友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

私はまだまだ未熟者だ

2020年09月30日 17時49分06秒 | Weblog

 「生まれた時から女と男は別々の生物学的機能を持っているが、女はこうあるべき、男はこうしなければという考え方は、社会によって作られたもので、社会的・文化的性差である」と、私も理解している。社会によって作られたものは、当然、社会が変われば変わっていく。

 社会的・文化的性差のために、人としての差別が存在するのに無頓着でいるのは、差別に加担していることと同じだ。私たちはどうも他人のせいにして、自分の過ちを認めない傾向がある。先の戦争で多くの人が亡くなったが、NHKの朝ドラ『エール』を見ていても、戦争に駆り立てていったのは国民自身でもある。

 久しぶりに都会に出て、街を歩く人々を眺めた。マスク姿で顔が分からないように思ったが、目の表情から美しい女性だと想像できた。まだ、夏のスタイルが続いていて、素足の女性が多い。短パンの人も、超ミニスカートの人もいる。むき出しの白い足が美し過ぎる。肩から出ている白い腕が艶めかしい。女性たちはとてもキレイだ。

 上野千鶴子さんは「男のムラムラが問題」と言っていたが、男はどうして女を見ると「キレイ」と思ってしまうのだろう。キレイなものを独り占めしたいのはセクハラなのだろうか。どう表現するか、もっと言えば、理性がどのように働くのか、そこが境目なのかも知れない。

 プラットホームで向こうから黒い服の女性が歩いてきた。背が凄く高い。スカートはロングだったけど、ウエストが細くてモデルのような体型だった。すれ違った後、思わず後姿を追ってしまった。街中はキレイな女性が多くて、それだけでとても満たされた一日だった。講演会は分かりやすくて考えさせられたのに、私はまだまだ未熟者だ。

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上野千鶴子さんに会いに行く

2020年09月29日 17時53分53秒 | Weblog

 午後1時30分から、朝日会館15階で開かれた上野千鶴子さんの講座『ジェンダー入門―あなたも私も性差別に加担している―』を受講してきた。上野さんが名古屋に来るのに、知らんぷりは出来ない。パソコンで朝日カルチャーセンターの混み具合を見たら、受付終了になっていた。

 仕方がないのでセンターに電話し、キャンセル待ちをお願いしてみた。翌日、すぐに連絡が入り振込用紙が送られてきた。諦めるよりやってみることだ。私が会場に着いたのは20分も前だったが、もうかなりの人が来ていた。圧倒的に女性が多いが、男性もチラホラいる。どれくらいの来場者だろう、150人くらいだろうか。

 今日の上野さんは、4年前に私たちの市民講座に来ていただいた時より、席が遠いせいか小さく見えた。けれど、声がとても艶があって若々しい。話の展開がうまい。4年前は主催者側だったから落ち着いて聞いていなかったようだ。東大の女子学生は2割ほどしかいないと切り出し、どうして何かと問いかける。

 小学校の先生は圧倒的に女性が多いのに、校長は男性で行事を仕切るのも男性だから、子どもたちには男性社会に見える。非正規雇用労働者の7割は女性である。男女雇用機会均等法が成立したがこの年は労働者派遣事業法も成立し、正規と非正規では雇用区分が違うと賃金に大きく差がついた。

 女性が活躍できる社会にするには賃金格差を無くすべきだが、「男・女」の捉え方を変えていかなくては解決にならない気がする。女性が結婚を考える時の「高学歴・高収入・背が高い」の3Kは大きく変わってきているが、男性の結婚相手の「可愛い・軽い・健康」の3Kは変わっていないと指摘する。

 せっかく会場に来たのに挨拶しないで帰ることは無いと思い、係の人に伝えて会わせてもらった。けれども会いたいという人が次から次に来るので、本当に挨拶しただけになってしまった。「この後、お時間ありますか」とはとても聞けなかった。セクハラになるとは決して思えないのに怖かった。

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女優の竹内結子さんが亡くなった

2020年09月28日 17時30分21秒 | Weblog

 女優の竹内結子さんが亡くなった。自殺と言われている。まだ1歳の赤子がいるのに、どうして自殺などしたのだろう。このところ、有名人の自殺が続いている。私は男だからか、男性の自殺には余り関心がないのに、キレイな女性の死はなぜか悲しくなる。

 自殺するのは女性よりも男性の方が多いようだ。この先に希望がないというか、絶望しか見えないと、死を選んでしまうのだろうが、普通の勇気では死ぬことなど出来ないだろう。生きていれば何とかなることでも、死んでしまったらもうやり直すことはできない。

 アメリカのタイム誌が毎年恒例の「世界で最も影響力のある100人」を発表したが、日本人女性が2人選ばれている。テニスの大阪なおみ選手とジャーナリストの伊藤詩織さんである。大阪選手は犠牲となった黒人の名前を記したマスクを使用して、人種差別に抗議した。

 伊藤さんは自らの性暴力被害を公表し、バッシングを受けながらも堂々と戦っている。日本の女性も頑張っているが、頑張らなくてはいけない現状こそに問題である。「女性を議会に」送る活動を地道に行っている人たちがいる。

 男性よりも女性が、選挙に出馬しにくい環境があるからだが、女性なら誰でもいい訳ではない。自民党の杉田水脈議員のように「女性は平気でうそをつく」と言ったり、「同性愛者は子どもをつくらない、非生産的」と平気で言うような人を議員にしてはならないだろう。

 そうした点では男性も女性も同じだ。どういう人を選ぶか、私たちはもっと慎重でなくてはならない。選んだ人が河村名古屋市長のように、狂っているとしか思えない人もいる。どうしてこうなってしまうのか、社会にもっと目を向けなくては、絶望から救うことも社会を良くすることも出来ないと思う。

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マンションの草取り

2020年09月27日 17時45分26秒 | Weblog

 朝から北西の風が強く吹いている。陽差しは強く、風が無ければ暑いくらいだ。今朝はマンションの草取りだった。自治会の役員は、「自由参加ですから」と強調していたが、マンションの活動は全て自由参加が原則である。出られる人は出ても、出られない人を非難しない。

 中庭の築山は有志の人が剪定してくれているし、南の庭も以前から手入れをしてくれている。けれど、桜の樹が何本もあり、落ち葉も多くなりつつあるから、その掃除が大変だった。桜の樹の周りは、以前は芝生だったけれど、今は好きな人たちが花壇にして花を楽しんでいる。花壇ではないところに、いつの間にかたくさんの雑草が生育するようになった。

 私はそれもいいと思うのだが、「みっともない」と思う人の方が多く、「全部刈ってしまって」と長老のおばさんが言う。オシロイバナもランタナも名の知らない草花も、きっと誰かが植えたものだろうが、全部刈り取られてしまった。刈られた草を集めて燃えるゴミの袋に詰め、集積場に運ぶが、結構汗をかいた。

 みんなで自分たちの住空間を守る。草取りもそのための行事の1つだ。今年は夏祭りも運動会も中止となり、住民同士が顔を合わせる機会が無くなった。集会所で文化祭をやってもいいと思うのだが、これも「密」になると受け入れないだろう。コロナ禍は自治活動にも大きく影響している。

 「正しい」だけではやり切れない気がするが、だからと言って何か有効な活動は生まれてこない。「正しい」と思い込んでいる人は、絶対に譲らないし、信念が強いと他人にも押し付けてしまう。予定時間の10分前だったので、長老のおばさんに「そろそろ終わる時間ですよ」と言ってみたが、時計を見て「まだ10分ある」と却下されてしまった。

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ヒガンバナを見に行こう

2020年09月26日 18時07分16秒 | Weblog

 落ち込み気味だったカミさんが、次女と話してスッキリしたのか、秋の涼しさを感じたからなのか、今朝、「ヒガンバナを見に行かない?」と言う。マンションの中庭のヒガンバナがもう咲いたのかと思っていたら、「可児の花フェスタがいいよね」と念を押してきた。

 夏がどんな天候であっても、ヒガンバナは秋分の日の前後には花を咲かせる。どこにセンサーがあるのか分からないが、大きな違いが無いから不思議だ。花フェスタは思った以上に人が来ていた。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の影響も大きいかも知れない。

 催事館では可児市の英雄である明智光秀のドラマを、パネルで説明し、武具なども展示していた。光秀が生まれ育った明智壮は花フェスタの会場から歩いて行けるようで、今では人気のスポットのようだ。若い男女がスマホで記念写真を撮っていた。

 けれど見渡すと、圧倒的に年寄りが多い。30代40代は家族連れか女同士で、男女で来ているは年寄りばかりだ。秋のバラは花も小さいが、花そのものがあまり咲いていない。古い方の園は株が腐ってしまったのか、空き地が目立つし、手入れも行き届いていない気がする。

 目当てのヒガンバナは山裾の谷間の一角にある。私たちのような年寄り夫婦がカメラを構えてシャッターを押していた。「昔は縁起の悪い花と言っていたのに、今では庭に植えている人もいますね」と女性が話しかけてきた。男性が「まだ満開ではないから、来週も来ないと行かんな」と言う。

 コスモスの丘への道すがらの斜面に、赤や黄色のコスモスが咲いていた。「こんなコスモスは見たことが無い。コスモスはやっぱりピンクだろう」。そう言いながらコスモスの丘に行くと、花は余りにも少なかった。9月の週末はこんなにも寂しいのか。

ヒガンバナ 赤黄色のコスモス ピンクのコスモス

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荒野を歩き続けた青年

2020年09月25日 17時16分50秒 | Weblog

 『同級生新聞』を発行する聞いた時、1年に春夏秋冬の4回くらいかと思っていた。ところが5月に第1号が発行され、9月で5号となり、7号の企画原稿の募集まで行っている。発行者の並々ならぬ努力に頭が下がる。遠い人や私のように紙で欲しい人には郵送しているようなので、お金のことも心配だ。

 5号の特別紙面に、思い出の多い男が原稿を寄せていた。彼は1年生をダブっている。2年目の1年の時、私がクラス担任となった。彼がどうして留年したのか、私は知らなかったし気にも留めなかった。学校と彼の家の中間辺りに私の下宿があったので、自転車通学の彼は帰りに寄って行った。

 時には、私よりも先に下宿に来ていた。「腹が減った」と言うので、キャベツの千切りにソースをかけて出すとビックリして、「こんなの食えるの?」と言う。「うまいよ。食べてみて」と勧めた。以来、キャベツの千切りが食べられるようになったと言っていた。

 私の部屋にある本は「何でも読んでいいし、持って行ってもいい」と言ってあったので、何冊か持って行った。マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』が彼のところから戻ってきた時は、そんなに気にならなかったが、5号の特別紙面を読んで、彼の思想や思考に負の遺産を残してしまったかも知れないと思った。

 50年前に書いた彼の文章は衝撃的だった。「何一つ真実の無いこの虚空の世界で、嘘を嘘だと知って生きていくか、嘘に気付かずに生きていくかだけの違いでしかない」。私はシュールリアリズムに囚われていたから、「現実は虚構で、虚構が現実なのだ」と言うようなことを口にしていた。

 それでも私も彼も結婚し、子どもが生まれ、家族ぐるみの付き合いが続いた。日常の中にどっぷりと浸かり、追われるような毎日を受け入れてきた。彼は仕事で、その業界では名の知れた人となった。「68歳の老人は、目指した荒野に無事到着致しました。そして、生きるということは、ずっと荒野の中を歩き続けるということがわかりました」と、結ばれていた。

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ここにこそ幸せはあるとしても‥

2020年09月24日 17時14分28秒 | Weblog

 

 台風12号は日本列島を逸れて、銚子市の沖300キロ辺りで停滞しているようだ。私は朝、ルーフバルコニーに出て、掃除や水やりをした。5月に咲くアゼリアが花を膨らませている。植物はストレスを感じると、花を咲かせて種子を残そうとするらしい。

 バラの葉の上にバッタが1匹ジッとしている。直径2センチくらいの小さな薄緑色のバッタだ。写真を撮ろうと思い、部屋に戻って見るとどこにもいない。地上30メートルの屋上にどうやって来たのだろう。カマキリやコウロギも見たことがある。不思議だ。

 翅の音が大きいクマバチが、ペチュニアの紫の花にやってきたが、好みの蜜ではなかったのか、すぐ飛んで行ってしまった。クマバチは紫色を好むようで、藤棚でよく見かけるが、我が家にも紫の花を探して時々やって来る。どこにそんな探索機能があるのだろう。

 日陰の鉢の下に4・5日前から、黒い色をした小さなトカゲが1匹生息している。トカゲは虫を食糧としているが、ルーフバルコニーにはたくさんの蟻がいるから生きていける。しかし、1匹では寂しいから、いつかは相手を探しに行ってしまうだろう。

 ミミズも1鉢に6・7匹入れておくのだが、時々どういう訳か、鉢から抜け出して干からびてしまうのがいる。中に居れば必ずいつかは巡り合えるはずなのに。実際、鉢の土を入れ替えたりすると、白い色の小さなミミズが何匹もいる。卵から生まれた幼虫のミミズだ。

 どこにいることが幸せなのかは、虫もミミズも分からない。だからこそ、別の世界に出ていこうとするのだろう。彼らよりは少し賢い人間も、別の世界に憧れてしまう。ここにこそ幸せはあるとしても‥。

 

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クヨクヨしても仕方ない

2020年09月23日 17時24分08秒 | Weblog

 どうしてそんなに落ち込むのかと思う。「1晩、眠られなかった」とカミさんは言う。「ジャパンライフ」に1千万円投資した訳ではない。自分が善意で、人のためになると思ってやったことなのに、メチャクチャ考え込んでしまっている。

 カミさんのお母さんもそうだったけど、余りにも悪い方へと考えすぎだ。人を傷つけた訳でもないし、何かを失った訳でもない。ちょっとした気持ちのズレというか、行き違いのようだが、それもまだはっきりと分かってもいないのに、深いため息ばかりついている。

 次女と電話で話して、幾分持ち直したようだ。私に話しても、「放っておいたら」としか言わないから、次女のアドバイスが欲しかったのだろう。落ち込んだ時は、親身になって聞いてくれる人が欲しいのだ。次女は遠慮が無いからズバズバ言う方だが、それがかえって良かったみたいだ。

 「エホバの証人」の女性から電話があった。「コロナ禍で訪問は出来ないが、電話で少し話してもいいか」と言う。「あなたは今の世界をどう思うか」と聞いてくる。「審判の時が来ている」と言いたいのだろう。私は、「全てが神のご意思であると思っている」と答える。

 人は受け入れる以外に術はない。救われるか否かは神のご意思であり、人は従うしかない。私は永遠の命など要らない。永遠に生きることほど辛いことは無いだろう。いろいろ言った後、彼女は「神のことをもっと勉強しましょう」と言う。

 人は幸せを求めて生きているが、幸せは必ずしも同じではない。人にはそれぞれ求めているものがある。良かれと思ってやったことで、ああでもない、こうでもないと、考え込む人もいる。終わったことは変えられないし、先のことは分からない。クヨクヨしても仕方ない。笑って、笑って。

 

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コロナ禍がもたらすもの

2020年09月22日 17時33分57秒 | Weblog

 

 ペチュニアが花盛りになってきた。春先に4鉢分の12本を買って来た記憶はあるが、夏を境にあちらこちらで株が出来たので、適当な大きさになったものを新しい鉢に移植しておいた。それがいつの間にか大きく育って花盛りになった。

 ペチュニアは1年草だと思っていたが、上手に育てれば翌年も花を咲かせるらしい。けれど、我が家で咲いているのはおそらく、昨年のペチュニアの花から土に落ちた種から育ったものだろう。今年はどういう訳か、鉢からペチュニアだけでなく、いろいろな芽が出てくる。

 何になるのだろうと思い、取り除かずに放っておいた。おかげで新しい苗を買うこともないまま、秋を迎えることになった。今日は秋分の日なので、カミさんの実家へお参りに行って来た。「コロナのおかげであらゆる行事が無くなったからヒマしている」と義弟は言う。

 「子どものいる家庭はどこかへ出かけるが、年寄りは行くところが無い。万が一を心配して年寄りのところへ遊びにも来ない」。「公務員は恵まれているが、会社勤めだった人や商売の人は、年金だけではやっていけないから、警備員の仕事をやっている同じ歳の人もいる」。

 珍しく国の在り方についても言及し、「コロナで人の生き方だけでなく、国の制度を変える時が来たのかも知れない」と話す。放っておいても生命力のある種は育つけれど、人間は自分たちの社会のあり様をみんなで考え、実行していかないと生き残れないかも知れない。

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半沢直樹の「正義」が分からない

2020年09月21日 17時52分06秒 | Weblog

 「最終回前スペシャル」とあったにもかかわらず、勝手に最終回と思い込み、テレビドラマ『半沢直樹』の最後を見届けるつもりで観ていた。えっ!?まだ続くの?それにしてもこのドラマがなぜ人気があるのか、私には分からない。

 堺や香川などの役者の顔芸が凄い。それを観たくってみんなは見ているのだろうか。以前にも書いたが、どこの職場にも「閥」はある。どちらに肩入れするのが自分の出世に都合がよいか、どちらの「閥」が居心地が良いか、と選択する。「閥」に係りたくない人は、出世に関係なく我が道を行くことになる。

 「閥」の方針や考え方が、自分に合っていれば「閥」に組み入れられることに抵抗はないが、そうでなければ抜け出すだろう。そこには「正義」は無い。あるのは「好きか嫌いか」「肌に合うか合わないか」である。しかし、半沢直樹はあくまで「正義」を貫く。銀行の利益よりも、銀行を頼る人々の利益を優先する。

 そんな「バカな銀行員」がいるとは思えない。「ジャパンライフ」のような犯罪にはならないが、ギリギリのところで企業は儲けを追求する。私には「利益を出すこと」が既に不正義に見える。半沢直樹の「正義」が何なのか、どこにあるのか、私には分からない。

 職を失えば、家族は食べていけなくなる。結婚するには、職を得て、安定した給料が入ることが前提だった。それが「正義」だったが、本当に「正義なのか」と問われると、自分勝手な基準に過ぎない気もする。「愛」があれば充分と言う人もいる。それでも相手に苦労をかけたくないと思うと、安定した収入に目が向いてしまう。いったい、何が「正義」なのだろう。

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