年07月24日 23時12分22秒 | Weblog
 富士河口湖町には、森山良子コンサートが行われた「河口湖ステラシアター」のほかにも「河口湖円形ホール」という文化施設もある。ステラシアターはコロシアム風の野外施設で、シアターの予定表を見ると9月末まで、毎土曜日か日曜日には有名な音楽家がやってくる。また、河口湖円形ホールでは8月11日から19日まで、「富士山河口湖音楽祭2007」が開かれる。主催者を見ると、どちらも実行委員会という名のものが多い。

 確かに、森山良子コンサートでも受付や会場の案内は地元の人らしきおばさんや若者たちだった。富士河口湖町の財政がどのような状態かは知らないが、町の人々がこうした施設を誇りに思っていることは確かなようだ。そこでちょっと意地悪い質問をしてみた。「春から秋までの半年間は稼動できても、冬の半年間は何もできないのではありませんか」。この質問に「実はそうなんです。それが一番の課題です」と正直に答えてくれた。

 円形ホールの方は屋外型ではないので、冬でも暖房すればホールとしては使える。しかし、冬に河口湖までやってくる客がどれほどいるだろうか。初夏から晩夏までは、美しい湖と気高い富士山を見に、避暑を兼ねて河口湖へ来る客はあるだろう。冬は寒さも厳しいし、道路の凍結という危険もあるから、それを覚悟してまでやってくる客がいるとは考えにくい。秋神温泉のように冬の凍結を売り物にしたような企画が生まれない限り、冬の事業で客を呼ぶのは困難と言える。

 河口湖円形ホールの方は見てこなかったから、なんとも言えないが、この小さな町で同じような文化施設は欲張りすぎではないのかと思った。それでも「辻が花」で有名な「久保田一竹美術館」を観て、ここで秋に行われる能舞台「舞衣夢」には毎年5千人もの人々が訪れると聞いて、否定的に考えるよりは、造ってしまった施設を活かす方法を考えることではないかと考え直した。

 愛知県日進市の市長選挙で、白井えり子さんはわずか62票の差で市長になることができなかった。ずいぶん悔しい思いをしていることと思う。私が市長選挙で争っていた時、たまたまであったが、彼女は同じ女性議員の後藤尚子さんと一緒に私への応援演説を行ってくれた。二人の機転と優しさに心から感謝したが、ぜひ白井さんには市長の座を射止めて欲しかった。市長の器として十分な人であったし、彼女が当選すれば、続く人たちに大きな勇気を与えることになったはずだ。

 富士山麓の小さな町で、大きな事業が行われている。自分の住んでいるこの町をもっともっと素敵な町にすることができるなら、町はより輝いていくだろう。フランス革命の時のパリ市民は、歴史もよく知らなかったし考える基礎的な知識も欠如していた。だから極端から極端へと揺れ動いてしまったけれど、現代に生きている私たちは歴史を理解しているし、もう少し広い見識を持ち合わせている。時間はかかるかも知れないが、正しい判断ができる時代が必ず来ると私は思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

りんごのふるさとは

2007年07月23日 23時57分40秒 | Weblog
 お元気でしたか。この2日間、ブログを休みましたので、どうしたのですかと電話をいただきました。ご心配をかけて申し訳ありません。私の姉は、今年の3月で77歳になったのですが、どういうわけかいまだに好奇心が旺盛で、テノール歌手の秋川雅史さんのファンクラブに入り、そのコンサートが7月21日に河口湖であるから連れて行って欲しいというので、行ってきました。

 コンサートは秋川さんのものではなく、森山良子さんのコンサートにゲスト出演するというものでしたが、なかなか見ごたえのある企画でした。森山良子さんは、この河口湖で毎年コンサートを催しているようで、今回で13回目だそうです。会場となった富士河口湖町の河口湖ステラシアターは、町の誇る円形の野外コンサート施設で、3千人が収入できると聞きました。舞台の中央に丁度富士山が見えるように設計されているようなスケールの大きな文化施設です。

 しかしこの施設は残念ながら、春から秋の期間しか利用できないのが難点なようです。会場はローマのコロシアムを思わせるようなせり上がった石の施設で、背もたれが無い分だけ観客としては疲れてしまいます。森山良子さんはこの施設が気に入っているようでしたから、音響効果は抜群なのだと思います。姉たちの席は舞台の真ん前で、とてもいい音で聞こえたと言っていましたが、私は運転手として付いていったので、最後列に近い高い席でしたので、音はまあまあでしたが舞台はちょっと遠い気がしました。

 聞けばこの日の観客数は3千人だそうです。全席一律に6千円ですから、1千8百万万円の興行です。ゲストは姉の大好きな秋川雅史さんの他に、押尾コーターロウさん、葉加瀬太郎さんという豪華な顔ぶれです。こうしたコンサートにたくさんのファンが押しかけるのは、それぞれのゲストのファンが押しかけるからだとよくわかりました。私の後のご婦人方は森山良子ファンで、私の斜め前の若いお母さんは葉加瀬太郎さんのファン、私の隣の横の方は押尾さんのファンでした。大阪や兵庫からやってきた人もいれば、東京からやってきた人もいます。追っかけなる人々のパワーを見せ付けられた気が致しました。

 姉が大好きだという秋川雅史さんは、持ち歌の「千の風になって」の他に、1952年にヒットしたという「津軽」を歌いました。どうしてなのかわかりませんが、私はこの「津軽」を聞いているうちに涙が流れて止めることができませんでした。津軽平野はこれまでに一度しか行ったことがありません。それも春の穏やかな気候の時でした。田植えの準備をしていた津軽平野の後には岩木山が聳え立っていました。誰も摘み取らない土筆が枯れていました。私は、太宰治もこうして岩木山を仰ぎ見ていたのだろうか、そんなことを思い出しました。私が津軽平野の思い出を東北の人に話したら、「それは冬の、雪が地面から吹き上げてくる恐ろしさを知らないからだ」と言われてしまいました。

 冬の「津軽」を見たならば、よりいっそう「津軽」の思いがわかるのではないか、そんな気がしていました。「りんごのふるさと」で始まる「津軽」の冬に思いが馳せていたのかもしれません。秋川さんの歌声は、私の心に響きました。姉を連れてきたことでむしろ私の方が素晴らしい出会いを致しました。姉に感謝です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミニスカートの女たち

2007年07月20日 22時58分37秒 | Weblog
 公共交通機関、たとえば電車とか地下鉄とかに乗ると大勢の人に出会うことができる。夏になってきて、女子大生の多くがミニスカートで生あしを見せ付けてくれる。それはそれで男としては、ほどほどにしろよと言いながらもチラチラと目線がいってしまうものだ。しかし、どういうわけかミニスカートなのに、その下に男の股引のような下着なのかタイツなのか、ヘンなものを身に着けているのが流行っている。

 車内での現象は相変わらずだ。若いというだけで、女性は美しくできているのに、まるで人が違ってしまうほど丹念に化粧をし続けていた女子大生がいた。それはまるで、これからキャバレーかスナックか知らないが、男相手の仕事をする女性のようだった。丁度、夕方5時過ぎの電車だったから、冗談ではなく、そんなところで働いている女子大生だったかもしれない。

 そんなにまでして働いて、お金を稼いで、いったい何に使うのだろう。どう見ても大学の勉強に没頭しているような会話は聞かれなかった。話題といえば、男のこととか化粧品のこととか遊びに行く話しばかりだった。ホントにこの子たちは何のために大学へ通っているのだろうかと他人事なのに気になった。女子高校生がミニスカートになったのは、性しか見せられるものがなくなってきたからだという評論を聞いたことがあるが、女子大生はさらにその傾向を強めているのだろうか。

 長い黒髪が美しく、腰がキリッと締まった若い女性が乗り込んできた。その後姿からどんな美人なのかと見ていてビックリした。見つめることに罪悪感を覚え、どうしたらよいのかと迷った。正面を向いた彼女は、まるで怪談映画に出てくるような顔だった。右側半分が青瓜を貼り付けたように盛り上がり、目の周りと唇が青紫で、一瞬見た時は背筋が寒くなるような気さえした。生まれつきなのか、病気のためなのか、私にはわからないが、彼女のこれまでの苦労というか苦痛というか、いやおうなしに背負わされた人生を思い、自分勝手に息が苦しくなった。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言ったのは、福沢諭吉だ。この後の文章では、しかし現実の社会はなんと格差があることかと言っている。この不合理を無くすことが新しい明治という時代の課題だと看破したわけだ。それでも福沢諭吉を共産主義者とは誰も言わない。まだ封建的な慣習に染まっていた人たちは、福沢諭吉の主張に反発し固執したが、近代への流れを止めることはできなかった。

 いらぬおせっかいかもしれないが、電車で乗り合わせた厚化粧する女子大生も、醜い顔の若い女性も、誰も彼もみんな幸せになってもらいたいと思う。もちろん、幸せは人様々だから、どうなることが幸せなのだと私は言え無い。私たちが暮らす社会の最低の基準を決めるのは政治で、その決める場は議会だ。参議院議員選挙の投票日は7月29日である。選挙だけでおしまいにしてはならないと思うけれど、まずは選挙かとも思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする