友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

小学5年のストライキ その3

2010年02月28日 22時16分10秒 | Weblog
 朝のうちはまだ雨が残っていたけれど、10時ごろにはすっかり青空になった。私は小学校5年の担任だった早苗先生に会いに出かけた。娘さんのご主人とばかり思っていた男性は先生のご主人だった。それを聞いて、先日のふたりのやり取りが納得できた。娘さんのご主人にしては少し横柄ではないかと感じていたからだが、妻を気遣っていたのだということもよくわかった。先生のご自宅は住宅街にあり、家は道路から2メートルほど高くなっていた。ご主人が言われたように生垣があって、すぐに分かった。

 お邪魔すると、先生がわざわざ玄関まで迎えに出てくれた。懐かしい顔だ。目は当時からすると細くなっているが、顔は艶々としている。頭の毛は薄くなってしまったが、それはお互い様だ。「遠いところをよう来てくれたね」と言う。私は「先生には謝らなくてはなりません。本当に申し訳ないことをしました。当時は、全く何も考えていなかったと思います。決して、先生を困らせてやろうとか、先生をいじめようとか、そんなことではなく、本当にごく自然に学校から外へ行くことになってしまったのです」と話す。

 先生は「そんなことがあったんかね。何にも知らん先生だったでね。何年生だった?」と言う。「5年生です。先生はまだ独身で、新学期が始まったばかりですから、5月か6月頃だったと思います」。すると先生は「私の弟が丁度おんなじくらいでね。よく遊びに行っちゃったもんで、またどこかへ遊びにいったくらいにしか思っとらんかったね。新米の先生で、何にもわかっとらんかったでね」と言われる。私は自説である、先生が若くてきれいだったから関心を引こうとしたのだと思いますという話をした。「恥ずかしいね」と先生は目を細められた。

 先生に謝るとともに、様子が分かればそれでいいと思っていたけれど、何だかすぐに席を立つことが出来なくて、アレコレと昔話や子どものことや家庭のことなど話すことになってしまった。先生に会ってすぐに、「私が分かりますか?」と尋ねた時、「分かりますよ。家は材木屋だったよね。おとなしい子だったね」と言われる。「ええ、いつも通知表に、もう少し積極性が欲しいと書かれていました」と答えた。先生が本当かどうかは分からないけれど、少なくとも言葉では「そんなことがあったかね。気がつかない先生だったでね」と言われたので、少しは気が楽になった。

 先生の教員としての人生に大きなダメージになっていないかと心配していたけれど、娘さんに聞いても定年まで勤められたようなので、ホッとした。先生にとっては「弟がどこかへ遊びに行ってしまった」くらいの出来事だったのか、そんな風に思い込むようにしてきたのか、定かではないとしても今日の先生の笑顔からはもう遠い昔の出来事に過ぎないようだ。先生の生年を聞いて驚いた。昭和元年と言えば、カミさんの母親と同じで、私の姉よりも年上だった。娘さんがいみじくも「母にもそんなことがあったんだと思いました」と言っていたけれど、何気なく何の変哲もなく人は生きているようだけれど、皆それぞれにドラマがあるのだと改めて思った。
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人生は出会い

2010年02月27日 22時48分57秒 | Weblog
 選挙の説明会に出席したら、大勢の皆さんからギョギョッと見られた。「出るの?」と言う人もいれば、私が「出ませんから安心して」と答えると、歓びの表情の人もいたし、「出ないの?」とガッカリする人もいた。昔、よく話した職員にも何人か出会ったが、どういうわけかメタボスタイルになっている。「どうしたの?よほどラクしているんじゃないの?ボクが市長になってその体型を変えてやらなきゃいかんな」などと冗談が気楽に言えるようになった。職員の人たちも、合併したけれどこんな具合でいいのだろうかという漠然とした危機感を抱いているようだった。

 この後は、5回目の「60歳の集い」に出席した。これまで出席のなかった市長が挨拶に現れた。4月に選挙を控えているので顔を出されたのだ。同じ席に居るのだからと思い、イヤミを承知で話にいった。市長は「ご迷惑をおかけしています」と言われるけれど、それは迷惑を受けているということなのだろうか?意味不明の言葉だったけれど、それはいつものことなので、市長の慌てようを見て、なぜだか私の方が落ち着いてしまった。

 そういえば、自分が選挙には出ないと決めたせいなのか、私は陽気に振舞うことが出来るようになった。女性たちはヨソの土地から来た人が多いけれど、男性の場合はやはり地元の人たちが圧倒的だ。ヨソモノ組みには分からない「チャン」とか「クン」と呼び合っている。司会進行役が「同窓会ではないんだから、地元の連中だけで固まるな」と言い聞かせたと言っていた。そんな中にありながら、5年もこうした会が続いていると、いつのまにか親しくなった人たちが増えて、何だか私も地元の仲間入りをしてしまったような態度になって来ている。

 同じ時間を過ごしてきたということは、そういうものなのかもしれない。私の隣の女性が「明日は私の誕生日なんだけれど、孫達も含めて14人も集まってくれるのよ」と話しかけてくれた。子どもは女の子ばかり3人だけれど、その婿たちもみんな仲が良くて、いつも何かにつけて集まってくれるそうだ。私の中学のクラス会の打ち合わせの時も、旅行などに出かける時に息子が「これ」と言ってお金を渡してくれるし、孫もどこかへ出かけると「ババお土産」と渡してくれるという話をしていた女性がいた。すると、もう一人の女性が「どうやってそんないい息子や孫を育てたの?」と感心していた。

 今日の5回目の「60歳の集い」もそうだけれど、大げさに言えば、人生はいつも出会いだと思う。出会いがつながりになっていけば、豊かになるし、つながっていかなければ、寂しい人生になる。小学校までは内気で消極的な子どもだった私が、これではイカンと思うようになって、出来るだけ積極的に人前に出るように、自分から努めた。するとつながりができるようになった。そうすることで性格を変えることは出来ると実感した。人はなりたいものになろうとする気持ちがあればなれると思う。
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梅も椿も

2010年02月26日 23時47分49秒 | Weblog
 雨降りである。椿園を見たかったけれど、雨ではダメだろうと諦めた。それよりももっといいことがあった。オリンピックのフィギェアスケートは浅田真央選手が銀メダルだった。安藤美姫選手は5位、鈴木明子選手は8位だったが、選手は誰もとてもよい演技で、甲乙付けがたかった。ただ、浅田選手だけは硬かった。気負いが現れていた。やはりメダル獲得の重圧が彼女にのしかかっていたのだろう。それは、金メダルとなったキム・ユナ選手だって同じことだから、そのほんの少し、重圧に負けなかったか否かの違いなのだろう。日本からの3人がこれほど活躍したのだから、大きな拍手を送りたいと思う。

 重圧と言えば、選挙もまた大変である。現職だから安心などということはない。ただ、現職は行政にかかわるいろんな組織に直接働きかけることが出来るから強い。あってはならないことだけれど、たとえば区長とか町内会長とか自治会長を使って後援会への入会を呼びかける。これらの人から声をかけられては、なかなかはっきり断ることは出来ないのが日本人だ。入会をしてしまったとしても、実際の選挙では他の人に投票しても分からないからかまわないはずだけれど、そう割り切れないのも日本人の特徴のようだ。

 議員選挙の時には応援していた人々も、首長選挙となると「表立って応援できない」と言う人が出てくる。1対1の選挙の怖いところだ。表立って出来ないという根拠は、「あなたの支持者と分かってしまうと困る」と言うのである。どうして困るのかと聞くと、「あちらに目を付けられると行政からの補助とか援助がもらえなくなる」「行政の施設が借りにくくなる」「いじめられる」といった答えが返ってくる。そんな理不尽なことが実際にまかり通るような市や町であってはならない。だからこそ、新しい感覚の、公平で公正な行政を打ち立てていかなくてはならない。

 選挙になると途端に日頃の関係がギクシャクするのもつらい。信頼できると思っていた人が、全く当て外れだったりした時はガッカリである。日頃は見えなかった本音が見えたりして、つらい思いもするけれど、逆もあるから、自分を信じ、人を信じてやる以外にない。選挙も恋愛と似ているのかもしれない。相手がどう思っているのだろうか、無意識に確かめながら進めていくのだろうが、自分がまず全てを注がなければ相手は振り向いてもくれないだろう。確かに、一方的な片思いであるが、片思いであるからこそ全身全霊を傾けなくては結実しないだろう。

 梅は早くも8分咲きとか。そういえば、この近所の梅もかなり咲いている。日本人が最初に関心を持ったのは梅の花だったようだ。桜が話題になるのは江戸時代からという。長い冬に終わりを告げる、可憐で匂いが優しい梅を愛した気持ちはよくわかる。椿は日本ではよく見られるといわれている。子どもの頃の雑木林の中には何本かの椿があった。椿も梅もなんとなく清楚で美しい。冬の寒さを耐えてきた花の美しさなのだろうか。
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夢なのか

2010年02月25日 21時57分24秒 | Weblog
 オリンピックで唯一金メダルが取れそうといわれている、フィギェアスケートが今日から始まった。浅田真央さん、安藤美姫さん、鈴木明子さんの3人で、金・銀・銅を独占すると言うなどと、巷の思いはどんどん膨らんでいる。私は演技を見ていてもどこに差がどこにあるのか分からない。みんな頑張っているし、誰もが見事スケートを見せてくれている。それぞれの演技には難易度があり、ミスなく出来ても何を演技したかで採点も違うというから難しい。

 誰の演技が感動的であったか、誰の演技が魅力的であったか、誰が美しかったか、そういう観点なら採点できそうだが、そんな印象点ではなく、技術と表現力とのプログラムが評価の基準という。外国人は手足が長くて見るからに美しいが、日本人でも浅田真央さんは外国人に負けないくらい手足が長いし、胴もくびれている。むしろ、外国人の方が体つきもふっくらして足も胴も太い選手が多かった。安藤美姫さんがジャンプした後、ほんの一瞬動きが止まったようになってしまったが、あれがスムーズであったならいったい何点だったのだろう。

 スケート競技は、昔は欧米の選手が多かったのに、特にこのフィギェアスケートはアジアの人が多いのはなぜだろう。浅田選手と競うキム・ヨナ選手は同じ歳だそうだが、随分と大人っぽく見える。化粧のせいもあるだろうけれど、体つきがもう大人の雰囲気だ。大技があるようには見えないけれど、難なく技をこなしていくのは見事だ。私は個人的には安藤選手に金メダルを与えたい。それで彼女は堂々と引退できるだろう。世界選手権で優勝したことを誇りに思えば良いように思うのだけれど、なぜか、まぐれでもらったように言われて彼女も苦しかったと思う。

 24日にここまで書いたら、友だちが「これから飲みに行こう」と電話してきた。そこで、席をはずして出かけたが、6時半だったから、ここまで書けてあるから10時半までに帰れば充分に仕上げられるだろうと思っていた。店には、古い友人がふたりもいたが、初めと終わりに挨拶を交わしたくらいで、後はそれぞれのグループで結構飲んでいたと思う。古い友人のグループが先に席を立ち、しばらくして私たちも席を立った。9時半かくらいだった。私たちの仲間のひとりが「じゃあ、これからは我が家で」と言うので、私はいったん家に戻り、お酒を調達して、その家に押しかけた。ブログのことが気になって、11時過ぎに私だけご無礼をして戻ってパソコンに向かった。それが、次の文章だ。

 韓国料理の店に出かけた。キム・ヨナ選手のように美しい肌のママだった。けれども、その認識が日本人妻の女性たちには気に入らないようだった。実際にキム・ヨナ選手の肌を見たわけではないけれど、おそらくキム・ヨナ選手ならばこれくらいきれいな肌をしているはずだと私は思い込んでいる。さて、これからどうなるのか興味深い。興味深いのに、残念ながら私は酔っ払って何が何だかわからない。だから、これから先にどんな議論が巻き起きようと私の知ったことではない。

 読み返すこともなく、そう言えば、中学・高校時代からの友だちが自分のカミさんを讃えていたことを思い出した。昔、田の畔で、小鮒やザリガニやナマズを追い掛け回していたことを思い出した。それで、あの子どもたちはどうなったのだろう。あの時のあの人は、あれからどうなっていったのだろう。こんな風に時代は変わっていくし、資料を見る限り、人類はいつも結果的には幸せな道を歩むことになる。私が欲しいのは「愛する心だ」。酔っ払っているので、全く気が付かなかったけれど、今、時計を見れば零時を20分も越えている。

 結局、ブログを立ち上げることは出来なかった。どうも、パソコンの前で眠ってしまったようだ。上の文章もよく分からないが、記念だと思ってそのままにしておくことにする。
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名古屋市が面白い

2010年02月23日 22時08分24秒 | Weblog
 名古屋市が面白くなってきた。先日会った弁護士も「よくやっているよ」と、河村市長を評価していた。市長や議員の報酬を半額とする提案や、議員定数を半分にする提案など、矢継ぎ早に議会を追い込んでいる。これに対して自民党市議団も、これまで住民投票は議会を軽視するものだと反対してきたにもかかわらず、独自の住民投票条例を提案してくるなど波乱尽くめである。確かに、議員報酬は1600万円もあるから誰が見ても多すぎる。名古屋市民の平均収入がどれくらいかは分からないけれど、常識的に考えても3倍はあるだろう。それで、議員は何をしているのかと言えば、国会議員と違い、地方議員ならば審議していることに大差はないはずだ。

 市議の報酬は人口が多い方が高い。名古屋市のように政令指定都市だというだけで、県会議員と同額だ。県会議員であっても、一体どれほどの審議や活動をしているのだろう。日本では、まず国会議員があり、その下に県会議員があり、さらにその下に地方自治体議員がある構図になっている。人口が大きい県ほど県会議員の報酬が高いが、それは地方議員も同じだ。大きな市ほど市議の報酬は高い。どうしてそうなのかと尋ねたことがあるが、形式的には人口が多いほど活動の範囲が大きいからが理由になっている。実際には、地方議員の活動に大差はないと私は経験からそう思っている。

 そもそも、市長の報酬はどのようにして決まるのか。市議の報酬はどう決めているのだろう。以前にこのことを行政に尋ねたことがあるけれど、答えは近隣の実体に合わせているというものであった。ではなぜ合わせなければならないのかと重ねて尋ねると、報酬が低ければ低い自治体と見られるというものであった。見られることがなぜいけないのかと質問すると、優秀な人材が集まらないと答える。人間はそんなにも愚かだろうか。人のために働けるのであれば、多少報酬が低くてもかまわないと思う意気に燃える人は絶対にいると私は思う。

 河村市長の言うように、市長も市議も800万円でどこに不都合が生まれるというのだろう。そんな金額を定められては、職員の賃金の方が上になってしまうと昔、自治体の幹部に言われたことがあるが、もしそれを恥ずかしいことだと思うならば職員の賃金も引き下げればいい。部長だ局長だ次長だと、何もしないような幹部が多すぎる。年功序列は賢い賃金体系だと思うけれど、上に行くほど緩やかでよいのではないだろうか。部下と上司が変わらない賃金なら、上司はやる気をなくしてしまうとその時に説得された。そんな上司ならやめてもらってもかまわないのではないか。

 人は賃金のためだけで働いてはいないだろう。社会的な評価や名声もやる気の大きな要素だろう。名古屋市の市議の報酬が半額になるから、馬鹿馬鹿しいから立候補しないというような人はやめてもらって結構だ。報酬に関係なく、議員という仕事に意義や生き甲斐を感じる人はいるはずで、そういう情熱のある人にやってもらった方が良い。結局、市長や議員の報酬が低いとやる気の人がいないとか、職員の賃金が低いと優秀な人材が集まらないと言う人は自分がそういう類の人間であるということだ。

 明治に活躍した人物は意気に燃えていた。そういう人こそを時代は必要としている。
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小学5年のストライキ その2

2010年02月22日 21時27分50秒 | Weblog
 小学校のクラス会を行なうに当たって、5年生の時の担任である早苗先生に会いに行ってこようと思った。認知症が進んでいるようであるし、足腰も弱っていたから一度会って確かめた方が良いとの判断だった。先生のお宅へ電話をしてみた。先生が嫁いだ先なのか、それとも先生の娘さん夫婦と同居しているのか、そんなことも私は知らないけれど、とにかく会いに行くべきだろう。先生には大変に迷惑をかけたのに、未だに一度も謝ったことがない。先日、ブログに書いた「ストライキ」の時の担任である。あの時、私たちのことばかりに関心があったけれど、先生はどんな思いだったのだろう。3学期が終わるまで、どんな気持ちで過ごされたのだろう。

 先生はとてもきれいだった。声も高くて澄んでいた。あだ名は七面鳥だった。今から思えば当然のことだけれど、先生は毎日洋服が変わっていた。華やかだった。ストライキは5月か6月ではなかったかと思う。池や川に入ってドジョウやザリガニを捕まえようとしていたから、もうすっかり暖かくなっていたはずだ。先生は肌の色が白かった。それで白いブラウスがまぶしいくらい似合っていた。腰が細くてお尻が大きかった。いつもタイトのぴったりしたスカートだった。何よりもブラウスの下の胸が大きく見えた。

 これは私の説だけれど、思春期に入る子どもたちにとって、若いきれいな先生は魅力的だった。けれども先生は自分たち男の子にはなかなか声をかけてくれない。先生の関心を勝ち取りたいという思いがストライキになったのだと私は思う。口ではいかにも先生への反抗とか嫌がらせのようなことを言っていたけれど、内心ではその豊かな胸で抱きしめて欲しかったのだ。たとえ、それが真実であったとしても、先生にはひどく迷惑な話である。子どもたちの勝手な思い込みが男子児童全員による授業放棄となったのだから。

 当時は何も考えなかった。格別に誰かがリーダーというわけではなかった。全く自然発生的な行動だった。でも、女の子の話では「参加しなければいじめられる」「ハバにされるのが怖かった」と言っていた男子もいたようだ。実際は誰かが強制したわけではなかったし、学校から遠くへ遠くへと逃げた時も、ひとりふたりと脱落者が出た時も、それを無理やり引き止めたりもしなかった。私が最後まで行動を共にしたのは、みんなで決めたことだという思いがあった。授業前に池に集まることも、「今日はストライキだ」とはしゃいで学校を出たことも、多数決をとったわけではないけれど、みんなの自然な行動だった。

 「24日にお邪魔します」と伝えた。後になって娘さんから「その日は私がいないので、28日にしてください」と電話があった。朝、電話した時、この家のご主人と先生のやり取りが電話口から聞こえてきたが、その様子から当然かもしれないと思った。先生はわかったのかどうか定かではないけれど、私が名前を告げると、「どういう字を書くの?」と聞かれる。私が答えると、「あら、懐かしいわね。じゃあ、待っているわね」と言われる。小学校5年生の坊主頭も今では禿げ上がった白髪のジジイだ。本当に先生は覚えていてくださるのだろうか、不安と共に、一度キチンと謝りたい気持ちが湧き上がってきた。
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「心から誰かを愛したことがありますか」

2010年02月21日 21時55分03秒 | Weblog
 短歌教室で、「私、昨日、誕生日だったの」と83歳になった婦人がお菓子を分けてくださった。その方が作られた歌は次のようだった。<「心より誰かを愛したことありや」 ドラマの台詞想う晩年>。先生は「ナンだ、ダンナを愛していなかったのか」と冷やかされたけれど、その婦人は「ダンナさんも含めて、本当に私は人を愛してきたのだろうか、この頃そんなことを想うようになりましたの」と説明されていた。異性をというわけではなく、子どもでも孫でもなく、もっと広い意味で、人を愛してきたのだろうか、と考えることがあるというのだ。

 いつも意見をはっきり言われ、どちらか言えば厳しい方という印象が私にはあったので、こういう歌も作られるのかと、ちょっとビックリした。彼女のつくる歌には<身の周り怒ることなく日々穏し テレビに向ひ国会を斬る>という勇ましいものがあるくらい社会への関心が強い方だ。「晩年」などというと何だか寂しいので、「この頃」でもよいのではないかと思うが、こんな風に自分に問い直すことが出来る人は、年老いてきたからではないように思う。

 友だちのブログを見ていたら、「人生で好きになった女性は3人」との告白が書いてあった。彼のブログを読んでいる人なら、その3人が誰なのかよくわかる。高校時代の初恋の人、大学で知り合った人、そして12年以上友だち以上恋人未満の人。アレ?そうなるとカミさんはどうなるの?カミさんはもっと特別な存在で、もっと特別な関係ということなのかもしれない。「カミさんは自分にとってはかけがえのない人」と言っていたから。それでも、ちょっと正直過ぎるというか無神経過ぎるように思った。

 12年以上も付き合っている彼女から「自分勝手で思いやりがない」と指摘されるのは、そういうデリカシーに欠ける点ではないだろうか。彼自身は決して悪気はないのだけれど、「オレはアイツが好きだったんだ」とか、「今でも忘れられない」と聞かされて、よい気持ちになる人はいないだろう。けれども彼は自分のことをよく知って欲しいと思うからこそ、包み隠さず話してしまう。好きになって長く付き合ってくるとこういう甘えが出てくる。甘えてなんかいないと思っているのだろうが、こんなことを言ったら相手はどう思うだろうとまでは考えていないからそんなことが言えてしまうのだ。

 今日、首長選挙に立候補することを宣言した友人がいる。私と一緒に議員活動をしていたけれど、私たちの勢力が大きくなってきて、あとひとりで五分五分という時に、相手側に引き抜かれた人だ。だから私の仲間には憎い裏切り者で絶対許せないと言う人もいるが、私は、私が出来なかったことをやってくれるのだからむしろ有難いと思っている。嫌うよりも好きになった方が気持ちがいいではないかと思う。

 愛して欲しいと思うけれど、自分のことばかり求めれば相手もイヤになるだろう。愛してくれなくてもいい、声をかけてくれなくてもいい、ひたすら待つだけの恋でもいい。そんな人になれたらいいと思う。まだまだ修行の足りない私には無理なことかも知れないが、「心から誰かを愛したことがありますか」と自分に問い聞かせなくてはと思う。
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小学5年のストライキ

2010年02月20日 23時06分00秒 | Weblog
 小学校の6年のクラス会の打ち合わせに出かけた。私の小学校は小さな城下町のお城の近くにあった。随分古い学校で、私が通っていた頃に、ちょっと自信がないけれど開校70年か80年だった。私自身の記憶では開校百年と思っていたけれど、学制が発布されたのが1872年なので、私の小学校時代に百年はありえない。ただ、藩校としてすでにあったということならば、そういうこともありうるかとも考えた。

 とにかく古い学校で、モルタル塗りの校舎の南には天皇陛下の写真が置かれたという奉安殿が残っていた。私たちが通う頃は、松、竹、梅、桃、桜、藤、桐の7組あったように思う。クラス替えは2年毎だったので、5年と6年は同じクラスだった。その5年生の時、まだ始まってそんなに経っていなかったけれど、とても気心の知れた仲の良いクラスだったのか、男子はみんな授業の始まる前から学校に来ていて、学校にある沼で遊んでいた。その時、誰かが「今日はストライキだ」と言った。丁度その頃、私たちの町の工場ではストライキが流行っていた。

 小さな城下町だったけれど、自動車を中心に工場がどんどん建設され、そこで働く人たちの子どもが増えてきた時だった。だからストライキと言う言葉も自然だったと思う。学校から近くの公園に移動し、ドジョウやフナを捕って遊んでいた。学校の授業開始の鐘がなり、一瞬みんなに緊張感が走った。誰かが「今日はストライキだから学校へは行かない。ここにいては捕まるかもしれないから、これから境川へ行こう」と提案した。みんなそれに賛成して、学校からさらに遠い川へと向かった。

 けれども、学校から遠のくにつれて、「もう、学校へ帰らないと叱られる」とか「やっぱり、帰った方がいい」とか、言い出す子がいた。そういう子は学校へと帰っていった。そうなると、「ここにいたら捕まる」と言う子もいて、「もっと遠くへ行こう」と言う子と「学校へ帰った方がいい」と言う子に分かれた。そして、歯が抜けるように残る子が少なくなった。どういうわけか、私は学校へ戻ろうというグループではなかった。むしろ、みんなで決めたのにそれを裏切ることが許せなかった。人は当てにならない、自分の身のために友だちを見捨てる、そういういうことがあることをこの時思い知った。

 このストライキ事件がきっかけで私は大人になった。それまでは、教室でも手を上げたことのないおとなしい消極的な子だった。どうして手を上げることが出来ないかと言えば、自信がなかったからだ。そこで、それまでは予習を一度もやったことがなかったのに、前の日に教科書を読むようになった。人前に出るのが恥ずかしかったけれど、出なければ自分の引っ込み思案の性格を変えることは出来ないぞと言い聞かせて、できる限り人前に立つように努力した。6年生では児童会の会長に自分で立候補した。

 自分が努力すれば性格も変えられると小学校の6年の時にはっきりと判った。それを教えてくれたのは亡くなった同級生の坂田英行君だった。あいつのおかげで私は大人になれた。そのことを彼に言ったことがあるが、彼は何のことだかわからないという表情だった。ありがとう、坂田。オレはお前の分まで生きてやるよ。
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団塊世代論

2010年02月19日 23時37分05秒 | Weblog
 「団塊の世代はわがままで、上司としては最低」「壊しただけで、何も創らなかった」「体制に反対しながら、結局は体制にどっぷり浸かり、ぬくぬくと体制を支えてきた」。そんな批判が団塊世代の下の世代から上げられた。私は団塊世代の直前だけれど、団塊世代と共に歩んできたように思っていたので、「イヤそうばかりではないと思うよ」と言いたくなる。私も団塊世代も日本が戦争に負けて、新しい時代が始まった時を生きてきた。戦後の民主主義教育を受けて育った最初の世代といえる。

 私たちの両親は富国強兵の柱のもと、神国日本の子どもとして育てられた。父親の多くは戦場へ赴き、地獄を体験してきた。戦争に負けたことで、これまでの価値観が一変してしまい、心の支えを無くしてしまった。それでも、よくわからないままに新しい日本の建設に真面目に取り組んできた。私たちの上の世代、思春期に敗戦を迎えた世代は民主主義国家の建設を夢見ていた。いわゆる「60年安保」を牽引した世代だ。彼らは安保闘争に敗北し、大きな挫折感を抱いていた。私が大学生になった時、60年安保を熱く語った先輩たちには、思いとは裏腹に虚しさが漂っていた。

 そして団塊世代は、「60年安保」世代を超えようとしていた。確かに下の世代からは「破壊しただけ」とか「結局は体制の担い手になった」との批判を受けることになったけれど、彼らもまた「60年安保」世代と同じ経過をたどることになった。思えばそれが人の歴史なのかもしれない。何時の時代でも、自分の体験から自分の生き方を深く考えていくタイプと、全く違う方向へ向かうタイプがある。団塊世代は社会への反逆を行なってみたものの、社会は一部の者が過激に戦ってもびくともしない。それなら組織に加わってそこから変えていこうとしているうちに、何時しか組織の上の方に位置し、安住してしまった者も、相変わらず組織嫌いを貫き一匹オオカミで生きている者もいる。

 団塊世代が生み育てた子どもはすでに30代になっている。無差別殺人のような社会問題を起こしている世代だ。新しい社会の仕組みが新しい問題を作り出し、繰り返しながら社会は、全体として昨日よりは今日、今日よりは明日へと確実に進歩していくのだろう。世代という特徴があらゆることを支配しているわけではないのだろうけれど、共に同じ時間を生きてきたという点で、全く違う生き方をしていながらどこかに共通するところがあるのかもしれない。世代論でものごとを片付けることは無理があるけれど、世代論が闊歩するのもその共通性にあるのだろう。

 私は「60年安保」世代と「70年全共闘」世代とに挟まれ、中途半端な世代と長く思ってきた。「60年安保」世代のような思慮もなく、「70年全共闘」世代のような攻撃性もなく、どちらの仲間にも入れないことをもどかしく思ってきた。でも、両方を見ることが出来る。むしろそこに価値を見出せばよいと思うようになった。
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人は皆、愛を求めています

2010年02月18日 20時29分40秒 | Weblog
 何時だったか、NHKテレビが「世界で農地の争奪戦が始まっている」と特集していた。私は自分のブログを仕上げることに追われて、テレビは見なかったけれど、いつもならテレビを子守唄にしてコックリコックリやっているカミさんが、真剣に見ているのでビックリした。「食糧危機が始まるのね」と言うから、「本当はもう始まっているということじゃーないの。どちらが先かは分からないけれど、飲料水が足りなくなるから、水の争奪戦も予想されているよ」と答える。

 軍備を増強して国境を守っているような時代ではなくなるだろう。人口が限りなく増幅すれば、その食料はどこで確保するのか。エネルギーも節約型に切り替えているけれど、地下資源には限りがある。そうなれるからエネルギーの争奪戦である。アメリカのイクラ侵攻は石油の採掘権の確保ためと専門家は指摘しているくらいだ。そして、水だ。海水から真水を取り出す技術の開発が国を挙げて行なわれている。私たちがこの地球に住み続けようとすれば、いろんな問題を地球規模で解決していかなければならない。

 もう各国単位で考えるような次元ではないだろう。地球全体の総合的なプラン造りなくしては解決できない。各国がそれぞれのエゴで動いていたのなら、人類は必ず破滅するだろう。人の智恵が先か、破滅が先か、いずれにしても私たちはもうこの世には存在しない。孫の時代か、いや曾孫かそのまた子どもか、30世紀が来る前には結論が出るのだろうか。オリンピックで各国がメダルの数を競い合っているけれど、国を単位とする思考を放棄しない限り地球全体の生存などは考えられないのではないか。

 そんな夢想に浸っていると、エホバの証人の女性がやってきた。「どうぞ上がって」と招き入れたけれど、カミさんがいないと知ると「玄関先でいい」と遠慮する。別にいくら女性でもそんなに警戒することはないだろうと思いながら、彼女の話を聞く。未だに戦争は無くならず不況で働く場所もなく、政治は行き詰まっているばかりか悪くなっていると話し、「これからどうなると思いますか?」と言う。「いや、歴史は神が人間を導いている過程なのです。どうなるかは神が決めていることで人は決めることは出来ません。人間は出来ることをやっていくしかないのです」と答える。

 「神の国からサタンは追放されたけれど、このどこかには存在していることは分かりますか?」と聞くので、「ええ、人間は残念ながら弱い存在です。誰も悪い人間になろう、悪いことをしてやろうとは思ってはいません。けれども憎んだり、羨んだり、盗んだり、結果としてはいろんな罪を犯しています。だからこそ、キリスト教に限らず人は助けを求めているのです」と答える。『親鸞』を読み終えて、人は皆、罪を恐れ、善人になろうとするのだと思った。「人々が何を求めているかと言えば、それは愛だと思います。神という絶対の愛、あるいは人が人として生きていく上で欠くことのできない愛、愛を人は求めています」と、私の方が宣教師になっていた。

 彼女が言うように、いつかこの世の終わる時がくるだろう。別に恐れることはない。生きている者の運命であるのだから。いっきに来るのかひとり一人にゆっくり来るのか、そんなこともたいした違いではないと思う。
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